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22.思わぬ再会②

 数日後、アメリアは再びリッチモンドの<SWSA>本部が入っている建物を訪れた。

 今回は現場検証のためではなく、ベネット夫妻からの依頼に基づいて、同じ建物に入っている<グリーヴス弁護士事務所>でミスター・トーマスに面会するためだ。

 事前にアルバート卿に手紙で連絡したところ、ベネット夫妻は彼にも同じ内容の手紙を送っていたらしく、自然な流れで彼が今回も同行してくれることになったのは心強かった。

 

 更に、ミスター・トーマスとの面会には、事務弁護士としてのミスター・グリーヴスと<SWSA>代表のミセス・プレストンも同席予定だ。

 ミスター・グリーヴスには、先日、匿名の貴族女性として偶然会ってしまったので、同一人物だと気づかれないよう上手くやらなければならない――とはいえ、アメリアはこの点にはそれなりに自信があった。

 

 そして、ミセス・プレストンの同席は非常に有難かった。

 アメリアが紳士がいる場に出るときは、どうしても付き添い役が必要になる。

 母ミセス・グレンロスが、親戚でも友人でもなく階級差もあるミセス・プレストンを付き添い役として認めたのは、ほとんど奇跡だった。

 彼女が自分と同じ法廷弁護士の未亡人であることが、辛うじて母の基準に適ったらしい。

 同じ法廷弁護士でも、貴族の血筋で勅撰弁護士にまで上ったアメリアの亡き父と中流中産階級生まれで実力一本で資格をとったミセス・プレストンの亡き夫とでは、属する階級が異なるのがこの階級社会の難しいところだ。


 アメリアは建物の急な階段を上りながら一つため息をついた。


 ――それにしても、こんなに制約だらけの私が"探偵"のような活動をすることに意味はあるのかしら……?

 

 アメリアは一度"探偵"に関する自分の考えを整理すべきだと感じていた。

 

 ――私は"探偵"でありたいのかしら。

 ――私に"探偵"なんてできるのかしら。

 ――そもそも、私は"探偵"であるべきなのかしら……。

 

 自問していたアメリアの脳裏にふと、アルバート卿の額の傷跡――前回の殺人事件を解決する過程で負ってしまった傷だ――が思い浮かんだ。

 そこでちょうど<グリーヴス弁護士事務所>の入り口に到着した彼女は、そのイメージを振り払うように目の前の重い扉を押し開けることに集中した。

 アメリアが予想以上の扉の重さに苦労していると、扉のガラス越しに室内側から一人の男性が近づいて来るのが見えた。

 その赤茶色の髪の男性は内側から扉を開いてアメリアを中に入れると、礼儀正しく挨拶をした。


「初めてお目に掛かります。私はミスター・グリーヴスの秘書のレニーと申します。あなたはおそらく……」

「はじめまして、ミスター・レニー。ええ、私がレディ・メラヴェルです」


 アメリアが手を差し出すと、ミスター・レニーは恭しく手を取って握手をした。

 彼は上流階級の扱いに慣れているらしい。

 ミスター・グリーヴスには上流階級やその少し下の地主層の顧客が多いのかもしれない。


「あいにくミスター・グリーヴスはまだ前の面会中ですが、ミスター・ベネットがロビーにおります」


 そう言って、ミスター・レニーはまずミスター・トーマス・ベネットのところにアメリアを案内した。

 ロビーの椅子に座っていたミスター・トーマスはアメリアの姿を見るとすぐに立ち上がって挨拶をした。


「こんにちは、女男爵様。ご足労いただき申し訳ありません。僕は警察の指示でリッチモンドを離れられないものですから……」

「こんにちは、ミスター・ベネット。あなたのご両親からの熱心なご要望にお応えしようと思っただけですから」


 アメリアはミスター・トーマスが手振りで勧めてくれた長椅子に腰を下ろした。

 その間に、ミスター・レニーが思い出したように上着のポケットを探った。


「そうだ、ミスター・ベネット。午前中に君のお母さんがこれを届けに来ていましたよ」


 ミスター・レニーはポケットから取り出した小さな包みをミスター・トーマスに差し出した。

 

「ああ、ありがとう。ミスター・グリーヴスが僕がよく眠れていないのを母に言いつけたんです」

 

 ミスター・トーマスは包みを受け取りながら眉を寄せた。

 

「それにしても、お母さんは君に直接渡せばいいのに」

「勘当した手前、僕とは顔を合わせないようにしているんですよ」

「やれやれ、さすが厳格な教師のご両親だ」

 

 ミスター・レニーは半分からかうように言い、ミスター・トーマスは深い溜息をついた。

 そして、ミスター・レニーはアメリアに礼儀正しく「それでは後ほど呼びにまいります」と言って、廊下の奥に消えていった。


 アメリアはミスター・トーマスが手に持っている包みの中身が気になったが、詮索するわけにもいかず、彼がそれをポケットにしまう様子を横目で見るだけに留めた。


 ――『よく眠れない』ということは中身はやはり……?

