23.天秤①
ミスター・レニーの案内で、アメリアとアルバート卿、ミセス・プレストンは、ミスター・グリーヴスの執務室に入った。
左手側のデスクの椅子に座って何かの書面にサインをしていたミスター・グリーヴスは、すぐに立ち上がって彼らを出迎えた。
相変わらず専門職階級の紳士らしい几帳面に整えられた口ひげが印象的だ。
ミスター・グリーヴスはまずアメリアの方に歩み寄って挨拶した。
「女男爵様、先ほどは大変失礼しました。事務弁護士のミスター・グリーヴスと申します」
アメリアは緊張を押し殺しながら挨拶のために手を差し出した。
先日、現場検証後に彼と鉢合わせした際、アメリアは"ミセス・グリーヴスを追悼しに来た匿名の女性参政権運動家のレディ"を演じたが、その"レディ"と同一人物だと気づかれるわけにはいかなかった。
同じ人物が短期間に違う口実で現れるのは怪しすぎる。
ミスター・グリーヴスが犯人であればそれこそ危険だし、そうでなくても、彼がアメリアが過去にも事件現場を訪れていたことを誰かに話せば犯人に伝わる可能性がある。
前回、アメリアは自動車用のヴェールで顔を覆っていたので、顔立ちまではよく見えなかったはずだが、やはり不安ではあった。
ただ、その点はミス・アンソンが最大限工夫していた。
彼女は、この訪問が決まった時点からアメリアが着るべき服を吟味し、最終的にレースで装飾された瑠璃色の訪問用ドレスを選んだ。
活動的なベージュのストライプの外出用スーツだった前回と対照的に、今回は繊細なレースと聖母マリアを象徴する色彩で女性らしい優雅さを演出するためだろう。
更に、髪型も、前回は高さを出すアップスタイルだったが、今回は横に広がりのあるまとめ髪に整えてくれていた。
特に帽子を被ると正面から見える髪の量に差が出るので、異なる印象を与えられるはずだ。
「ごきげんよう、ミスター・グリーヴス。レディ・メラヴェルです」
ミスター・グリーヴスに手を取られながら、アメリアはなるべく短く答えた――声を覚えられている可能性がある。
彼はアメリアを観察するようにその緑の瞳を細めたが、結局は、何も言わずにアルバート卿との挨拶に移って行った。
アメリアは心の中で息をつき、自動車で待たせているミス・アンソンのことを思った。
今日も彼女はアメリアに付き添ってリッチモンドに来ているが、前回ミスター・グリーヴスに直接顔を見られていることから弁護士事務所には入らなかった。
――それにしても……。
――前回アンソンは、現場で気づいたことがあったのに、ミスター・グリーヴスの「女性は些末なことを気にし過ぎる」という言葉のせいで何も言えなくなってしまったのだったわ。
――こうして彼を出し抜けるくらい優秀なのだから、自信を持って考えを話してもらいたいものだけど……。
そう考えながら、アメリアは執務室の中を観察した。
この執務室はミセス・グリーヴスの遺体が発見された<SWSA>本部の作業室の真下にあるが、面積はこちらの方が広かった。
部屋を入って左手側が作業室に比べてかなり拡張されている。
その左手側に置かれているデスクの上は書類で溢れていた――実に事務弁護士らしい。
ただし、案件ごとにきちんと整理されているようだ。
アメリアは、その中に赤い紐で束ねられた書類の束を見つけて、懐かしさを感じた。
赤い紐は公文書の印だ。
法廷弁護士だったアメリアの亡き父のデスクの上にも赤い紐で束ねられた公文書が積まれていることが多かった。
それから、アメリアはデスクの背後、部屋の入り口から見て左手側の壁面の本棚に視線を移した。
当然その本棚は法律関係の本でいっぱいだった。
一方、右手側の壁面には本棚はなく、いくつか絵画が飾られていた。
中央の"立派な"紳士の肖像画は、瞳の色がミスター・グリーヴスと同じなのでおそらく彼の父か祖父なのだろう。
アメリアが視線を順に奥の絵画へと移すと、最後に奥の壁面の上方にある通気口に行きついた。
位置関係からして、その通気口は一つ上の階の作業室の通気口の真下に位置しているようだ。
作業室の通気口は蓋が取れてむき出しになっていたが、この部屋の通気口は六ケ所ほどをネジで固定された蓋で覆われていた。
――作業室の通気口も元々はこんな風に蓋で覆われていたはずだけど、あんなにしっかり留められている蓋が自然にはずれるとは思えないわ。
――やっぱり、故意に外されたと考える方が理屈に合うと思うのだけど……。
アメリアはふと、先日侯爵家の兄妹と調書を検討した際、レディ・グレイスがまさかこの通気口をミスター・グリーヴスが通ったわけではあるまいと冗談半分に言ったのを思い出した。
この部屋の通気口は真上の事件現場の作業室に繋がっているが、やはりどう見ても人間が通ることはできない。
――人間が通るのは不可能だとしても、何か別の使い道があるものかしら?
