表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

23/24

21.思わぬ再会①

 その後、ミセス・ベネットに迎えが来たのを機に一同は解散した。

 アメリアも早々に自邸<メラヴェル・ハウス>へと戻り、自室の書き物机の前に座った。

 先ほどはミセス・プレストンとミセス・ベネットの手前、表明できる推理が限られたが、一人になった今、ようやく自由に検討できるようになった。

 

 ――あの場では、やはり<SWSA>の会員、特にミスター・ベネットを犯人とする推理を口にすることはできなかったわ。

 ――だから、彼が再度本部に戻ったとき被害者は既に亡くなっていたと仮定したけれど、正直、その時点での彼女の生死は断定できない。

 ――彼女がまだ生きていたとしたら、本部に戻ったミスター・ベネットが何らかの理由で殺人を犯してしまった可能性がないとは言い切れない。

 ――それから、彼女が既に亡くなっていたのだとしても、それより前の会合中の時点でベネット母子のいずれか、もしくは両方によって、殺された可能性は残るわ。

 ――その場合、ミスター・ベネットは後になって旗に細工することを思いついて、そのために戻ったという説も成り立つ……。

 

 アメリアは引き続き思考の海に沈みながらも、書き物机の引き出しから手紙用の紙を取り出した。

 先ほど二人の女性から頼まれたこと――ミスター・トーマスの釈放を警察上層部に掛け合うこと――は当然覚えていたが、その手紙を書くためではなかった。

 ミスター・トーマスの無実を確信できないのに、そこまでするのは危険が大きすぎる。

 

 結局、彼女はヘイスティングス警部宛に、ここまでの推理といくつかの確認依頼を書き送るだけに留めることにした。

 ただし、その手紙では、ミセス・プレストンが被害者から前日に受け取った手紙を隠し持っていることには敢えて触れなかった。

 先ほどの帰り際、ミセス・プレストンは警察上層部との繋がりが確立されるまではその手紙の存在を伏せたいと言っていた。

 アメリアは、この点についてはひとまず彼女の意向を尊重することにした。

 

 ***


 そして、数日後、事態は意外な展開を見せた――。


「女男爵様、警部からお手紙を差し上げた通り、思わぬことになりました」


 その日の午後、アメリアは<メラヴェル・ハウス>の応接間で母ミセス・グレンロスとともにエヴァレット巡査部長を迎えていた。

 その前日に届いた警部からの手紙で、ミスター・トーマス・ベネットが早々に釈放されたことが既に知らされていた。

 巡査部長は、その仔細を説明するため、非番の日を利用して訪ねて来たのだ。

 

「ミスター・グリーヴスは予想以上に優秀な事務弁護士でした。彼がトーマス・ベネットの犯行が不可能であることを証明してしまいました」


 エヴァレット巡査部長は、傍らの紅茶を一口飲んでから説明を続けた。


「数日前、警察は、事件当日に<SWSA>本部近くのバス停でバスを降りた乗客――偶然にもトーマスの教え子の父でした――が降車直後に、トーマスが現場の建物に入って行くのを見たという証言を得ていました。そのバスはバス停に午後4時半に着くことになっていたので、我々はトーマスが午後4時半に本部に戻ったと考えて彼の容疑を固めました」


 彼は誤った見解を改めて披露することに気が進まないようで、短いため息をついた。


「つまり、こういうことです。トーマスは午後3時台に本部で会合をしていた間に、何らかの方法で被害者に睡眠薬を飲ませておき、午後4時半に再度本部に戻って眠り込んでいる被害者を殺害した。そして、その10分後の午後4時40分に本部を訪れたミセス・プレストンが遺体の第一発見者となった――」


 巡査部長はそこで一旦言葉を切って肩を竦めた。


「ところが、ミスター・グリーヴスの独自調査により、その日に限ってバスがかなり遅れていたことがわかりました。実際にバスがバス停に到着したのは午後4時50分だったのです。すると、トーマスが現場に戻ったのは午後4時半ではなく午後4時50分だったことになります」 