 

 アメリアが思案していると、程なくして新たな訪問者が玄関扉を入って来た。

 チャコールグレーのラウンジスーツに黒いボウラーハット、そして、黒檀の杖を持った若い紳士――アルバート卿だ。

 彼はすぐにアメリアとミスター・トーマスを見つけて彼らに歩み寄り、一同は挨拶を交わした。

 アルバート卿がアメリアから少し離れた椅子に落ち着くと、ミスター・トーマスが改めて切り出した。


「この度は、両親が大変な無理を申しまして……」

「ご両親はあなたを勘当なさったということですが、やはり内心では心配されているのですね」


 とアメリアは穏やかに言った。

 

「ええ、まあ。特に母は非常に心配しているようです。でも、当然、勘当の方も本心です。両親はいつだって中産階級の規範――つまり、"立派であること"を重視していますから。だから、いつも二人の考えが一致するのです。まさに"理想の夫婦"でしょう?」


 ミスター・ベネットはいささか皮肉な口調で続けた。


「お二人もお聞き及びの通り、僕は両親の賛同を得ないまま結婚したことで、家から追い出されました――警察の捜査を撹乱してしまったこともありますが、両親が本当に気にしているのは結婚の方です。両親は僕が”立派であること”から外れたと思っています。しかし、僕は、逆にこうするしか"立派"であり続ける方法はなかったと考えています」

「というと?」


 訝しげに尋ねたのはアルバート卿だった。

 

「貴族の方々ほどではないにしても、僕たち中産階級の結婚も、ほとんど家の意向で決まります。すると、両家の利害は一致しても、夫婦の相性がまるで合わないということが往々にして起こります。それでも離婚が論外なのは貴族の方と同じですが、僕たち中産階級の困ったところは、どんなに不幸な状況でも外に愛情を求めることすら許されない点です。なにせ、僕らは"立派"でないといけませんから」


 ミスター・トーマスはそのダークブラウンの髪を一度かき上げた。


「だから僕は確かな愛情で結ばれている女性を妻にする必要があったのです。そうすれば、不幸を回避できます。例えば、今回、僕はミセス・グリーヴスを騙すのには正直反対でしたが、愛情があったお蔭で、彼女の考えを受け入れることができました。結果、僕たちは無事に法律上の夫婦となり、あとはこの既成事実をもって両親を説得して教会で式を挙げるだけです。そう考えると、僕たちのような愛のある夫婦こそ新しい時代の"立派な"夫婦――"理想の夫婦"ではないですか?」


 ミスター・トーマスが話している間中、アルバート卿は控えめに咳ばらいをしていた。

 話し終えたときにそれにようやく気づいたミスター・トーマスは視線を落とし、ほとんど聞き取れない声で謝罪の言葉を述べた。

 未婚の貴族のレディ――しかも、先日の誤解によりアルバート卿と婚約目前ということになっている――の前で、離婚やら"外の愛情"やらと直截に語り過ぎたことを自覚したらしい。

 

 アメリアは何も言わずに微笑みながら頷いて、彼に話の続きを促した。


「ええと、話を戻しますが……母は依然僕が警察から疑われていることを心配しています。ただ、僕はどちらかというと、僕より母の方が警察に疑われ始めているのではないかと思うのです」


 この見解にはアメリアも同感だった。

 ミスター・トーマスの犯行を証明できないとすると、次に警察の目が向くのは、会合中に一人になった時間があったミセス・ベネットだろう。


「なので、後ほどその辺りをミスター・グリーヴスも交えてご相談させていただけると――」


 そう言いかけたミスター・トーマスは廊下の方に目を向けた。 

 ミスター・グリーヴスが廊下の奥から顧客と共に歩いて来ていた。

  

