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20."ミセス・ベネット"②

 最終的にアメリアが切り出したのは、最もあり得そうで、かつ、この場に波風が立たない説だった。


「もしかすると、ミスター・ベネットが本部に戻ったとき、ミセス・グリーヴスは既に亡くなっていたのかもしれませんわ」 

「どういうことです?」


 と尋ねたのはアルバート卿だった。

 アメリアは彼と視線を合わせながら言葉を続けようとした。


「これはまだ推――」


 「これはまだ推理にも至っていないのですが」と言おうとしたアメリアは、途中で言葉を吞み込んだ。

 彼女の話に耳を傾けるアルバート卿の灰色の瞳は平静そのものだった。

 それなのに、アメリアは何故か"推理"という言葉を使ってはいけない気がした。

 

 ――今、私がしていることはあくまで"想像"なんだわ。

 ――少しだけ想像力豊かな未婚のレディが自分の"想像"を語っているだけ。


「いえ、これは……ただの想像ですが」


 アメリアは言い直して軽く咳払いをした。

 その様子を見たアルバート卿が微かに眉を寄せた気がした。


「本部に戻ったミスター・ベネットはミセス・グリーヴスが亡くなっているのを見つけ、自分のお母様が彼女を殺したと考えたのではないでしょうか?そうだとすると説明がつくことが多いのです」


 ミセス・プレストンとミセス・ベネットは目を見開いたが、アメリアの"想像"を否定する反応ではなかった。

 ミセス・ベネットの手が彼女の膝の上で小さく震えていた。


「お母様が殺人を犯したと考えたミスター・ベネットは、自分のせいだと思ったでしょう。そして、お母様を庇おうと考えたはずです。それで彼は咄嗟に、現場にあった旗にペンで"DEEDS NOT WORDS"(言葉より行動を)というスローガンを書いたのだと思います」


 アメリアがそう言うと、アルバート卿が深く頷いてから言った。


「なるほど。ミセス・グリーヴスは政治的な動機で殺されたのだと思わせるためですね。ミスター・ベネットの結婚問題ではなく」

「ええ、そう思いますわ」


 アメリアも彼に頷きを返した。

 

「でも、急進派のスローガンを書いてしまったら、ヘレンが急進派に転向しようとしていたと思われて、穏健派に残る人々が疑われるのではありませんか?そうすると結局アグネス――彼の母が疑われることになりそうなものですけど」


 首を傾げてそう言ったのはミセス・プレストンだった。

 しかし、アメリアはその点についても考えがあった。


「ミスター・ベネットは、旗にペンで急進派のスローガンを書いたとしても、ミセス・グリーヴスの筆跡でもなければ、彼女のいつものアップリケを付けるやり方でもないので、警察は被害者自身ではなく他人が書いたものだと考えると思ったのではないでしょうか。私、ミスター・ベネットとは先ほどお話ししただけですけど、彼は周りの状況をよく見ている方だという印象を受けましたわ」


 アメリアは先ほどのミスター・トーマスが――自分の専門分野については話し過ぎるきらいがあるものの――総じて場の雰囲気をよく観察しながら言葉を選んでいたのを思い出していた。


「そして、彼は先ほども一貫して『ミセス・グリーヴスは穏健派に残るつもりだった』と主張していました。警察や関係者の目を政治的動機に向けさせた上で、更にその政治的な動機すらもミセス・ベネットにはなかったと印象付けたかったのでしょう」


 アメリアが言い終えると、ミセス・プレストンは隣のミセス・ベネットに手を伸ばし、彼女の震える手を握った。

 

「もし女男爵様のおっしゃる通りなら、トーマスは警察に正直に話さないといけないわ、アグネス」

「ええ、そうですね。そうでないと、このままミスター・ベネットが殺人犯にされてしまうかもしれません」


 アルバート卿も指摘すると、ただでさえ青かったミセス・ベネットの顔から更に血の気が引いた。


「それだけは絶対にだめです!」


 アメリアは動揺する彼女に優しい口調で言った。

 

