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19."ミセス・ベネット"①

 交流会の後、アメリアや母であるミセス・ベネットの目の前で、ミスター・トーマス・ベネットが警察に連行されてしまった。

 彼が事件当日密かに事件現場に戻っていたこと、更には、3月にハワースで被害者と“密会”していたことが判明したため、ロンドン警視庁は今や彼が事件の一番の容疑者と考えているらしい。

 

 ミセス・ベネットの動揺は明らかだったが、その行動は冷静だった。

 彼女はすぐにホテルの電話を借りてリッチモンドのミスター・グリーヴスに連絡し、事務弁護士としてロンドン警視庁本部へ向かうよう頼んだ。

 ミスター・グリーヴスは被害者の夫という立場ではあるものの、次の列車でロンドン市街に出てきてくれることになったらしい。

 

 ミセス・ベネットが電話を掛けている間に、アメリアはそれまで自動車で待機させていた侍女のミス・アンソンをイズリントンに住んでいるというミセス・ベネットの元大学教授の叔父夫妻の家へ使いに出していた。

 この事態を伝えてミセス・ベネットを迎えに来てもらうためだ。

 当初、アメリアは彼女をその叔父夫妻の家まで男爵家の自動車で送り届けることも考えた。

 しかし、平均的な中流中産階級の家庭の事情を考えると、姪が急に貴族の自動車で現れたら、夫妻はひどく驚いてしまうだろうと思い、やめておくことにした。

 親切なハードウィック子爵夫人もこの事態を心配していたが、彼女には次の予定があるということで、ミセス・ベネットのことはアメリアとアルバート卿、ミセス・プレストンに任せて帰って行った。


 そうして、アメリアとアルバート卿、ミセス・プレストン、電話を終えたミセス・ベネットの四人は、一旦ロビーの隅のソファに落ち着くことになった。

 アルバート卿が支配人に運ばせた紅茶が行き渡ると、ミセス・プレストンがハンドバッグから一通の手紙を取り出した。

 その手紙こそ先ほど彼女が言っていた『まだ話していないこと』に違いないとアメリアは直感した。


「アグネス、実はね。私、まだ誰にも見せていないヘレンからの手紙を持っているの……。こうなったらあなたとお二人に見てもらいたいわ」


 ミセス・プレストンはミセス・ベネットに視線を向けながら言った。

 そして、ゆっくりと手紙を開き、まずは向かいに座っていたアメリアに手渡した。


「事件の前日にヘレン――ミセス・グリーヴス――から渡された手紙です。これが見つかるとベネット母子が疑われてしまうので、今まで肌身離さず持ち歩いていました」


 アメリアは素早く手紙の内容に視線を走らせた。


 ----------

 親愛なるモードへ


 アグネスとのことは心配しないでください。

 詳細は話せないのですが、トーマスの件で色々あって彼女とは距離ができてしまいました。

 ただ、そのせいでアグネスは私が急進派に転向するつもりだと誤解しているので、その点については何とかするつもりです。

 前にあなたにお話しした通り、<SWSA>に残って穏健派として活動を続けたいという私の意向は変わっていません。

 明日彼女が演説会を終えた後に本部で改めて話して誤解を解こうと思います。

 その前に主人とも話さねばなりませんが。


 愛をこめて

 ヘレン

 ----------


「私はここ数か月、ヘレンとアグネスの間のよそよそしい雰囲気があることに気づいていました。それで、先日ヘレンに何があったのか尋ねたのです。ヘレンはそのときは何も話しませんでしたが、事件前日に本部で会った際、縫い上がったばかりの襷と一緒にこの手紙を渡されました。これを読んだ私は何か手伝えることがあればと思い、事件当日ヘレンに会うために本部に立ち寄ることにしたのです。しかし、結局、あのようなことになったので、"トーマスの件"が何なのかは今でもわからないのですが……」


 ミセス・プレストンがそう言うのを聞きながら、アメリアは読み終えた手紙を隣のアルバート卿に手渡した。

 彼女は少しだけ目を閉じて思考を整理した。


 ――3月にハワースで会っていた被害者ミセス・グリーヴスとミスター・ベネット。

 ――被害者は、アグネス、つまり、ミセス・ベネットとは距離ができてしまっていた。

 ――ミス・ロビンソンが聞いたという、ミスター・ベネットから被害者に問いかけられた「ミセス・ベネットに騙されたと思っているのですか?」。

 ――そして、この前ミスター・グリーヴスから聞いた気持ちの優しい性格の被害者の話……。


「失礼ながら、この内容だと、先ほど警察が仄めかしていたようにミスター・トーマス・ベネットとミセス・グリーヴスが恋愛関係にあったようにも読めますが……」


 手紙を読み終えたアルバート卿は、それを向かいのミセス・ベネットに渡しながら問いかけた。

 沈黙を貫くミセス・ベネットの代わりに答えたのはミセス・プレストンだった。

 