「午後4時50分というと、ミセス・プレストンが警察に通報した時刻なので、ミスター・ベネットが本部に戻ったときには、既にミセス・プレストンが遺体を発見した後――彼に犯行は無理だということですわね」


 アメリアが確認すると、巡査部長は頷いた。

 

「ええ、おっしゃる通りです。それで警察はひとまず彼を釈放せざるを得ませんでした。まあ、ミセス・プレストンと彼が共犯として何らかの工作を行った証拠でもあれば違ったのでしょうが、そんなものがすぐに見つかるはずもなく……」


 アメリアは巡査部長の言葉を受けて、ミセス・プレストンとミスター・トーマスが共犯である可能性について考えを巡らせた。

 しかし、事件当日ミセス・プレストンは本部を訪れるまでずっとロンドン市街にいたため彼女にできたことは少なく、また、二人が僅か10分差で本部を訪れることに合理的な意味を見出せないので、二人が共犯である可能性は低いように思われた。


 ――だとすると、ミスター・ベネットが本部に戻った時点で、被害者は亡くなっていたと考えるのが妥当なのだわ。

 

「これで捜査はまた振り出しに戻りました。ローシュ警視は明らかに不満を募らせています。どうやら地元の地主の准男爵サー・マーク・レスタリックから秩序回復のため事件の早期解決を迫られているようです」

 

 巡査部長は視線を落としたが、その内に気を取り直して顔を上げた。

 

「ところで、女男爵様が警部に手紙で書き送ってくださった推理――ミセス・グリーヴスがハワースでトーマスの結婚の証人になったことと、トーマスが旗に急進派のスローガンを書いたことですね――はやはり事実と考えて良さそうです。前者は、ハワースの登録所の記録で確認されましたし、相手のフレッチャー家も認めています。後者の旗のスローガンの方も、母に説得されたトーマス本人が認め、彼が過去に書いた文字と癖が一致しました」

「あら、では、結局ほとんどあなたの推理通りだったのね、アメリア」


 少し離れたソファで話を聞いていた母ミセス・グレンロスが言った。

 アメリアは”探偵”として得意になっているように見えないように注意しつつ母に笑みを返し、続けて巡査部長に尋ねた。


「しかし、警察はミスター・ベネットを完全に無実と判断したわけではありませんわよね?」

「もちろんです。特に、午後3時台の会合の合間にベネット母子のいずれかが、もしくは、母子が協力して、被害者を殺害した説は依然有力だと思います。トーマスの結婚問題が明らかになったことで、それが動機の線も出てきましたね」


 エヴァレット巡査部長の言葉にアメリアは頷いた。

 

 そこで、アメリアは前日に受け取った警部からの手紙の内容について尋ねたかったことを思い出した。

 現場の作業室のミシン台の上にあった二冊の本――J.S.ミルとウルストンクラフトの著作――の件だ。


「そういえば、警部が例のミシン台の上の本について、ミスター・グリーヴス本人に確認した結果を手紙で知らせてくださいました。彼は、遺体を確認した際にミシンの傍に落ちていた二冊の本を拾い上げてミシン台の上に置いたと話したそうですね。これまでそれを警察に言わなかった理由については何か聞いていますか?」


 エヴァレット巡査部長は、「少々お待ちください」と言いながら上着の内ポケットから手帳を取り出して、何度かページを捲った。


「ええと……ミスター・グリーヴスは、二冊の本を拾い上げた理由については、奥様の愛読書だったので床に広がった血で汚れるのを防ぎたかったと言っていましたが、これまで警察に言わなかった理由については、単に訊かれなかったからということのようです」


 巡査部長の答えを受けてアメリアは考えた。


 ――やっぱりこの二冊の本が気になるけれど……事件にどう関係するのかしら?


