15.暗闇の中③
続いて、アメリアは長いため息をついてから最後の観点について話し始めた。
「では、最後の観点です。犯人は『なぜ』ミセス・グリーヴスを殺したのか」
今回の事件において、一番難しいのはこの問いかもしれないとアメリアは思っていた。
美人でお金持ちの女性参政権運動家ミセス・グリーヴス――彼女の周りには動機らしきものが多すぎる。
「今のところ一番あり得そうなのは、恋愛関係かしら?そんな証言があったでしょう?」
レディ・グレイスが言った。
アメリアはミス・ロビンソンの証言のことだと了解して、彼女の証言調書を探し出した。
ただ、この点については、先日アメリアが違和感を指摘して警部も交えて議論になった。
アメリアと兄妹が改めて調書を見てみると、ミス・ロビンソンの証言調書には次のように記録されていた。
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ミス・キャロライン・ロビンソンの証言:
私は、4月にベネット家で開かれたイースターマンデーのパーティーで、ミスター・トーマス・ベネットとミセス・グリーヴスの会話を聞きました。
ミスター・トーマス・ベネットがミセス・グリーヴスに対し、ミセス・ベネットに騙されたと思っているのかと問いました。
それに対して、ミセス・グリーヴスはそれを否定し、あれは自分が馬鹿だったと言い、いずれにしてもアグネスとは気まずくなったとも言いました。
そして、更に、ミスター・ベネットが彼の母は彼に対して怒っているだけだと答え、彼の母は結婚を個人の意思だけでするものではないと思っていると言いました。
私が聞いたのは以上です。
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「先日、私は、ミスター・ベネットが自分の母を"ミセス・ベネット"と称することに違和感があると指摘しましたが、調書上もミス・ロビンソンはやはりそのように証言したように読めますわ」
改めて調書を読み終えたアメリアが言った。
「その点さえなければ、さっき検討した通りミセス・ベネットには犯行が可能なのだから、彼女が息子と被害者の不適切な関係に怒って被害者を殺害した説が成り立つのに……」
レディ・グレイスが嘆くように言ったので、アメリアも小さくため息をついた。
確かにこの違和感さえなければ、事件は解決に近い。
「しかし、ミスター・ベネットには別の想い人がいたという証言もありますが……」
とアルバート卿が考え込むように言った。
「でも、その想い人――ミス・フレッチャーだったかしら?――は、去年の9月にリッチモンドを離れてハワースの教員養成学校に行ってしまったのではなくて?それでミスター・ベネットは次に進んだのではないかしら?」
レディ・グレイスはそう言ったが、アルバート卿は肩を竦めて反論した。
「本気だったとしたら、まだ一年も経っていないのに忘れられるものかな?」
「でも、半年以上経っているのよ?アルバート」
「トーマス・ベネットは英語教師だろう?英国文学に親しむ真面目でロマンチックな男は簡単に心変わりしたりはしないさ――」
兄妹は議論を続けたが、双方譲らなかった。
最終的にアルバート卿が「やれやれ、兄妹でもこの点は全く合わないようだ」とそれ以上の議論を諦めた。
そして、彼は姿勢を正して言った。
「恋愛ばかりではなく、他の可能性も考えてみないといけませんね。例えば、政治的な動機はどうでしょうか?」
兄の提案によりレディ・グレイスの関心も政治的な動機に移った。
「昨年の"ブラックフライデー"をきっかけに、代表のミセス・プレストンが急進派への転向を決めて<SWSA>を脱退しようとしていたことは警部も話していたわね。現場に残されていた旗に"DEEDS NOT WORDS"(言葉より行動を)という急進派のスローガンが書かれていたというのも気になるわ」
「君の言う通りだな、グレイス。あなたは現場で旗の実物をご覧になりましたか?レディ・メラヴェル」