「そんなはずはないわよね?アグネス?」


 手紙に集中しているミセス・ベネットは依然答えなかったが、ミセス・プレストンは構わず言葉を続けた。


「最近……おそらく3月頃にトーマスに何かあったのは確かです。その頃、彼はどことなく浮き足立っていました。でも、それは彼の以前からの想い人のミス・フレッチャーの件だと、私は思うのですが……」


 そう言いながら彼女は額に手袋をした手を当てて、大きなため息をついた。


「ミス・フレッチャーというのはアグネスの学校で教員見習いをしていた女の子です。彼女は労働者階級のご家庭出身なので、ベネット夫妻は階級の違いから二人の交際に反対していました。それを心配したヘレンが執り成し役を買ってくれていたことは事実です。ただ、それも去年の9月に、ミス・フレッチャーがハワースの教員学校に行くためにリッチモンドから離れたことで終わったと思っていたのですが……」


 ミセス・プレストンは「そうよね、アグネス?」と言って、再度ミセス・ベネットの方に顔を向けた。

 ちょうど手紙を読み終えたミセス・ベネットは深いため息をついてから口を開いた。


「ええ……ヘレンとトーマスの間には何もありません。ただ、トーマスとあの女の子が愚かにもヘレンの人のよさを利用した。それだけです」


 その言葉を聞いて、アメリアのヘーゼルの瞳に閃きが走った。

 彼女は確認の意味で、一つ質問を投げかけた。


「ミセス・プレストン、先ほどミス・フレッチャーは昨年からハワースの教員養成学校にいるとおっしゃいましたね?」

「ええ、そうですけど……あら?ハワースといえば、さっき刑事さんが言っていたヘレンとトーマスが3月に"密会"していた場所と同じですね?」


 ミセス・プレストンは首を傾げた。

 アメリアは一瞬躊躇った後、ミセス・ベネットを真っ直ぐ見据えながら問いかけた。


「ミセス・ベネット、私にはこの話の全貌がわかりましたわ。この場でお話ししても構いませんか?」


 ミセス・ベネットはアメリアの揺るぎないヘーゼルの瞳を見て、観念したように小さく頷いた。

 そこでアメリアは静かに切り出した。

 

「先ほど、アルバート卿との会話の中でミスター・ベネットご本人が触れていましたが、彼が春先にハワースにお出かけになったときのお話が全てだと思いますの」


 真っ先に反応したのはミセス・プレストンだった。

 

「確かに彼が言った『ブロンテ姉妹の故郷』というのは当然ハワースですけど……またハワースが出てくるのですね?」


 アメリアはミセス・プレストンに頷きを返し、彼女に問いかけた。


「彼がそのときの様子をどう表現していたか覚えていらっしゃいますか?」

「ええと、彼は何と言ったかしら?確かハワースへの行きは『嵐が丘』の孤独な主人公の気持ちに共感していたけれど、帰りは『ジェーン・エア』の幸せな夫婦への理解が深まったというようなことだったかと……」 


 ミセス・プレストンは記憶を手繰るように言ったのに対し、アメリアは頷きを返した。


「つまり、ミスター・ベネットは、ハワースに行く途上では孤独や不安を抱えていた――しかし、帰りは困難を乗り越えて幸せになったということです」

「そうなのでしょうけど……何がなんだか」


 ミセス・プレストンは困惑しつつも、話を整理しようと試みた。


「まず、ミス・フレッチャーは去年の9月からハワースの学校にいるのよね。更に、トーマスも春先にハワースへ行ったと……。警察が言っていた『3月にトーマスとヘレンがハワースで会っていた』というのはきっとそのときのことでしょうから、3月には三人がハワースに揃っていたことになるわ。そして、トーマスによると、彼はそこで幸せになった……?」


 ミセス・プレストンがそう言うのを聞きながら、アメリアは先日偶然会ってしまったミスター・グリーヴスがミセス・グリーヴスの優しい人柄について話した言葉を思い返した。


 "この前も結婚の証人になるためにわざわざハワースまで行って――"

 

「それはつまり、ミスター・ベネットとミス・フレッチャーは3月にハワースで結婚し、ミセス・グリーヴスがそれに協力したということではないでしょうか」


 アメリアは静かに自分の考えを告げた。

 すると、ミセス・ベネットは悲しげに視線を伏せ、一方のミセス・プレストンは息を呑んだ。


「まさか!ヘレンが彼らの結婚に協力するはずありません。彼女も『価値観が合わない者同士の結婚は不幸になる』と反対していました」


 ミセス・プレストンはそう言って、ミセス・ベネットに鋭い視線を向けた。


「女男爵様のおっしゃったことは本当なの?」


 問いかけられたミセス・ベネットは事実に耐えかねるように目を閉じた。

 ミセス・プレストンはそれを肯定だと受け取り、ただ沈黙するしかなかった。


「おそらく、その若いお二人はミセス・グリーヴスを騙すようにして協力せざるを得ない状況を作ったのではないでしょうか。特にミス・フレッチャー――今やもう一人のミセス・ベネットですね――の方が主導したのかもしれませんわ」