 アメリアは現場のミシンの傍に二冊の本が落ちているイメージを思い浮かべようとした。

 すると、不意に別の謎のことが彼女の頭を過った。


「そうだわ、巡査部長。先日、事件現場で私の侍女のアンソンがあなたに何か質問をしていましたわね?彼女は何を質問したのかしら?私から彼女に訊いても教えてくれないのです」

「はい、確かにミス・アンソンから質問を受けました。ええと、あれは……」


 問いかけられたエヴァレット巡査部長は顎に手を当てて記憶を探った。


「ああ、ミシンについてでした。ミシンに矛盾がなかったかと訊かれました」

「彼女は"矛盾"と言ったのですか?」

「ええ、"矛盾"と言っていました。でも、警察の現場検証では何の異状もなかったので、そうお伝えしました。しかし、何故ご本人は言いたがらなかったのでしょうね?」


 アメリアは巡査部長の問いに曖昧に微笑み、再度現場のミシンの様子を頭に思い描いた。


 ――現場のミシンは動作には問題なさそうだったわ。

 ――糸立てには水色の糸がセットされていて、細い針に通されていたはず。

 ――現場の旗には水色の糸でバイアステープが縫い付けられていたのだから、少なくとも糸の色は矛盾しない……。

 ――アンソンが言った"矛盾"とは一体……?


「不躾にごめんなさいね。警察が見過ごした何かがある……なんてことは考えられるかしら?」

「もちろん『ありません』と言いたいところですが、私もミシンには詳しくなくて何とも……」


 と巡査部長が肩を竦めて言ったとき、応接間の扉がノックされた。

 

 ミセス・グレンロスが入室を許可すると執事のミスター・フィリップスが銀盆に載せた一通の手紙を運んできた。

 彼は控えめながら執事らしい威厳をもって話し始めた。


「来客中に申し訳ございません。先日お嬢様からご指示のあった"事件関係者リスト"上の名前と同じ姓の差出人から手紙が届きました。巡査部長がいらっしゃる間に確認なさりたいのではと存じまして」

「ありがとう、ミスター・フィリップス。あなたの言う通りよ」


 アメリアは、ミスター・フィリップスには事件の詳細を話していないが、手紙や電報が届いた際に注意してほしい“事件関係者リスト”を渡しておいて正解だった。

 アメリアが早速銀盆から受け取った手紙を確認すると、差出人はハーバート・ベネット夫妻――間違いなくトーマス・ベネットの両親だ――だった。

 彼女は巡査部長に一言断って、手紙を開封した。


「あら……ベネット夫妻は私にリッチモンドまで来てほしいようだわ」


 アメリアはそう呟きながらまだ控えていたミスター・フィリップスに合図して、読み終えた手紙を母ミセス・グレンロスの元に運んでもらった。


「今読んだ手紙に書いてありましたが、ミスター・トーマス・ベネットは警察にリッチモンドから離れないよう指示を受けているのですね?」


 アメリアは、母が手紙を読みながら顔を顰めているのを横目に巡査部長に質問した。


「ええ、まだ疑いは晴れていませんし、旗に工作したことは事実ですから」

「しかも、彼はお父様の学校での職を追われて、家からも追い出されたとか」


 これにはアメリアの心も少し痛んだ。

 自由の身になったミスター・トーマスだが、旗に工作して捜査を撹乱したこと、また、親が反対している結婚を強行したことが公になり、両親に勘当されてしまったらしい。

 冷たいようにも思えるが、"立派な"中流中産階級の家庭としては標準的な対応だ。


「ええ、ただ、彼の身元は今や彼の事務弁護士でもあるミスター・グリーヴスが引き受けています。彼を自邸に居候させてやって、更に弁護士事務所での職も与えているようです」 

「まあ、まだその若者が無実と決まったわけでもないでしょうに」


 ちょうど手紙を読み終えたらしいミセス・グレンロスが言った。

 確かにまだ自分の妻を殺した容疑が完全には晴れていないミスター・トーマスの世話をするなんて、"立派な"中産階級の紳士らしい行動ではあるが、相当寛大なのは間違いない。

