11.リッチモンドへ②
次にアメリアは書き物机の上を観察した。
ペンとインク壺、インクの吸取器などに加えて白地に青い一本線の入ったティーカップがあった。
ティーカップの中は空だが、使われた形跡はある。
「被害者はこのティーカップでお茶を飲んだのでしょうか?」
そう尋ねたアメリアにエヴァレット巡査部長がすかさず説明してくれた。
「そのようです。少し残っていた紅茶の成分を確認したところ、睡眠薬が含まれていました。警部からお聞きになったと思いますが、被害者の遺体からも睡眠薬が検出されているので、彼女はこのカップで睡眠薬入りのお茶を飲んで眠らされたところを背中から刺されたということのようです」
――ミセス・グリーヴスが眠っていたのなら、他の会員が本部にいる間でも気づかれずに殺害することが可能だったかもしれない。
――それにしても、襲われても悲鳴を上げたり抵抗したりすることもできなかったなんて。
無抵抗の内に襲われた被害者のことを思うとアメリアの胸は痛んだが、冷静に次の質問をした。
「睡眠薬から犯人を特定することはできないのでしょうか?」
「それは難しいと思います。検死官の見立てでは、使われたのは英国に広く普及している睡眠薬だったということです。ミセス・グリーヴス自身でさえ、夜寝るときには同じタイプの睡眠薬を飲んでいたことがわかっています」
アメリアは静かに頷いた。
昨今、中産階級以上の女性が睡眠薬を常用するのはよくあることだ。
被害者自身も使用していたくらい普及している薬であれば、関係者の誰もが何らかの手段で手に入れられただろう。
――でも、やっぱりおかしいわ。
――そんな簡単に手に入る薬ならどうして……?
アメリアの頭の中には、昨日警部の話を聞いたときと同じ疑問が湧いてきた。
しかし、今は一旦その疑問を脇に置き、調査を続けることにした。
そこでふと足元を見た彼女は立ち止まった。
赤い絨毯の中央付近に大きな黒い染みが広がっていた。
――被害者は床に倒れていたというのだからこれはきっと……。
アメリアが警部を振り返ると、警部はゆっくりと頷いて言った。
「それは被害者の血痕です」
アメリアはここで一人の女性が亡くなっていたかと思うと、脚に震えが走るのを感じた。
彼女は誰にも気づかれないように一度深呼吸をした。
「被害者はここ――作業台と書棚の間の床に倒れていました。身体の左側を下にし、入り口に背を向ける形でした。つまり、頭が左手の作業台側で足は右手の書棚側、顔は部屋の奥側を向いていたということです。背中にはナイフが刺さったままでした」
警部の説明を聞いてアメリアは自分の足元に被害者が倒れている様子をイメージした。
先ほど写真で見た女性が入り口に背を向けて床に倒れていて、背中にはナイフが――。
「凶器のナイフはどんなナイフだったのでしょうか?」
アメリアはできるだけ落ち着いて聞こえるように尋ねた。
「調理用のナイフでした。この部屋の隣のパントリーのナイフが一本なくなっていたので、それが使われたようです」
警部が説明すると、横から巡査部長が「後でパントリーにもご案内します」と付け足した。
アメリアは頷き、更に尋ねた。
「そのナイフは誰でも持ち出すことはできたのでしょうか?」
「ええ、そう思います。棚には鍵がついていませんでしたから。普段は本部でお茶の時間に果物や菓子を食べる際に皆が使っていたようです」
警部の言葉にアメリアは少し落胆を覚えた。
凶器の入手可能性で犯人を絞ることは難しそうだ。
続いてアメリアは更に部屋の奥に進もうとしたが、足元には先ほど確認した被害者の血痕が残っている。
なんとなく血痕より先には進みがたく躊躇してしまった。
――私ったら、だめね。
――依頼を引き受けたのは私なのだから、しっかりしないと。
アメリアは自分を励ましながら、部屋の奥へと一歩踏み出した。
ただし、やはり血痕を踏み越える気にはなれず、端の方をそっと通過した。
そうしてアメリアが部屋の奥へと進むと、天井付近まで高さのある書棚の陰に隠れていた一台の黒い足踏みミシンが姿を現した。
入り口からは書棚の死角に入っていて気が付かなかったが、被害者のミセス・グリーヴスはそのミシンで作業をしていたに違いない。
アメリアは少し迷ったが、ミシンより先にその手前の書棚を調べることにした。
書棚には帳簿が詰まっているが、下半分は扉つきの収納になっている。
アメリアは警部に確認して収納の中を見てみたが、裁縫道具が収納されているだけだった。
収納の扉を閉めたアメリアは、続いて、部屋の最奥の大きな窓に歩み寄った。
窓から人が出入りした可能性があるかを確認しておきたかった。
その窓は上下にスライドするタイプのサッシュ窓で、下半分のみ開くようになっていた。
――人一人くらいは通り抜けられそうだわ。
――でも……。
アメリアは、窓の外をちらと覗いた。
この地区はこの辺りで一番栄えているらしく、人々が通りを行き交っていた。
事件が発生したのはおそらく夕方だが、それでもやはり人通りが多いと思われるので、犯人がこの窓から入って来たとは思えない。
そもそも、建物に入る前に確認したが、建物の外壁には外階段も梯子もついていなかったし、ベランダもないので、人目がなかったとしてもこの三階に上がって来ることはまず不可能だろう。
アメリアは窓を元通りに閉めると、いよいよミシンを調べようと後ろを振り返った。
すると――。
――あら、あの穴は何かしら?
