12.リッチモンドへ③
その後、アメリアは時間内に作業室以外の部屋も調査した。
パントリーの簡易キッチンでは、食器棚のナイフ収納が不自然に一本分空いているのを確認した。
凶器がパントリーのキッチンから持ち出されたことは間違いなさそうだ。
また、その食器棚にはお揃いの白地に青い一本線のティーカップとソーサーが何客も並んでいたが、一客分の場所が空いていた。
作業室にあった被害者が睡眠薬入りのお茶を飲んだと思われるティーカップがその一客のようだ。
そして、ヘイスティングス警部が言った通り、その食器棚にはナイフ収納部分も含めて鍵はかかっていなかった。
一通り調査を終えた一同は、他の警官が戻ってこない内に<SWSA>の本部を後にすることにした。
アメリアは現場での発見を思い返しながら、警部に続いて階段を下りた。
そして、一同が三階から二階に降りたときだった。
「こんにちは、ヘイスティングス警部。それから、エヴァレット巡査部長でしたね?」
一階から階段を上がってきた紳士に声を掛けられた。
彼女は前にいた警部の陰に隠れるように身を寄せ、本部を出るときに着け直していたほこり避けのヴェール越しにその紳士を観察した。
アメリアはその紳士のきちんと整った口ひげに見覚えがあった。
彼は先ほど事件現場の作業室の壁に掛けられていた<SWSA>のメンバーの写真に写っていた――。
「こんにちは、ミスター・グリーヴス。こんなときにもお仕事とは、苦労なさいますね」
と警部が低い声で挨拶を返し、彼に少し鋭い視線を向けた。
アメリアが思った通り、彼は被害者の夫で事務弁護士のミスター・グリーヴスだった。
彼は妻の喪に服している証の黒いスーツと黒いタイを着用している。
「ええ……本当であれば暫く家で喪に服したいところですが、事務弁護士としてお困りの方を放っておくわけにもいきませんので」
ミスター・グリーヴスは抑制的な口調で言った。
二階は彼の弁護士事務所なのだから、彼がここに居るのも当然だ。
手には鞄と封筒を持っているので、事務所に仕事をしに来たのだろう。
「ところで、警部、妻の遺言執行人と確認はとれましたか?遺産相続の件です」
「ええ、あなたがおっしゃった通り、奥様の遺産は二人のお子さんに均等に相続される条件で、他に相続人はいないことがはっきりしました」
「それは良かった」
ミスター・グリーヴスは頷くと、警部の後ろのアメリアとミス・アンソンに視線を向けた。
二人の身なりを見れば、それなりの身分のレディとその侍女であることは、すぐわかってしまうだろう。
「ところで、そちらのレディはどちら様でしょうか?」
アメリアがヴェール越しにヘイスティングス警部に視線を送ると、彼は微かに頷いた。
「こちらはさる貴族のレディです。訳あって身分は明かせませんが、ミセス・グリーヴスの生前のお知り合いだそうです」
「お悔やみ申し上げますわ、ミスター・グリーヴス」
アメリアは落ち着き払ってただ一言だけ言った。
「お気持ち痛み入ります」
ミスター・グリーヴスは礼儀正しく返答した。
「奥様の追悼をしたいと依頼されまして、勝手に申し訳ありません」
ヘイスティングス警部は自然な口調で言った。
予め誰かと鉢合わせした場合の言い訳を用意していたのかもしれない。
ローシュ警視が注視している中、無関係の女男爵に捜査をさせていたと知れれば彼の立場が危うくなるが、わがままな貴族のレディの頼みを断り切れずに現場で追悼をさせてやっただけであれば、まだ言い訳も立つだろう。
「いえ、構いませんが、こんな現場ではなく自宅に来てくだされば良かったのに。あなたは妻とどういったお知り合いなのですか?」
ミスター・グリーヴスの緑色の瞳がヴェールの奥のアメリアの顔を見透かそうとするかのように動いている。
グリーヴス夫妻は、妻の遺産相続により裕福ではあるが、階級としては中流中産階級に属するので、妻にわざわざ追悼しにくるほどの貴族の知り合いがいたことを不審に思ったのかもしれない。
「ミセス・グリーヴスとは……女性参政権運動家同士お付き合いがありましたの」
アメリアはそう言ってミスター・グリーヴスを見た。
「ああ、それで身分を明かせないということですね」
アメリアはミスター・グリーヴスの反応が予想通りだったことに密かに安堵した。
実際、女性参政権運動家の中には、家族の反対や体面の問題から身分を明かさず匿名で組織に所属したり資金提供したりする人もいる。
特に貴族のレディであれば不自然ではないだろう。
「ミセス・グリーヴスは……本当にお優しい方でしたわ」