「もし、私の想像が当たっていてミスター・ベネットが無実であれば、私も彼が釈放されるよう協力したいのですが、それにはまず本人が正直になっていただかないと……。ミセス・ベネットから説得していただくことはできますか?」


 ミセス・ベネットは何度も頷いた。

 

「ええ、もちろんです。私も主人もトーマスの結婚のことはこれまで世間から隠していましたが――息子は教師ですからこんな駆け落ちのような結婚など生徒に悪影響です――こうなっては背に腹は代えられません。そもそも、ミスター・グリーヴスもこのことは知っているので、事務弁護士として彼を頼るなら、彼からも正直に打ち明けるように勧められることでしょう……」


 そのミセス・ベネットの言葉にアメリアは微かに眉を上げた。

 

 ――中産階級の"立派な"紳士、ミスター・グリーヴス。

 ――妻であるミセス・グリーヴスが"駆け落ち"に手を貸してしまったと知って平気だったのかしら?

 ――それにさっき見せてもらった被害者がミセス・プレストンに宛てた手紙には……。


「もしかしてミスター・グリーヴスを疑っていらっしゃるのですか、女男爵様?」


 アメリアの考えを見透かしたように言ったのはミセス・プレストンだった。

 

「いえ、まさか」


 アメリアは微笑みを取り繕った。

 彼女の仲間への思いを刺激するべきではない。

 しかし、ミセス・プレストンは少し目を細めて彼女を見ながら言った。


「確かにヘレンがトーマスの結婚の証人になってしまったのだとしたら、彼女はご主人から多少お小言をもらったかもしれません。でも、ミスター・グリーヴスはお仕事ぶりからも明らかな冷静で誇り高い"立派な"紳士です。それに、結局は他家の息子のことですから、それで妻を殺すことなんてあり得ませんでしょう?」


 アメリアは先日会ったミスター・グリーヴスのことを思い出した。

 確かに彼は冷静でいかにも自分の仕事に誇りを持っている事務弁護士だった。

 その人柄を考えると、妻が騙されて"駆け落ち"に手を貸してしまったという理由だけで理性を失うことはなさそうではある。

 しかも、ミセス・プレストンの言う通り、所詮は他人の家のことだ。


 そうアメリアが考えている間にもミセス・プレストンは話を続けていた。


「事件の日、私は本部でヘレンの遺体を発見してすぐ、下の階のミスター・グリーヴスの弁護士事務所に行って、そこから警察に通報しました。彼もそのとき弁護士事務所にいたので、通報した後で一緒に現場に戻りましたが――」


 ミセス・プレストンは凄惨な事件現場の記憶を封じ込めるように一度目を瞑ったが、すぐに目を開けて続けた。


「――彼は私とは違って、取り乱したりはしていませんでした。紳士らしい”立派な"態度で、冷静にヘレンの脈がないことを確認していました。しかも、その後、彼はJ.S.ミルとメアリー・ウルストンクラフトの本が床に落ちているのに気づいて拾ってくれたのです。その二冊は<SWSA>共有の本でしたが、ヘレンの愛読書でした……床に広がった血で汚れたら彼女も悲しむと思ったのでしょう。もし彼が犯人だったらそんなことしませんわよね?殺したいほど憎んでいた相手の愛読書がどうなろうと気にならないはずですから」


 ミセス・プレストンの証言を聞いて、アメリアの記憶の中にリッチモンドの現場で見たミシン台の上の二冊の本のことが浮かんだ。


「その二冊の本はどこに落ちていたのですか?」


 アメリアは自分の声が"探偵"らしく響かないように、努めて何げなさを装った。

 しかし、そのヘーゼルの瞳は鋭く謎を見据えていた。


「……ミシンの近くじゃないかとは思いますけど。情けないことに、私は、最初にヘレンを見つけたときも、後からミスター・グリーヴスと戻ったときにも、部屋に入れなかったので、よくは見ていないのです」


 アメリアはつい思考の海に沈みかけていた。


 ――現場のミシン台の上にあったのはJ.S.ミルの『女性の解放』とウルストンクラフトの『女性の権利の擁護』だったわ。

 ――おそらくミスター・グリーヴスが拾った二冊と同じ。

 ――だとすると、二冊の本は最初からミシン台の上にあったのではなく、元々は落ちていたということになるけれど……。

 ――これは何を意味するのかしら?