ミシンの背後の壁の上部に穴が開いていた。
横に長い長方形で写真立てくらいの大きさだ。
「あれは通気口ですよ。あの穴の後ろの壁の中には、下の階から屋根の排気口まで続くダクトが通っています。通常は蓋で覆われているのですが、あの通気口の蓋は数日前に取れてそのままになっていたそうです」
ヘイスティングス警部がミシンの前に歩み寄って来て、アメリアと同じように穴を見上げながら教えてくれた。
アメリアは自邸<メラヴェル・ハウス>の壁の様子を思い浮かべた。
<メラヴェル・ハウス>の通気口は大抵壁の下の方についているが、いずれも優雅な彫刻が施された白い鉄の蓋で覆われていた。
そして、その蓋は複数箇所をネジで留められていたはずだ。
――この通気口の蓋も同じようにネジで留められていたのでしょうけど、何故取れてしまったのかしら?
アメリアはこれも後で考えなければならない謎の一つとして頭の中にメモしておいた。
そして、アメリアはいよいよミシンに近づいた。
それは足踏み式の黒いミシンだった。
机のような木製の台の上にミシン本体が据え付けられていて、台の下には金属製の脚やペダルが付いている。
黒いミシン本体には金文字のメーカー名と花模様が描かれている。
そして、何故かミシン台の上には二冊の本――J.S.ミルの「女性の解放」とメアリー・ウルストンクラフトの「女性の権利の擁護」が置かれていた。
二冊の本はどちらもクロス装で、厚みはあるが片手で持ち運べるくらいの大きさだ。
「この二冊は遺体が発見されたときからこちらに?」
アメリアが問うとエヴァレット巡査部長が内ポケットから帳面を取り出して確認してくれた。
「はい。通報を受けて最初に駆け付けた巡査の記録でも、この二冊の本がこのミシン台の上に置かれていたということです。普段は廊下を挟んで向かいの執務室の本棚にあるものが、こちらに持ち出されたようです。二冊とも女性参政権運動家にとっては重要な本らしいですね」
エヴァレット巡査部長の説明を受けてアメリアは思案した。
――確かに女性参政権運動家ならこの二冊を読んでいてもおかしくはないけれど、何故ミシン台の上に?
――被害者のミセス・グリーヴスはミシンの作業の合間にこの本を読んでいたのかしら?
――ミシンの作業中に読書というのも何だか不自然な気はするけれど……。
ただ、これらの本が事件に関係するかよくわからなかったので、アメリアはひとまずはミシン本体へと視線を移した。
「アンソン、ちょっとこちらに来てちょうだい」
アメリアが呼びかけると、部屋の入り口付近に控えていたミス・アンソンが近くに寄ってきた。
彼女もまた先ほどのアメリアと同様、絨毯の血痕を踏み越えることはせず、端の方を通った。
「はい、何でしょう。お嬢様」
「これは当家にあるミシンと同じように見えるのだけど……」
アメリアは自邸<メラヴェル・ハウス>の使用人用の裁縫室にミシンがあることを知っていた。
数年前に、今の自邸に引っ越したばかりの頃、使用人区画を含めて一通りの部屋を見て回ったことがあった。
「ええ、お嬢様。年式は違いますが、メーカーは一緒です」
アメリアはその迷いのない答えを聞いて心強く思った。
というのも、上流中産階級の令嬢育ちで、現在は女男爵であるアメリアは、これまで一度もミシンに触れたこともなければ、こんなに近くでミシンを見たこともなかった。
当代の英国において、一定以上の階級のレディのする裁縫と言えば刺繍くらいなもので、ミシンを使った本格的な縫製は、家族の服を自ら仕立てる必要のある中流中産階級以下の主婦か、仕事上縫製をしなければならない労働者階級の男女の領分だった。
つまり、アメリアがミシンについて知りたい場合は、これまで侍女としてミシンを扱った経験が豊富なミス・アンソンに教えを乞うほかない。
「このミシンはどう使うのか教えてもらえるかしら?」
アメリアが問うとミス・アンソンはヘイスティングス警部の方を見た。
彼女は警部が「どうぞ」と言ったのを確認してからミシンの前の椅子に座った。
「足元にペダルがありますでしょう?まず、ここに足を乗せます」
アメリアはミシンの下を覗き込んだ。