 

 ミセス・グレンロスは続けて巡査部長に問いかけた。


「巡査部長、ベネット夫妻は娘にミスター・トーマス・ベネットから直接話を聞いて欲しいと言っています。どうやら、彼らの息子が釈放されたのは娘のお蔭だと誤解しているようですの。彼の話を聞いた上で、彼が再度警察に疑われることがないよう警察の上層部に改めて諮ってほしいそうですが、どう思われます?」


 エヴァレット巡査部長は顎に指をかけて少し思案した。


「正直、『警察の上層部に諮ってほしい』というのは非常に困ります。でも、女男爵様はトーマス・ベネットが犯人である可能性が残っている内には、そんなことはなさらないとは思っています」


 そう言って巡査部長は穏やかに微笑んだので、アメリアも同意の意味で微笑みを返した。


「一方、女男爵様が『トーマスの話を聞く』件ですが……こちらは率直に言って、願ったり叶ったりかもしれません。というのも、彼の容疑が晴れたことで、捜査は混迷を極めています。相変わらず<SWSA>の幹部の犯行の可能性を探りたいローシュ警視は、本部の明け渡しを来週水曜日に後ろ倒しにして血眼になって現場検証をやり直していますが……」


 エヴァレット巡査部長は首を振って、所在なさげに膝の上で手を組んだ。

 

「そんな状況なので、我々も何か糸口が欲しいのです。もし、女男爵様がトーマスの話を直接聞いてくだされば、きっと何か見つかるはずです。今回は我々の方から場を用意できないので、女男爵様がベネット夫妻からの申し出に乗ってくださるのであれば好都合です。ヘイスティングス警部も間違いなくそう言うでしょう」


 そう言って巡査部長は期待を込めた眼差しでアメリアの方を見た。

 一方のアメリアはただ困惑していた。

 これ以上踏み込むといよいよ戻れなくなる気がしていた。


 ――私はこのまま進んでも良いのかしら……?

 ――でも、警察も捜査方針を見いだせていないのなら、誰かが前に進めないと……。


「アメリア、迷っているのならやめておきなさい」


 沈黙を続けるアメリアにそう言ったのはミセス・グレンロスだった。


「あなたの本来の役割は女男爵として男爵家の土地と血筋を守ることです。やりたくもない仕事を抱える暇なんてありませんよ」


 母の言う通りだった。

 アメリアは忙しい。

 女男爵として領地を適切に経営しなければならないし、最早アメリア以外の子孫がいなくなってしまったメラヴェル男爵家を存続させるために結婚しなければならない。

 でも――。


「ありがとう、お母様。でも、この事件の真相を突き止めることも私の責任であるような気がするの」


 アメリアは当然母からまたお小言が飛んでくると思っていた。

 しかし、そうはならなかった。

 

「あなたの責任感の強さは知っているわ。……でも、無理をしているわけじゃないわよね?」


 母と視線を合わせたアメリアは思わず目を見開いた。

 母の瞳はただ心配そうに揺れていた。


「ええ、大丈夫よ。責任感もあるけれど、やっぱりこの事件のことが気になるのよ。レディらしくなくてお母様には申し訳ないけれど」


 アメリアが冗談めかして言ったが、ミセス・グレンロスは黙って娘の横顔を探っていた。


 ――そうよ、私はまだこの事件を捜査したいはずよ。

 ――殺人犯を野放しにできないという責任もあるけれど、そもそも、私は謎を解き明かすのが好きなんだから。


 嘘ではなかった。

 しかし、完全に本心であるとも言い切れなかった。

ちなみに、第1章「言葉より行動を」の時点で、ミセス・プレストンが最初に本部に来た後から彼女が通報後にミスター・グリーヴスと共に再度本部に戻るまでの間に、誰かが本部に来た痕跡が描写されているのですが、お気づきになりましたでしょうか?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