 そう言いながらアメリアがアルバート卿に視線を送ると、彼は少し眉を上げて応じた。

 アメリアの言わんとすることを理解したらしい。


 つまりは、ミス・ロビンソンが証言の中で言及していた、去る4月にミスター・トーマスがミセス・グリーヴスに問いかけた言葉――。


 "僕たちの結婚の件でミセス・ベネットに騙されたと思っているのですか?"

 

 ここで言われている"ミセス・ベネット"はミスター・トーマスの母のことではなく、彼と結婚したことで新たに"ミセス・トーマス・ベネット"となったミス・フレッチャーを指していたのだ。

 彼はミセス・グリーヴスに、()()()()()()()()()()()()()()に騙されたと思っているのかと尋ねたのだろう。


 アメリアに問いかけられたミセス・ベネットは、ややあって深いため息をついてから話し始めた。

 

「ミス・フレッチャーは、小学校在学時から非常に賢い女の子でした。校長である私自身が彼女を卒業後そのまま教員見習いに採用することを決めたくらいですから。しかし、彼女が賢いのは勉学に関してだけではありませんでした。彼女は教師や友達を巧みに誘導して自分の思った通りの結果を得ることができる子でした。それが良い結果に繋がることもあれば、そうでないこともありました……」


 ミセス・ベネットの丸眼鏡の奥の青い瞳は揺れていた。


「……3月の初め、ミス・フレッチャーからヘレンに『トーマスの子を身ごもったから誰にも言わずにハワースに来てほしい』という手紙が届いたそうです」


 それを聞いたアメリアは思わず「あら……」と呟いた。

 一方のミセス・プレストンとアルバート卿は想定内だったようでただ顔を顰めて頷いていた。


「そんな手紙が来たらヘレンはハワースに飛んで行ったでしょうね。特にミス・フレッチャーのお母様は亡くなっていますから、優しいヘレンは自分が力になってやらねばと思ったかもしれません」


 ミセス・プレストンが言うと、ミセス・ベネットは力なく「ええ」と呟いた。


「しかし、約束の日にヘレンがハワースに行ってみると、そこにはミス・フレッチャーだけでなく、トーマスとミス・フレッチャーのお父様も揃っていました。ミス・フレッチャーのお父様は結婚に賛成していたので、お父様と合わせて二名の証人を確保するためにヘレンが呼び出されたというわけです。そこまで状況を整えられてしまっては、ヘレンはもう証人として書類に署名するしかなかったのでしょう。でも、結局ミス・フレッチャーは妊娠などしていませんでした――トーマスはそんな軽率な子ではないので当然です。ヘレンは騙されたのです」


 ミセス・ベネットはまだ口を付けていないティーカップの水面を見ていたが、すぐに顔を上げてアメリアを見据えた。


「でも、女男爵様、だからこそトーマスがヘレンを殺すはずがないのです。だって、騙した結果とはいえ結婚の証人になってくれた恩人でございますでしょう?あの日トーマスが演説会を抜けて本部に戻っていたなんて今でも信じられませんが、あり得るとすれば、息子は、私が演説会の後にヘレンが会うのを知っていたので、その前に彼女と話して私たちの仲を取り持とうとしただけと思います。トーマスは自分のせいで、私と気まずくなったヘレンが急進派に転向するのだと思っていましたから」


 ミセス・ベネットの言葉を聞きながらも、アメリアの頭の中には様々な思考が巡っていた。


 ――演説会の途中で本部に戻ったミスター・トーマス・ベネット。

 ――気まずくなっていた彼の母とミセス・グリーヴス。

 ――そして、旗に書かれたスローガン。

 ――いくつか可能性はあるけれど、今この場で言えることがあるとすると……。


 アメリアは今自分が何を言うべきかを慎重に選ぼうとしていた。

Q. トーマス・ベネットは結婚指輪を着用していなかったの?

A. 着用していなかったと思われます。この当時の英国では結婚指輪を着用するのは妻のみで、夫は着用しないのが通常でした。


ちなみに、ご存じの方も多いと思いますが、この時代"ミセス"という敬称に続くのは夫の姓か夫の姓名です。

ジェーン・フレッチャーがトーマス・ベネットと結婚した場合、ミセス・ジェーン・ベネットではなく、ミセス・ベネットやミセス・トーマス・ベネットと呼ばれます。

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