ミス・アンソンがペダルと言ったのは、足元にある黒く塗られた鉄でできた格子状の板だった。
ティーセットを運ぶときに使うトレーくらいの大きさだ。
ミス・アンソンはそのペダルの上に右足を乗せていた。
「このペダルを前後に傾けると、ミシンの針が上下して縫い進めることができるのです」
ミス・アンソンはミシンの右側についている小さな車輪を軽く手で回した後、足を使ってペダルを前に傾けたり後ろに傾けたりを繰り返した――シーソーの動きに似ている。
すると、そのペダルの動きが足元にあるいくつかの車輪を経由して台の上のミシン本体に伝わり、最終的には細いミシン針――今は水色の糸が通されている――を上下させる動きに変換されていた。
狭い作業室にペダルの音と針が上下する音が響いている。
ミス・アンソンはその細い針の動きを観察して少し目を細めた。
「ミシンってすごいのね……」
初めて間近でミシンが動く様子を見たアメリアは思わずため息をついた。
それにこれを難なく操作できるミス・アンソンもすごい。
被害者のミセス・グリーヴスもきっと何度も練習したのだろう。
アメリアは、ペダルの動きが車輪を通じて針の上下運動に変換される様子をつい興味の赴くまま観察してしまった。
しかし、すぐに時間がないことを思い出して、ミス・アンソンに礼を言って一旦ミシンの調査は終わりにした。
最後は、この部屋の残りの部分――部屋の左手にある家具の周辺の調査だ。
とはいえ、部屋の奥の時季外れのストーブはただカバーが掛けられているだけなので、見るべきは手前の作業台だった。
作業台の上には、盾型の旗が広げて置かれていた。
警部から聞いていた通り、旗の上には"DEEDS NOT WORDS"(言葉より行動を)と黒いペンで手書きされている。
作業台の隅にペンとインクが無造作に置かれているので、誰かがそれらを使って書いたのだろう。
「その旗が被害者のミセス・グリーヴスが当日作っていたもののようです。被害者は自宅で盾形に裁断してきた麻布の縁に水色のバイアステープを縫い付ける作業をしていたとミスター・グリーヴスは証言しています」
エヴァレット巡査部長が帳面を見ながら説明するのを聞きながら、アメリアはその旗を注意深く観察した。
旗は厚手の麻製で、一人で持って掲げられる程度の大きさだった。
端が一周全て水色のバイアステープでくるまれているので、被害者は亡くなる前に予定通り作業を完成させたということだ。
バイアステープの上には同色の糸の正確な縫い目が走っていた。
一方、中央に書かれた"DEEDS NOT WORDS"(言葉より行動を)の文字は、お世辞にも丁寧とは言い難かった。
これを行進の際に掲げても格好が付かないように思える。
そう考えながらアメリアがふと顔を上げると、隣のミス・アンソンが旗を見つめながら顔を顰めているのに気が付いた。
彼女は少し首を傾げてから、エヴァレット巡査部長に近づいて小声で彼に何事かを質問した。
アメリアには彼女の質問の内容は聞き取れなかったが、エヴァレット巡査部長は「いいえ、ミシン関連の異状は特に報告されていません」と答えた。
アメリアはその様子が気になり、二人に歩み寄りながら彼女に声を掛けた。
「アンソン、何か気が付いたことがあって?」
「いえ、大したことではございません、お嬢様」
ミス・アンソンは目を伏せて言い切った。
彼女に限らず使用人は主人に自分の意見を述べることは控えるよう訓練されているのだ。
しかし、アメリアは諦めずミス・アンソンに問いかけた。
「いつだって一見"大したことない"ことが重要なのよ。どうか教えてちょうだい。ミシンに何かあったのかしら?それとも旗のこと?」
「いえ、あの、巡査部長も異状は報告されていないとおっしゃっているので――」
ミス・アンソンが言いかけたところで、警部の声が会話を遮った。
「女男爵様、残りの部屋を見るならそろそろ移動してください。急かしてしまって申し訳ないですが」
もう一押しというところで残念だが、警部に急かされてしまっては、アメリアもミス・アンソンもまずは次の部屋に移動するほかなかった。




