1.「言葉より行動を」①
1911年6月22日――。
ロンドンは初夏の穏やかな陽気だった。
今日、英国の新国王が戴冠する。
ウェストミンスター大聖堂に参集する国内外の要人、連れだって街に繰り出すロンドンっ子。
仲間とパブで乾杯しようとしている熟練労働者、家庭内の慎ましいパーティーの準備をする中産階級の夫人、友人主催の昼食会に高級車で乗り付けようとしている貴族の夫妻――。
新時代を歓迎する人、恐れる人、どちらでもない人――いずれにしてもロンドンの街は興奮に包まれていた。
しかし、当代のメラヴェル女男爵ことアメリア・ローズ・グレンロスは、その喧騒の中にはいなかった。
彼女はメイフェアの自邸<メラヴェル・ハウス>2階の図書室の奥にある長椅子に一人静かに座っていた。
図書室にいるというのに、読書好きの彼女にしては珍しく本の一冊も開いていない。
今、彼女の頭に浮かぶのはただ一つ。
――これが最後。
"最後"という言葉が胸にずしんと響いた。
それは彼女の確信であり、決意であり、義務だった。
彼女は在宅用ドレスのレースの襟を軽く撫でた。
仕立て屋にやや暗い栗色の髪と赤みのある唇によく合うと言われて仕立てたガーネット色のドレス。
未婚のレディには少し派手な気がして、暫くクローゼットの奥に眠らせていた。
しかし、着てみればなるほどよく似合う気がした。
――いずれにしても、最後なのだからかまわないわ。
彼女は自分にそう言い聞かせた。
そして、午前11時過ぎ。
静まり返った屋敷の玄関が開く音がした。
彼女が招いた客人が到着したのだ。
廊下を歩く客人の靴音が徐々に近づいてくる。
彼女のヘーゼルの瞳は図書室の扉に向けられていた。
あの扉が開けば終わりが始まる。
――これが最後。
"最後"にしなければならなかった。どうしても。
***
その“最後”にアメリア・グレンロスはどんな選択をしたのか。
それを明かすにあたっては、その一月前に発生した凄惨な殺人事件の話から始めなければならない――。
1911年5月末に起きたその事件は、19世紀以来の"大英帝国"の繁栄の功罪と切っても切り離せない関係にあった。
「改革の世紀」と呼ばれる英国の19世紀。
その19世紀中になされた種々の自由主義的改革――自由貿易の促進、参政権の拡大、労働環境や公衆衛生の改善――は“大英帝国”の繁栄として結実し、ヴィクトリア朝時代の英国人に恩恵をもたらした。
しかし、当然、全ての人に恩恵が行き渡ったわけではなかった。
時代が華やかなエドワード朝に移っても、社会の辺縁の人々――女性や子供、労働者、植民地の人々の権利は疎かにされたままだった。
1911年から遡ること3年、1908年、法廷弁護士だった故リチャード・プレストンの未亡人ミセス・プレストンことモード・プレストンと数人の仲間がロンドン郊外のリッチモンドで<郊外女性参政権運動同盟>――通称<SWSA>を創立して女性参政権運動に乗り出したのも、そんな背景があってのことだった。
そして、<SWSA>創立から3年が過ぎた1911年5月末のある水曜日の夕方。
創立当時から変わらず代表の地位にあるミセス・プレストンはロンドン市街での用事を終えて、列車でリッチモンド駅に帰還したところだった。
彼女は駅で辻馬車を拾うとすぐに<SWSA>の本部に向かった。
そこにいるはずの<SWSA>幹部であり友人でもあるミセス・グリーヴスことヘレン・グリーヴスに会いに行くことを思い立ったためだった。
資産家のヘレンはこの3年間、<SWSA>の活動資金を提供してくれていたが、彼女の貢献は資金の提供だけに留まらなかった。
ヘレンは美的感覚に優れた女性だった。
彼女の才能は<SWSA>が行進の際に使用する旗や襷の制作において大いに発揮された。
“行進”とは主張を掲げながら大人数で街を歩くアピール手法で、当代の英国において女性参政権運動を含む政治運動でよく用いられている。
しかし、<SWSA>代表としてミセス・プレストンが追求したのはただの行進ではなかった。
彼女は行進に参加する運動家の女性が"女性らしい"印象を与えることを重視していた。
当代の英国においては、女性は政治的主張を持っているだけで"女性らしくない"存在――秩序から逸脱した存在だとみなされがちだ。
そう思われてしまったら最後、彼女たちの主張に耳を傾けてもらうことすら困難になる。
その点、ヘレンが作る優雅な旗や襷はそのイメージを覆し、彼女たちが社会に適合的な存在であると示すのに非常に有用だとミセス・プレストンは考えていた。
特にミシンの扱いに長けたヘレンが自ら縫製した旗は、他のどの組織の旗より美しかった――。
そして、その美しい旗に象徴される通り、これまでの3年間、<SWSA>の活動はあくまで女性らしく平和的合法的に行われてきた。
しかし、昨年1910年のある事件を境に情勢は変わった――というのが今のミセス・プレストンの見解だった。
――私は先に進むわ。
――でも、ヘレンとアグネスは……。
ミセス・プレストンは本部が入っている建物の前で辻馬車を降りると、すぐに3階へと階段を上った。
3階の本部の扉を開けると、室内は静まり返っていた。
5月のリッチモンドは午後9時頃まで日が沈まないが、窓のない玄関ホールは既に薄暗かった。
ホールの壁に掛かっている時計の針の音だけがやけに大きく感じられた。
時計は午後4時40分を指していた、とミセス・プレストンは記憶している。
――やけに静かだけど、ヘレンはいるはずよね?