ちょうどそこでミスター・グリーヴスが皆に着席を勧めた。
ミスター・グリーヴスはデスクの椅子に座り、アルバート卿はデスクの正面の一人掛けソファを選んだ。
アメリアは迷った末、最奥の窓際の椅子に座ることにした。
そこなら全員の表情をさり気なく観察できると思ったのだ。
その近くの長椅子にはミセス・プレストンが座った。
そして、案内役だったミスター・レニーが執務室から出て行くのと入れ違いに、ミスター・トーマス・ベネットが皆に紅茶を運んできた。
紅茶を配り終えた彼がデスクの横のソファに落ち着くと、まず、ミスター・グリーヴスが話し始めた。
「お二人のことはミセス・ベネットから伺いました。元々は女男爵様のお母様が<SWSA>への資金提供をご検討くださっている件で、ミセス・プレストンとベネット母子がお二人と知り合ったと。ところが、このような状況になったので、今はトーマス……というより、ベネット母子の疑いを晴らすために警察上層部への伝手をご紹介いただけるかもしれないということでしたね?」
ミスター・グリーヴスは二人を探るような視線を向けたが、アルバート卿が落ち着き払って答えた。
「ええ。ただ失礼ながら、お二人が無実であるという確信なしに紹介することはできませんから、詳しくお話を聞かせてください。私も事前に事件について警察の知人に聞きましたが、目下の問題はミスター・ベネットが事件当日、一度演説会に行った後、密かに本部に戻って現場にあった旗に工作をしたことで警察に疑われてしまったことでしたね?」
問いかけられたミスター・トーマスはミスター・グリーヴスに向けて軽く頷いてから話し始めた。
「卿のおっしゃる通りです。ただ、母も僕も殺人には一切関係していません。事件当日、僕が本部に戻ったのは、母とミセス・グリーヴスの仲を取り持ちたいと考えたためでした。母がお二人とミセス・プレストンにもお話ししたようですが、母と彼女はここ最近気まずい関係になっていました。僕が両親の反対する女性と結婚したときに、ミセス・グリーヴスを騙すようにして結婚の証人にしたせいです」
そう言って彼は自分のティーカップに視線を落とした。
「事件当日、僕は、母が演説会後に本部でミセス・グリーヴスと会うことを知っていました。なので、先に彼女と話して、母と仲直りしてくれるよう説得したかったのです。二人の友情のためでもありますが、母と気まずくなったことを理由にミセス・グリーヴスが<SWSA>を脱退してしまうことを防ぎたかったのが一番の理由でした。彼女の寄付がないと、<SWSA>は活動できませんから。しかし、僕が本部に着いたときには彼女はもう亡くなっていました。後でミスター・グリーヴスが独自に調べてくださいましたが、既にミセス・プレストンが彼女の遺体を発見した後だったようです」
アルバート卿は彼の言葉に頷いた。
アメリアはエヴァレット巡査部長から聞いた話を事前に彼に手紙で伝えていたので、彼もバスの乗客の証言とバスの到着時刻から、ミスター・トーマスには少なくともそのタイミングでの犯行は不可能だとわかっているだろう。
「しかし、なぜ旗に工作などと、疑わしい行動を?」
続けてアルバート卿が問うと、ミスター・トーマスは一つため息をついてから答えた。
「お恥ずかしいことに、僕は遺体を見てすっかり気が動転して、あろうことか母が殺したのだと思い込んでしまったのです。それで、咄嗟にその場にあった旗に、ペンで"DEEDS NOT WORDS"(言葉より行動を)という急進派のスローガンを書きました。ミセス・グリーヴスは、僕の結婚のような私的な事情からではなく、政治的な動機で殺されたのだと印象づけたかったのです。今にして思えばそんなことをするべきではありませんでした」
ミスター・トーマスは申し訳なさそうな視線をミスター・グリーヴスに向けたが、ミスター・グリーヴスはただゆっくりと頷いた。




