25.天秤③
その後、彼らは暫くミセス・ベネットの無実を証明する方法について議論を重ねたが、結局、それを強く主張できるほどの要素を見つけることはできなかった。
そうなると、息子であるトーマスが母の共犯でないと言い切ることもできない。
アメリアは、ベネット夫妻には悪いが、やはり現時点では警察の上層部の伝手を探ることは控えるべきだと思った。
「私は第一発見者になんてなりたくなかったけれど、結果的には、皆にとって幸運だったのかもしれないわ」
議論が一段落したところで、ミセス・プレストンが独り言のように呟くと、議論疲れでソファに沈み込んでいたミスター・トーマスがそれに同調した。
「……そうかもしれませんね。あなたが第一発見者でなければ、一番怪しいのは演説会を抜け出して本部に戻った僕でした。それに僕も本部に戻らなければもっと悪かった。演説会後に母が予定通り彼女に会いに行って最有力の容疑者になるところでした」
「それに比べて私は午後1時半から4時頃まではロンドン市街にいたという確かなアリバイがありますから。ヘレンは事前に睡眠薬を飲まされていたらしいけれど、私にそれは不可能ですからね。……私だって急進派に転向したら逮捕を恐れず活動するけれど、女性参政権運動のために逮捕されるのと、やってもいない殺人のために逮捕されるのは全く違うわ」
ミセス・プレストンはそう言って肩を竦めた。
会話が途切れたところで、アメリアがさり気なく部屋の時計を確認すると、既に訪問から数十分が経過していた。
そろそろ辞去した方が良さそうだ。
「そろそろお暇しますわ。皆さんありがとうございました」
アメリアがそう言うとアルバート卿とミセス・プレストンも一緒に辞去することになった。
***
ミスター・グリーヴスは律儀にも三人を下まで見送ると言ってくれたので、ミスター・トーマス以外の四人は揃って弁護士事務所を出た。
階段を下る途中で、先を歩いていたミセス・プレストンが隣を歩くミスター・グリーヴスに向かって言った。
「あなたがトーマスの身元を引き受けてくださって良かったわ。まだ彼の疑いが完全に晴れたわけじゃないのに手を差し伸べるなんて、本当に寛大だわ」
「いやいや、私もトーマスが犯人でありっこないことくらいわかっていますよ。しかし、彼の両親は学校からも家からも彼を追い出すとは、随分と厳しいですね。こういう場合、少なくとも母親は息子に甘くなりそうだが」
ミスター・グリーヴスは考え込むように、きちんと整えられている髪を一度だけ撫でた。
「あのご夫妻は常に足並みが揃っているのよ。夫婦として理想的だわ」
「そうでしょうか?私にとってはリチャードとあなたの夫婦が最も理想的でしたよ。リチャードは優秀で頼れる夫でした」
「でも、彼は私が急進派に転向するのをどう思うかしら?」
「おや、お分かりでしょう?あなたにその急進さを植え付けたのは彼ですから大賛成ですよ。……亡くなっても尚、彼はあなたを導いている」
「どうかしら?まあ、私は彼が反対したって先に進みますけどね」
ミセス・プレストンが冗談めかして言ったところで一同は一階のホールに到着した。
アメリアとアルバート卿は、そこで二人に別れを告げた。
しかし、彼らはまだ話し込んでいた。
「――ところで、ミセス・プレストン。私もあなたと同じく<女性の戴冠式>をもって<SWSA>を脱退することにしましたよ」
「そう……あなたの場合はもう女性参政権運動から手を引くということね?」
――あら、ミスター・グリーヴスは女性参政権運動自体をやめてしまうのね?