 アメリアの思考を遮ったのは、ミセス・ベネットだった。


「私もミスター・グリーヴスはあり得ないと思います、女男爵様。先ほどモードに見せてもらった手紙ではっきりしましたが、ヘレンはやはり穏健派に残るつもりだったのです。そうであれば、やはり、グリーヴス夫妻が揉める理由はございませんから」

 

 先ほどまでと打って変わって彼女の声は小学校の厳格な校長の風格を取り戻していた。

 しかし、ミセス・プレストンがやや不確かな口調で口を挟んだ。


「同じ見解で嬉しいわ、アグネス。ただ、今思い出したけど、あなた、さっきグリーヴス夫妻が4月に活動方針のことでもめていたと言っていたわね。確かミスター・グリーヴスが『このままだと誤った方向に進むことになる』とかと言って、ヘレンは『とりあえず寄付は続ける』と言っていたんでしょう?トーマスもヘレンから同じような話を聞いたのではなかった?」


 ミセス・ベネットは自嘲するように微かに笑って首を振った。

 

「きっと私たちの誤解だったのよ。トーマスの件でヘレンとは気まずくなっていたから、その先入観があったのね。トーマスがヘレンから聞いた『私たちもいつの間にか別の方向を見るようになっていた』という言葉だって、彼がハワースで結婚したときに言われた言葉らしいの。今考えると、きっとヘレンはトーマスの結婚に対する考えの浅さに釘を刺しただけなんだと思うわ」


 そう言いながら彼女は眼鏡の角度を直し、更に続けた。


「それに、さっきあなたも指摘した通り、トーマスがこの言葉を聞いたのは、あなたが急進派への転向を表明するより前の3月だったのよ。その時点でヘレンが急進派への転向を考えることはあり得ないわ。ヘレンは――というより、あなた以外の<SWSA>の女性は――誰もあなたから言われる前は転向なんて考えていなかったはずよ。ほとんどが穏やかな郊外育ちの女性ですからね」


 ミセス・ベネットは自分の言葉に納得しているようだが、ミセス・プレストンはまだ少し首を傾げている。

 そんなミセス・プレストンの様子を見てミセス・ベネットは再度口を開いた。


「それより、モード、あなたこそ何だったの?ついさっきまで『ヘレンは急進派に転向するか穏健派に残るか決めかねていた』と言っていたのに、本当は彼女が穏健派に残るつもりだったと知っていたのね」

「ええ、ごめんなさい。私はヘレンが殺された理由に政治的な動機が絡んでいると思っていたから、ヘレンの方針を明言してしまうと<SWSA>の誰かが疑われると思ったのよ。だから、『決めかねていた』と言って様子を見ていたの」


 そう言って肩を竦めるミセス・プレストンにミセス・ベネットは鋭い視線を向けたが、すぐに彼女の表情は和らいだ。


「でも、ヘレンが穏健派に残るつもりだったことがわかって良かったわ。もし、急進派に転向するつもりだったのなら、ミスター・グリーヴスが疑われてしまうもの。彼は一家の長として家族を良い方向に導こうと努める"立派な"ご主人だわ。そもそもヘレンが<SWSA>に入ったのだってミスター・グリーヴスの勧めがあってのことだったのだし」


 ミセス・ベネットに言われて、ミセス・プレストンは昔を懐かしむように遠くを見つめた。

 

「そうね。入会したばかりの頃のヘレンは気弱で口数も少なかったけど、最近は臆せず自分の意見を言えるようになって……本当に自立した女性に成長したわよね」

「ええ、ミスター・グリーヴスが彼女を良い方に導いたのね。グリーヴス夫妻は本当に理想のご夫妻だったわ……」


 とミセス・ベネットも言い、二人の女性は悲しげに視線を落とした。

 一方のアメリアは、一つ謎を解いたことでより深まってしまった謎に思いを巡らせ始めていた。

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