兄妹の灰色の瞳がアメリアに向けられたので、彼女は旗について疑問に思った点を話し始めた。
「ええ、見ましたわ。旗自体は非常に丁寧に仕上げられていた一方で、ペンで書かれたスローガンの文字は乱雑だった点が気になりましたの。先ほど確認した被害者の所持品リストの中には"VOTES FOR WOMEN"(女性に投票権を)という<SWSA>が普段使用しているスローガンのアップリケがあったので、本来はそちらを縫い付ける予定だったようにも思われます」
アメリアの言葉にウェクスフォード侯爵家の兄妹は揃って首を傾げた。
「そうだとすると、やっぱり被害者ではなく、犯人がスローガンを書いたのかしら?」
「一応は被害者自身が書いた可能性もあるな。筆跡が被害者のものではないという証言もあるが、睡眠薬で意識が朦朧としているときに書いたならいつもと筆跡が変わることもあり得るかもしれない。ただ、その場合は被害者が普段と違うことを書いていると気づいた時点で犯人が持ち去るでしょうから、可能性は低そうです」
アルバート卿は顎に手を当てて思案しながらそのまま言葉を続けた。
「なので、一旦犯人が書いたものだと仮定すると……何のために書いたのでしょう?被害者が急進派に転向しようとしていたとアピールすることで、被害者の転向を良く思わない人に罪を着せようとしたのでしょうか?」
「もしそうなら、ミセス・プレストンがミスター・グリーヴスやその他の穏健派の会員に疑いの目を向けさせようとしたということになるかしら?ただ、さっき確認した通りミセス・プレストンには犯行が難しいのよね」
レディ・グレイスがため息交じりに言うと、アメリアも頬に手を当てて呟いた。
「そもそも被害者が今後急進派に転向するつもりだったのか、穏健派を堅持するつもりだったのかという点もよくわからないのです。関係者の証言がばらばらで……」
彼女は改めて警部の話と調書で読んだ内容を思い返した。
――「被害者は穏健派に残るつもりだった」と言っているのは、自身も穏健派を堅持するつもりだったという夫のミスター・グリーヴスとミスター・トーマス・ベネット。
――一方、「被害者は急進派に転向するつもりだった」と言っているのは、同じく穏健派のミセス・ベネット、ミス・ハーディー、ミス・ロビンソン。
――だけど、ミス・ハーディーとミス・ロビンソンは「ミセス・ベネットがそう言っていた」と言っているだけではあるわ。
――そして、自身は急進派へ転向予定だったミセス・プレストンは被害者はまだ検討中だったと言っている。
「証言が一致しないということはそこに何かあるのかしら……でも、まだ何もわからないわ……」
アメリアは独り言のように言って視線を落とした。
三人で議論を尽くしているのに謎は深まる一方だ。
「あと、考えられるとすると、金銭的な動機だけど、これまでのところ金銭トラブルの話は出ていないわね?」
レディ・グレイスが灰色の瞳に心配を滲ませつつも、明るい口調で言った。
その言葉にアメリアも少し気を取り直した。
「ええ。相続についても、被害者の財産はご子息二人が均等に相続するのみだと警部が言っていたわ」
「だとすると、ミスター・グリーヴスが自由にできるわけでもなかったということですね?」
アルバート卿の言葉にアメリアは法廷弁護士の娘らしく言った。
「はい、ご子息方は未成年なのでミスター・グリーヴスは父として管理を代行することはできますが、私的な目的で大金を動かす場合には裁判所の許可が必要です」
そこまで言うとアメリアは再度俯き加減になった。
「ご子息方以外に利益を得られた人がいないとなると、金銭的な動機は除外して良さそうです。ただ、金銭的な動機でないとするときっと単純明快な理由ではないのでしょう……」
そこでふとアメリアの頭にもう一つ、単純明快とは言えない謎が浮かんだ。
「そういえば、動機に関係することではないとは思うのですが、どうしても一つ気になることがありました。私の侍女のことで……」
「あら、あのいつもの冷静な侍女よね?」