アメリアは玄関扉の方に向かいながらも、彼らの会話に耳を傾けた。
彼女の前を行くアルバート卿も顔を少し後ろに向けて、彼らを気にしているようだ。
「ええ、そうです。妻が亡くなったからでもありますが、今後運動は益々過激になる気がしてなりません。リチャードだったら大歓迎でしょうが、私は……」
「そうでもしないと、目標を達成できないのが現実ですよ」
「しかし……私は去年のあの"ブラック・フライデー"以来、そうまでして女性参政権を獲得すべきなのかわからなくなりました」
アルバート卿が開けてくれた扉をできるだけゆっくりと通過したアメリアは、最後に一度だけ二人を振り返った。
「あなた、疲れているのよ。お子さんとゆっくりした方がいいわ」
「ええ、そうかもしれません」
そう答えるミスター・グリーヴスは、やはりひどく疲れているように見えた。
***
建物を出た後、アメリアとアルバート卿は、一階の薬局のショーウィンドウ前で少し議論することにした。
「率直に言って、今、あなたは何をお考えです?レディ・メラヴェル」
アルバート卿はアメリアに向かい合って問いかけた。
「未解決の謎が多すぎて、正直戸惑っていますの。ただ、『誰が』については、アリバイの観点からやはりミセス・ベネットへの疑いが一番濃くなりますわね」
「そうでしょうね」
アルバート卿は深く頷いた。
「ただし、ミセス・ベネットが犯人だとすると説明できない謎が残るのも事実ですわ。例えば、なぜ彼女は睡眠薬を大量に飲ませて毒殺する方法を選ばなかったのかしら?」
アメリアは頬に手を当てて考え込んだ。
――以前、アルバート卿が言った通り、ナイフで人を刺すのは重労働だわ。
――ミセス・ベネットのような小柄な女性がそれを選ぶ理由なんてあるかしら?
彼女は一つため息をついてから続けた。
「それから、事件現場にも多くの謎があります。作業室の通気口の蓋が外れていたこともそうですし、先ほどミスター・ベネットの証言によってミシンの傍に落ちていた二冊の本はミシンのペダルに引っかかっていた可能性も出てきました」
――それに、私はまだアンソンが現場で気が付いたことも聞き出せていない……。
「あとは、動機の謎ですね?」
アルバート卿が顎に手を当てながらアメリアに問いかけた。
「ええ。仮に、ミセス・ベネットが犯人だとすると、やはりミスター・ベネットの結婚問題が動機としては最有力です。しかし、それだけで殺人を犯すでしょうか?被害者が亡くなったとしても結婚が無効になるわけでもないのに……」
――それとも、その選択へと傾いていく決定的な出来事があったのかしら……。
アメリアが思考の海に沈みかけたところで、アルバート卿が不意に「ああ!」と声を上げた。
「忘れるところでした。動機に関係してあなたにお伝えしたいことがありました」
アルバート卿は上着の内ポケットから一通の手紙を取り出した。
数日前にアメリアが今日のリッチモンド行きについて相談するために彼に送った手紙のようだ。
「先日の手紙であなたが動機の鍵になりそうな出来事をまとめてくださった箇所なのですが――」
確かにその手紙の中でアメリアは事件に関係する出来事をまとめていた。
アメリアはアルバート卿が広げた手紙を覗き込んだ。
そこには彼女の筆跡で以下のように書かれていた。
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・3月、ミセス・グリーヴスがトーマス・ベネット夫妻の結婚の証人になった。
その際に、ミスター・トーマス・ベネットがミセス・グリーヴスから聞いた言葉:
「結婚はよく考えてするものよ。私たちもいつの間にか別の方向を見るようになっていたと思うこともあるわ」
・4月初め、ミセス・プレストンが急進派への転向を表明。
・4月、ミセス・ベネットが聞いたグリーヴス夫妻の会話:
ミセス・グリーヴス「今さら立ち止まることなんてできるわけがないわ」
ミスター・グリーヴス「このままだと誤った方向に進むことになる」
ミセス・グリーヴス「とりあえず寄付は月次で続けるから」
・5月初めの年次総会で、ミセス・グリーヴスが<SWSA>への寄付方式を年額一括から月次に変更。
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「この4月のグリーヴス夫妻の会話ですが、この会話について証言したミセス・ベネットは最後のミセス・グリーヴスの言葉を『でも、とりあえず寄付は月次で続けるから』と言っていたと思うのです」
