26.初めての訪問①
1911年6月初め、ある火曜日の午後。
メラヴェル女男爵の母ミセス・グレンロスは、外出の準備をすっかり整えて<メラヴェル・ハウス>の応接間に落ち着いていた。
この後、彼女は娘と共に親戚が主催する夕方のお茶会に出かける予定だが、その前にある客人を迎えることになっていた。
しかし――。
「悪いけど、あなたが何を言っているのか私にはさっぱりわからないわ、アメリア」
ミセス・グレンロスはひどく困惑していた。
彼女の手袋で覆われた指先が外出に備えて髪に留められている帽子のつばを無意識に撫でた。
目の前にいる大事な一人娘メラヴェル女男爵ことアメリア――彼女もまた外出に備えて優雅な淡い薔薇色の訪問用ドレスと控えめなピクチャーハットを身につけている――の話は彼女の理解を超えていた。
「お母様、ごめんなさい。今お話ししたことが全てなの。つまり――」
アメリアの話はこうだ。
以前から彼女に好意を示していた紳士、ウェクスフォード侯爵家の三男アルバート卿が今から彼女を訪ねて来る。
――これはいいわ。
――急ではあるけれど、昨日の内に取り急ぎ訪問カードを送ってくださってはいるし。
――それに何より、これまでの経緯を思えば遅すぎるくらいなのよ。
ここ最近、ミセス・グレンロスはこの紳士の過度な慎重さに苛立っていた。
だから、遂に娘が訪問の約束を取り付けてきたことは非常に喜ばしいことだった。
――でも……。
「昨日、私が彼に今日訪ねてくださるようにお願いしたの――」
――これは正直大問題。レディの方から紳士に訪問をお願いするなんて!
――とはいえ、まあ、彼はアメリアが少し変わった子なのは知っているはずだからきっと大丈夫だわ。
――だから、本当の問題は……。
「――それで彼を地下の裁縫室にご案内したいのよ。"実験"のために」
改めてその計画を聞いたミセス・グレンロスは床に倒れ込みそうになった。
しかし、彼女はソファに座っていたので、実際にはその背もたれに背中を預けるだけで済んだ。
「アメリア、侯爵のご子息を使用人区画にご案内するなんてどう考えてもおかしいわよ」
「あら、大丈夫よ。彼は『お望みのままに』とおっしゃったもの」
アメリアがそう言ったところで、応接間の扉が開き、執事のミスター・フィリップスが客人の到着を告げた。
「まあ、時間通りね。応接間にお通ししていたら時間がもったいないから、私たちが玄関ホールまで行きましょう」
そう言いながらアメリアは応接間を出て行こうとした。
だが、ミセス・グレンロスはソファに沈み込んだままだった。
あまりのことに彼女にはこれ以上娘を咎める気力が残っていなかった。
アメリアはそんな母を振り返ってため息交じりに言った。
「お母様、お願いだから付いて来てくださいな。アンソンが一緒だとしても、アルバート卿と私が二人きりなんて許されないことでしょう?」
娘の言う通りだった。
言う通りではあるのだが、ミセス・グレンロスは全く納得できなかった。
――ああ、この子は絶対に父親に似たのよ。
――グレゴリーほど変わった人を私は知らないもの……。
ミセス・グレンロスは亡き夫を責めながら、重い足取りで娘に続いた。
***
「ごめんなさいね、アルバート卿。昨日お伝えした通り、母と私は暫くしたら叔母の家に出かけなければならないものですから。本当はお茶の一つでもお出ししたいのですけれど……」
アメリアが詫びると、アルバート卿は「いえ、構いませんよ」と言ってこの事態を面白がるように微笑んだ。
彼らは<メラヴェル・ハウス>の地下、使用人区画にある裁縫室にいた。
付き添いのためのミセス・グレンロスと"実験助手"のミス・アンソンも一緒だ。
「それで、"実験"とは、やはりこのミシンを使ったものなのでしょうね、レディ・メラヴェル?」
アルバート卿はそう言いながら目の前の黒い足踏みミシンに視線を移し、注意深く観察するように目を細めた。
二人のやりとりを聞いているミセス・グレンロスは、恨めしそうな視線をアメリアに――そして、今やアルバート卿にも向けていた。
どうして娘を止めてくれないのかとでも言いたげだ。
「ええ、当家のミシンは事件現場にあったものと年式は違いますが同じメーカーの足踏みミシンなので、それを使います。そうだったわね、アンソン?」