「ご足労いただきありがとうございました。サー・マーク」


 ロビーに着いたミスター・グリーヴスは顧客の紳士に礼儀正しく挨拶した。

 ”サー・マーク”と呼ばれた彼は、30代前半くらいの恰幅の良い紳士だった。

 アメリアがそっとアルバート卿を見ると、彼はその紳士を見ながら何か思案しているようだった。

 

「従弟の婚姻契約の件で世話になったばかりだがまたよろしく頼むよ。ミスター・グリーヴス」


 そう言うと、サー・マークは手に持っていたホンブルク帽をかぶりながら玄関を出て行った。

 サー・マークの姿が見えなくなると、ミスター・グリーヴスはロビーを振り返って言った。


「ご挨拶もせず申し訳ございません。緊急の仕事が入ったので少しお待ちを。トーマス――いや、仕事中はミスター・ベネットだった――君も来てくれ」


 ミスター・グリーヴスは慌ただしく奥に戻り、ミスター・ベネットも二人に会釈して彼の後に続いた。


「アルバート卿、今のサー・マークは……?」


 二人が行ってしまうと、アメリアは先ほどのミスター・グリーヴスの顧客についてアルバート卿に問いかけた。

 "サー・マーク"といえば、この辺りの大地主で、熱心な"反"女性参政権運動家の奥方を持つ准男爵に違いなかった。

 彼は、ミスター・グリーヴスの顧客でもあるらしいので、この弁護士事務所にいてもおかしくはない。

 アメリアが気になったのは、サー・マークに対するアルバート卿の反応だった。

 彼は先日の交流会でもその名を聞いて驚いていたように見えた。


「実は、先日の交流会の後、准男爵名鑑で調べてわかったのですが――」


 アルバート卿が言いかけたとき、再び玄関の扉が開いた。

 入ってきたのは帰ったはずのサー・マークだった。

 それを見たアルバート卿は即座にアメリアに視線を送った。

 アメリアは彼の意図を誤らず汲み取り、明後日の方向を向いた。

  

 先ほどのアルバート卿の反応からして、彼とサー・マークが知り合いなのは間違いない。

 そんなサー・マークにアメリアのような未婚のレディが彼の連れだと思われると厄介なことになる。

 先日の子爵夫人のように穏当な誤解をしてくれたとしても、婚約者同士ですら未婚の男女が二人きりで外出していたと思われれば大変な醜聞になるし、まさか事件の捜査をしていると言えるはずもない。

 

 ――今は赤の他人を装うべきね。


 アメリアは偶々視線の先にあったキューガーデンズを描いた風景画に見入っているふりをした。


「ああ、やはり君か、ハーコート。懐かしいね」


 サー・マークはアルバート卿に近づいて手を差し出した。

 アルバート卿も立ち上がって、その手を握った。

 

「レスタリック、お久しぶりです。こんなところでお会いするとは。ボート部での日々を思い出しますよ」

「私もだ。さっきは気づかなくて悪かった。なにせ私が18歳で部の主将だったとき、君はまだほんの13歳の新入生だったからね。でも、その髪と瞳は絶対にウェクスフォード侯爵家の子息だ。だから、階段を下りる途中で確信して戻って来たんだ」


 アメリアは風景画に視線を集中させながらも耳をそばだてていた。


「先ほどミスター・グリーヴスに"サー・マーク"と呼ばれていましたね?」

「ああ、そうなんだ。准男爵だった伯父とその息子が相次いで亡くなって、ただの”ミスター・レスタリック”から准男爵の"サー・マーク・レスタリック"になってしまったのさ」


 サー・マークがため息交じりに言った。


 ――アルバート卿は、イートン校時代の先輩が継承予定ではなかった准男爵位を継いでいたことに驚いていたのね。

 

 アメリアがそう考えながらアルバート卿をちらと見ると、彼は何か思案していた。


「……そうすると、レディ・レスタリックはあなたの奥方ということですね?」


 彼はサー・マークから事件に関係する話を聞き出そうと、まずは話題を女性参政権運動のことに近づけようとしているらしかった。

 

「まさか君たち貴族の間でもレディ・レスタリックの"活躍"が噂になっているのかい?例の"反"女性参政権運動のことで?」

「熱心に活動されているようですね」


 アルバート卿は無難に相槌を打った。

 

「困ったものだよ。私自身も女性参政権には反対だが――レディは余計なことに頭を使わず、心安く過ごすべきだからね――妻は明らかに反対運動にのめり込み過ぎだ」


 サー・マークは一度天を仰いだ。


「彼女は私がミスター・グリーヴスを事務弁護士として頼ることにもいい顔をしないんだ。……詮索はしないが、君もこの弁護士事務所に来たということは、彼の優秀さを知っているだろう?」