アルバート卿は手紙の中の4月時点でミセス・ベネットが聞いた被害者の言葉を指さして言った。
「あら、私のメモだと『でも』が抜けているということですね?」
「ええ、大勢には影響しないかもしれませんが……」
アメリアは「でも」の有無の影響に考えを巡らせた。
「いいえ、大きな違いですわ。『でも』があるのとないのとでは全体の意味合いが変わりますもの」
――「とりあえず寄付は月次で続けるから」だと直前のミスター・グリーヴスの言葉との関係ははっきりしないわ。
――一方、「でも、とりあえず寄付は月次で続けるから」だとミセス・グリーヴスは直前のご主人の言葉を否定する意図があるということね。
――だとすると……。
その内にアメリアのヘーゼルの瞳の輝きが増してきていた。
閃きとまではいかないが、これが何かに繋がりそうな気配があった。
アメリアがふと顔を上げると、アルバート卿がそんな彼女の様子を見て僅かに微笑んでいた。
「アルバート卿、あなたがいてくださって良かったわ」
アメリアの唇からついそんな言葉が零れた。
彼女は慌てて視線を逸らし、薬局のショーウィンドウに向き直った。
――明らかに言い過ぎよ。
――慎みに欠けると思われてしまったかしら。
アメリアは彼の表情が気になるものの、そちらを見る勇気が持てず、ショーウィンドウの向こう側の薬剤師の作業を熱心に見ているふりをした。
すると、アルバート卿が彼女の横顔を見ながら切り出した。
「レディ・メラヴェル、前に言いかけたことですが――」
彼女は彼の言葉に耳を傾けつつも、視線は薬剤師の手元に向けていた。
「あなたさえ良ければ、今度あなたをお訪ねしても良いでしょうか?これまでのように妹の付き添いではなく、私が私的にあなたを訪ねるという意味です。もちろん、この事件が落ち着いてからで――」
アルバート卿の言葉はそこで途切れた。
アメリアがもう薬剤師の作業を見ている"ふり"をしているわけではないことに気が付いたからだった。
今や彼女は薬剤師の作業を食い入るように見つめている。
「レディ・メラヴェル?」
「アルバート卿、見てください。あの眼鏡を掛けた薬剤師の手元――」
彼女が示したのはカウンターの奥にいる薬剤師だった。
「ああ、黒髪の彼ですね?天秤で薬の重さを量っているようだ」
その薬剤師は両皿天秤を使って粉薬を計量していた。
一方の皿に二つの分銅を載せ、もう片方の皿にそれと釣り合う量の薬を載せようとしている。
天秤は未だ釣り合わず、ゆらゆらと揺れていた。
そして、それを見つめるアメリアのヘーゼルの瞳には、確かな閃きが走っていた。
「……アルバート卿、レディ・グレイスはまだロンドンに戻っていませんね?」
アメリアが揺れる天秤から目を離さずに言った言葉に、アルバート卿は思わず眉を寄せた。
「ええ、妹は来週にならないと戻りませんが……」
「でも、先ほどあなたはレディ・グレイスの付き添いではなく、私的に私を訪ねたいとおっしゃいました」
アルバート卿は何故か急に自分の靴のつま先に傷がついていないか気になり、足元に視線を落とした。
「ああ、聞いていたんですね?……まあ、言いました。当然、事件が解決した後の話ですよ。どうやらその様子だと解決は近――」
「それだと遅すぎますわ」
アルバート卿が顔を上げると、アメリアのヘーゼルの瞳が彼を見つめていた。
その瞳にはいつにない煌めきが映っている。
「どうかレディらしくないお願いだと思わないでいただきたいのですが――」
彼女は彼から一瞬も視線を逸らさずに言った。
「明日私を訪ねると約束してください、アルバート卿。あなたと“実験”したいことがあります」
それを聞いて彼は一度瞬きをしたが、その口元にはすぐにいつも通りの少し皮肉な笑みが浮かび、青みがかった灰色の瞳はアメリアの煌めく瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「……ずっと以前からわかっていたことですが、あなたは実に興味深いレディですね」
そして、もちろん、彼女のヘーゼルの瞳に捕らえられた彼に、選択肢はただ一つしかなかった。
「しかし、そういうことならば、レディ・メラヴェル。あなたのお望みのままに」
その言葉にアメリアは満足そうに微笑んだ。