アメリアはそう言ってミスター・グリーヴスに視線を走らせながら、内心では自分に呆れていた。
――こんな状況でミスター・グリーヴスから事件に関する話を引き出そうとするなんて、どうかしているわ。
――今回は"気づかれないよう"捜査しようと決めたのに。
「まあ、そうかもしれません。ミセス・グリーヴスは……気持ちの優しい女性でした。すぐ他人を信頼してしまうのです。この前も結婚の証人になるためにわざわざハワースまで行って……いや、失礼。あなたには関係ないことですね」
ミスター・グリーヴスは最後の部分を濁して、口を噤んだ。
なんだか気になる話ではあるが、この場でこれ以上のことを聞き出すのは難しそうだ。
アメリアが警部に視線を送ると、彼は微かな頷きを返した。
警部も気になるのだろうが、今はアメリアの素性を隠すことが最優先だと思っているのだろう。
「では、私はこれで失礼しますわ、ミスター・グリーヴス。長居しては家の者に怪しまれますので」
アメリアの言葉にミスター・グリーヴスは神妙に頷いたが、別れの言葉を述べる代わりに一つため息をついて話し始めた。
「難しいお立場ですね。個人的にはあなたのお父様……いや、ご主人でしょうか?いずれにしても貴族の男性にこそ、この運動に参加してもらいたいと思っているのですが、やはり女性参政権には反対される方が多いですね」
「ええ……」
アメリアは曖昧な返事をして歩き出そうとしたが、ミスター・グリーヴスの話はまだ続いていた。
「貴族の男性なら学校や政治、軍隊でのリーダー経験が豊富なので、この運動を正しい方向に導いてくれると思うのです。女性ばかりだと些末なことを気にし過ぎて大局が疎かになりがちです。リーダー経験が少ないので仕方ないことではありますが」
――本当にそうかしら?
アメリアは反射的に首を傾げそうになった。
当代の英国では、一定以上の階級の女性は家の女主人やその補助者として家政を担っている。
貴族であれば家政婦長や付き添い役に任せきりということもあり得るが、中産階級の女性たちの多くは使用人たちを自ら監督して普段の家事を回し、社交イベントも取り仕切らねばならない。
それだってリーダー経験と言えるだろうし、家政を取り仕切る彼女たちが大局を疎かにしているというのは些か言い過ぎではないだろうか。
とはいえ、ここでこの件を議論しても仕方がない。
結局、アメリアは礼儀正しく微笑むに留め、警部について階段を下って行った。
***
建物を出た一同は、通りに停車しているメラヴェル男爵家の自動車の前に戻った。
ショーファーのノートンは主人が帰ってきたのを見て、エンジンをかける準備を始めていた。
その間にエヴァレット巡査部長が自分の警察車両から書類の束を取って来た。
ミス・アンソンがアメリアの代わりに受け取ったが、その書類の束には相当な厚みがある。
アメリアの印象では30枚近くあるように見えた。
「エヴァレットが現場検証の報告書と関係者の供述調書を原本から写したものです」
警部の言葉にアメリアは思わず何度か瞬きをした。
相当労力が要る仕事だっただろう。
アメリアは、巡査部長の苦労に報いるためにしっかりと読み込まなければならないと思った。
「では、女男爵様、気づいたことがあればいつでもご連絡ください」
最後に警部が挨拶して二人の刑事は現場に戻って行った。
彼らを見送ったアメリアは、既にエンジンの準備ができた自動車の後部座席に乗り込んだ。
そして、ここまでの疑問を頭の中で整理することにした。
――まず、一つ目の疑問は、睡眠薬についてね。これは調書を読んでまた検討してみないと。
――二つ目は、事件現場の通気口。通気口を塞ぐ蓋が偶然外れたりするものなのかしら?
――他にも気になることはたくさんあるわ。
すると、隣にミス・アンソンが乗り込んできたので、アメリアは先ほど彼女が現場で何かに気づいたようだったことを思い出した。
「アンソン、さっき作業室であなたが気づいたことは何だったのかしら?旗かミシンに関することではなくて?」
ミス・アンソンはアメリアの方に顔を向けたが、その唇は固く引き結ばれていた。
彼女は思案した末にようやく口を開いた。
「申し訳ございません、お嬢様。非常に些末なことですからお嬢様のお気を煩わせるほどのことではありませんでした」
アメリアは小さく息を呑んだ。
先ほどのミスター・グリーヴスの言葉がミス・アンソンの勇気を奪ったに違いなかった。
アメリアはもう一度だけ「些末なことでも良いのよ?」と言ってみた。
しかし、ミス・アンソンはただ詫びるだけで何も教えてはくれなかった。