 問いかけられたアルバート卿は曖昧な頷きを返したが、サー・マークは特に気にする様子もなく続けた。

 

「ミスター・グリーヴスは間違いなく優秀な事務弁護士だ。なのに、妻は彼が女性参政権運動に関わっているのが気に入らないのさ。事務弁護士の能力に政治思想は関係ないのに」


 サー・マークは大げさに嘆いた。

 そこでアルバート卿が更に話題の誘導を試みた。

 

「しかし、彼は最近は運動とは距離を置いていると聞きました。例の事件のせいでしょうか?」


 アルバート卿が意味ありげな視線を向けると、サー・マークは神妙に頷いた。


「そうだろう。妻と私は事件の数日前からリッチモンドを離れていたんだが、屋敷に残していた執事からの手紙で知ってとにかく驚いたよ。今、知り合いの警視に早く事件を解決するよう発破をかけているんだ。しかし、ついこの間なんか地元の教師の青年を捕まえたりして……的外れもいいところだ。今はこの弁護士事務所で働いている青年だよ。教師の一家に生まれた禁酒主義者の真面目な青年が殺人犯なわけないだろうに」


 そこで言葉を切ったサー・マークは周囲を見回してから一段と声を低めた。


「実は、私は例の事件の前週にグリーヴス夫妻をディナーに招いたんだ――妻が別の夜会に出かけている隙にね。最近までミスター・グリーヴスに依頼していた従弟のレイモンドの婚姻契約が遂に結ばれたから、ちょっとしたお礼のつもりだった」


 アメリアは思わず眉を上げた。

 

 ――事件前週のグリーヴス夫妻はどんな様子だったのかしら?

 

 それに呼応するようにアルバート卿がすかさず切り込んだ。


「そのときは何もおかしなことはなかったのでしょうね?」

「もちろん。ミセス・グリーヴスは相変わらず輝くブロンドの美人だったし、グリーヴス夫妻は普段通りの"理想の夫婦"だったよ。優秀で頼りになる夫と美しく従順な妻さ。ミスター・グリーヴスは女性参政権に賛成しているが、何も家庭内での夫婦の役割を否定しているわけじゃない。寧ろ彼は模範的な夫だよ。だから、私はレイモンドにも彼を見習うように言ったんだ」


 些か興奮してきた様子のサー・マークにアルバート卿が頷いて続きを促した。

 

「『今後はミスター・グリーヴスのような堂々たる一家の長にならないといけないぞ。妻にさえ従ってもらえないようじゃ男として二流だ』ってね。だが、レイモンドときたら新時代の紳士を気取って『これだからヴィクトリア朝生まれは困るんだ。花嫁が今の言葉を聞いたら僕は間違いなく捨てられるね』だなんて言ったものだから、つい喧嘩になってしまったよ」


 サー・マークは今や憤然としていた。


「当然グリーヴス夫妻はひどく困惑していたさ。ミセス・グリーヴスは『確かに最近のお若いレディには自分の考えというものがありますから』なんてレイモンドの機嫌をとってくれたが……今思い出しても恥ずかしい。そもそも、レイモンドだって今年30歳のヴィクトリア朝生まれだぞ。なのに――」


 サー・マークはそのまま従弟について何か言っていたが、ちょうどそこで奥の部屋から秘書のミスター・レニーがやってきた。


「サー・マーク、どうされました?忘れ物でしょうか?」


 ミスター・レニーに声を掛けられて、サー・マークの話はようやく終わった。


「いやいや、このハーコート――アルバート卿はイートン時代の後輩でね。つい話し込んでしまった」


 そう言って、一通り親族の愚痴を言って満足したと見えるサー・マークは、アルバート卿とミスター・レニーに改めて挨拶をして今度こそ帰って行った。

 すると、入れ違いに背の高い女性――ミセス・プレストンが玄関を入ってきた。


「皆さん、ごめんなさい。遅れてしまったかしら?」

「いえ、大丈夫ですよ、ミセス・プレストン」


 ミスター・レニーが穏やかに答え、一同に向けて声を掛けた。


「皆さま、大変お待たせしました。ミスター・グリーヴスの執務室にご案内します」

"立派"=Respectable

仕様によりルビが振れませんでした。

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