レディ・グレイスの問いにアメリアは頷きを返した。
「ええ。リッチモンドには彼女を伴って行ったの。そこで彼女には何か気づいたことがあったようなのだけど、はっきりとはわからなくて。ミシンか旗に関係することだと思うのだけど……」
「訊いても話してくれないということですか?」
そう尋ねたアルバート卿も彼の隣のレディ・グレイスも同じように眉を寄せていた。
「はい、そうなのです。理由は明らかです。先ほど私たちが現場でミスター・グリーヴスと鉢合わせしたことをお伝えしましたが、その際に彼が話の流れで『女性は細かなことを気にし過ぎるので物事が進まなくなる』という趣旨のことをおっしゃったのです。それでアンソンはすっかり勇気を失ってしまったのですわ」
「ただでさえ、侍女はいつも出過ぎないようにしているから、無理もないわね」
レディ・グレイスがそう言ってため息をついたので、アメリアもつられて深いため息をついた。
「いずれにしても、今回の事件には謎が多すぎます。これでは推理が非常に……困難です」
今やアメリアのヘーゼルの瞳は机の上の資料や自分のメモ帳を彷徨っていた。
今回の事件は、これまでの事件以上に推理の方向性が定まらない。
事実と証言はしっかりと書面上整理されているし、事件現場では様々な気づきを得た。
それなにに、ここから何をどう考えたら良いのか全く分からない。
アメリアはまるでひどい頭痛に耐えるときのようにぎゅっと目を瞑って俯いた。
暗闇の中でまとまりのない情報の嵐が吹き荒れていた。
「レディ・メラヴェル」
未だ目を閉じて暗闇を彷徨っていたアメリアの耳にアルバート卿の声が響いた。
「今回の事件は間接的な情報で解決できる類の事件ではないのではないでしょうか?」
彼にしては珍しく躊躇いを含んだ口調だったが、最終的に彼ははっきりと言った。
「<SWSA>の幹部に直接話を聞きに行くというのはどうでしょう?」
思わぬ提案にアメリアは目を開いた。
「でも……」
反射的に彼女の口から出たのはその一言だった。
アメリアの頭には前回の事件で直面した危機のことが浮かんだ。
あれ以来、ある恐れが彼女に付きまとっている。
「前回あれほどの目に遭われたのですから、危険を避けたいお気持ちはわかります」
アルバート卿はアメリアの意図を少し誤解しているようだったが、彼女は敢えて訂正しなかった。
「例えば、事件の捜査とは思われないような用事を作り出すというのはどうでしょうか?先日あなたがミスター・グリーヴスに遭遇したときもそれで上手く乗り切ったのでしょう?」
彼の提案を受けてアメリアが顔を上げると、二人の視線が真っすぐぶつかった。
「ただ、もしそうするのであれば、私にも同行させてください」
彼の青みがかった灰色の瞳がアメリアを静かに見つめていた。
「もちろん、あなたのお母様のご意向も伺わないといけませんが、今ならお許しいただける気がするのです」
アメリアも同意見だった。
事件と無関係の口実を作り出すことができれば、母がアメリアが関係者と面会するのを許す可能性はある。
先日の会話を踏まえると、特に――正面から認めるのは気が引けるが――母は娘がアルバート卿と同席する機会を逃したくないはずだ。
もちろん、付き添い役の確保については知恵を働かせる必要がある。
しかし、いずれにしても、アルバート卿の提案した方法を模索する価値はある。
アメリアはこれが理性的かつ合理的な判断であると思い込もうとした――けれど、実際のところは自分でもよくわからなかった。
――そもそも、危険を避けたいのなら、私が"探偵"から手を引くのが最善なんだわ。
――私が望めば今すぐにそうできるはず。
――それができないということはやっぱり私は……。
アメリアはアルバート卿の灰色の瞳を見つめ返した。
そして、結局は――ただ頷いた。
それを見たアルバート卿も微かに笑って頷いた。
しかし、同時に、アメリアには、彼のその瞳の奥に底知れぬ不安が広がっているように思えてならなかった。