「おっしゃるとおりです、お嬢様」
ミス・アンソンは落ち着き払って答えた。
彼女は自分の主人が少し変わったレディであることにはすっかり慣れていた。
「では、"実験"の前にまず、事件当日のことを改めて確認します」
アメリアは一同を振り返った。
「ご主人のミスター・グリーヴスによると、事件当日、被害者ミセス・グリーヴスは午後2時に事件現場の<SWSA>本部に到着し、ミシンで旗を縫っていたということでした。そして、午後3時にベネット母子と書記補佐の女性たちが本部を訪れ、会合中に彼女がミシンを操作する音が聞こえたと証言しています。更にベネット母子に限っては、午後4時に彼らが本部を出るときにもミシンの音を聞いたと言っています」
アメリアの言葉に全員が頷いた。
「これらの証言から私たちは被害者は午後4時まで――もしくは、ベネット母子の証言が嘘だったとしても少なくとも会合の途中の午後3時台まで――はミシンを操作していた、つまり、生きていたと考えていました。しかし――」
アメリアはそう言いながらミシンを振り返った。
今、メラヴェル男爵家のミシンは普通の状態ではなかった。
「しかし、もし――ミシンの音が聞こえたのは、被害者自身が操作をしていたからではなかったとしたらどうでしょう?もし、被害者以外の誰かが離れた場所からミシンを操作できたとしたら?」
裁縫室にいる一同がミシンを見つめた。
今、そのミシンには奇妙な細工が施されていた。
まず、足元にある格子状の足踏みペダルの奥側に二冊の本が赤い紐で括り付けられていた――本の重みでペダルは奥側に傾いている。
更に、ペダルの奥側の中央辺りにも赤い紐が結び付けられていて、その紐はミシン背面を通り、壁を伝って上方へと伸びていた。
「午前中にアンソンに協力してもらってこの細工をしました。何もしなければペダルが常に奥に傾くように二冊の本を錘として括り付け、ペダルの奥側に結び付けた紐を壁伝いに上へと伸ばしています。ご覧の通り、この部屋のミシン台の背面の壁は間仕切り用の後付けの壁なので、上部がところどころ高窓のように空いています。そこで、その空いた部分に紐を通して、隣の家政婦長の執務室から紐を引っ張れるようにしました」
アメリアがミス・アンソンに目で合図すると、彼女は裁縫室を出て行った。
程なくして、隣の家政婦長の執務室に彼女が入室する音が聞こえた。
「アンソン、始めてちょうだい!」
アメリアが少し大きな声で言うと、ミシンのペダルに結びつけられた赤い紐が引っ張られた。
隣室からミス・アンソンが引っ張っているのだ。
すると、紐が壁の上部に通されている部分が支点となり、紐に引っ張られたペダルの奥側が持ち上がり、ペダルが手前側に傾いた。
そして、紐を引っ張る手が緩められると、本の重みでペダルはまた奥側に傾いた。
これを繰り返すと、ペダルが前後に傾き続ける――アメリアが先日薬局で見た揺れる天秤のような動きだ。
裁縫室には、ペダルのカタカタという音が響いていた。
「なるほど。これなら、部屋の外から聞いただけだとまるで誰かがミシンのペダルを足で踏んで操作しているように思わせることができますね」
アルバート卿がミシンのペダルの動きから目を離さずに言った。
「ええ、そうなのです。本当にミシンを動かしたい場合は、先に横のハンドルを回してからペダルを踏まなければなりません。そうでないと、針が動かないのです。でも、ペダルの音を立てるだけならこうして本の錘と紐を使ってペダルを動かすことができれば十分です」
アメリアはそう言ってから、隣の部屋のミス・アンソンにもう戻ってきて良いと合図した。
ミス・アンソンが裁縫室に戻って来ると、アメリアは一度頷いて彼女への感謝を示した。
今、この"実験"の成功がアメリアの心を静かに満たしていた。
先日自分が"探偵"のような活動をすることに躊躇いを感じていたのが嘘のようだった。
――やっぱり、私はこうして事件の謎を解くのが好きなのだわ。
――そして、もしかすると、そういう私でも彼は……。
アメリアが無意識にアルバート卿に視線を向けると、彼もまた彼女を見ていた。
その青みがかった灰色の瞳は明らかに輝いていた。