最近のヘレンは、来月6月に予定されている<女性の戴冠式>というイベントで行う行進のための旗や襷、衣装の制作に取り組んでいる。
それを知っていたミセス・プレストンは、ヘレンは作業室にいるのだろうと思っていた。
作業室は狭い玄関ホールを過ぎてすぐの左手の部屋で、ミシンもそこに置かれている。
ミセス・プレストンはまず作業室内の音を確認した。
ミシンの操作中に邪魔が入るのをヘレンは何より嫌うのだ。
彼女は作業室が静かなのを確認してから扉をノックした。
しかし、さみしげにノックの音が響いただけで返答はなかった。
――ヘレンはいないのかしら?
ミセス・プレストンはそう思いながらそっと作業室の扉を開けた。
しかし、彼女は中には入れなかった。
代わりに狭い廊下を二、三歩後ずさった。
ヘレン――おそらく、彼女に違いない――は作業室の中にいた。
ただ、通常の状態ではなかった。
扉の方に背を向けて床に横たわっている彼女はピクリとも動かなかった。
その背中にはナイフが刺さったままで、淡いグリーンの外出着のジャケットの背中が赤く染まっていた。
そして、流れ出した大量の血が彼女が横たわる絨毯に染みを作っている。
流行りの髪型に整えられた輝くブロンドの髪だけが昨日最後に会ったときと同じだった。
ミセス・プレストンは口を開けたが、声が出なかった。
代わりに何か掠れた叫び声が喉の奥から漏れた。
この後、巡査から質問を受けた彼女は、もっと部屋の様子をちゃんと見ておけば良かったと思うことになる。
しかし、そのときの彼女は、どうしても部屋の中まで入る気になれなかった。
ヘレンが亡くなっていることは確実だった。
なぜなら、彼女は少しも動かなかったし、あんなに夥しい出血では――。
それでも何とかミセス・プレストンは扉を閉めると、廊下の壁に捕まりながら出口を目指した。
とにかく2階に降りなければならなかった。
<SWSA>本部には電話がないからだ。
電話が必要なときはいつも2階のグリーヴス弁護士事務所の電話を借りていた。
"グリーヴス"というからには、先ほど作業室で動かなくなっていたヘレン――つまり、ミセス・グリーヴスの夫で事務弁護士のミスター・グリーヴスの弁護士事務所だ。
ミセス・プレストンはやっとの思いで2階に降り、弁護士事務所の重い玄関扉を開けた。
そして、いつも通り右手に進むとすぐに見知った顔に出会った。
ミスター・グリーヴスの秘書ミスター・レニーが秘書用のデスクでタイプライターを使っていた。
「こんにちは、ミセス・プレストン、どうされました?電話ですか?」
ミスター・レニーはいつもの調子だった。
「ミスター・レニー、助けてもらえるかしら。警察に電話したいの」
ミセス・プレストンは自分が思ったより普通に話せていることに驚いた。
「警察?本部に空き巣でも入りました?」
「いえ、ヘレンが――ミセス・グリーヴスが……」
――"殺されたみたい"。
とは到底口に出して言えなかった。
ミスター・レニーはそれ以上は何も聞かず電話台まで彼女を案内した。
ミセス・プレストンが受話器を取ると、電話はすぐに交換手に繋がった。
「警察に繋いでください」
応答を待つ間、ミセス・プレストンは数回深呼吸をした。
背中に汗が伝っている。
グレーの手袋で覆われた手も汗でびっしょりだ。
その内にミスター・レニーのデスクの前の執務室からミスター・グリーヴスが出て来て、電話台の方に近づいて来た。
きっと執務室で仕事中だったところ、部屋の外のただならぬ気配に気が付いたのだろう。
「一体何が――?」
とミスター・グリーヴスが電話台の近くで待機しているミスター・レニーに話しかけたところで、ようやく、電話の向こうで交換手が「お繋ぎします」と言った。
警察の担当者が応答すると、ミセス・プレストンは頭の中で考えていた言葉を一気に話した。
「ミセス・プレストンと申します。すぐに来ていただきたいのです。女性の背中にナイフが刺さって……亡くなっています。場所はウェストストリート9番地の<SWSA>本部です。女性の名前はミセス・グリーヴスです」
ミセス・プレストンは、近くにいたミスター・グリーヴスが息を呑むのを聞いた。
いつも冷静な事務弁護士の彼は声を上げたりはしなかった。
ミセス・プレストンはその後の警察との会話をあまり覚えていないが、ミセス・グリーヴスの状態を訊かれ、わかる範囲で答えたと思う。
警察はとにかく巡査を送ると言った。
彼女が受話器を置くと、ミスター・グリーヴスが即座に話しかけて来た。
「今のは本当ですか?ミセス・プレストン。妻が本部で亡くなっていると……?」
「ええ、血が……酷いのです。ごめんなさい、本当に」
ミセス・プレストンは自分が何に対して謝っているのかわからなかった。
しかし、他に言えることがなかった。
「とにかく、確認しないと……」
ミスター・グリーヴスは絞り出すような声で言った。
額には汗がにじんでいるが、彼はそれを拭おうとはしなかった。
「一緒に来てくれますね?ミセス・プレストン」
ミセス・プレストンは正直もう本部には戻りたくはなかった。
しかし、反射的に頷いていた。




