10.リッチモンドへ①
事件現場間取り図はこちら:https://ncode.syosetu.com/n7008lc/2/
ヘイスティングス警部の訪問の翌日、アメリアは早速自家用車でリッチモンドに向かった。
その自動車を運転しているメラヴェル男爵家のショーファー、ノートンの背中はやや強張っていた。
出発前にアメリアから殺人事件の捜査に出かけると聞いたせいだろう。
アメリアは、前回の事件の捜査ではノートンには事情を明かしていなかったが、母ミセス・グレンロスの許可を得て捜査している今回は、彼に隠し立てをする必要もないので正直に事情を告げていた。
そして、後部座席のアメリアの隣には侍女のミス・アンソンがいつも通り控えめながら冷静な様子で座っていた。
昨日休暇をとっていたミス・アンソンは<メラヴェル・ハウス>に戻るなり、主人たちから事件のことを聞かされてひどく驚いていたが、「お嬢様が捜査なさると決めたのであれば」と侍女として供をすると言ってくれた。
そんな彼らを乗せて郊外の道を行くダイムラー社製の屋根なし自動車は、容赦なく砂ぼこりを巻き上げていた。
アメリアは少し目を細めながらほこり避けのヴェールで顔を覆っておいて正解だったと思った。
そして、いよいよテムズ川に差し掛かったとき、アメリアはただその田園風景に胸を打たれた。
鮮やかな緑の木々の間を悠然と川が流れていく。
ロマン主義の風景画家が絵に描いた通りだ。
“銀のテムズが初めて田園風景となる場所へと――”
彼女の頭には何かの折に読んだリッチモンドの風景を詠った詩の一節が浮かんだ。
子供の頃、祖父母に会いに行くときに同じ風景を見ていたのだろうに、この美しさを意識しなかったのが不思議だ。
しかしながら、今回は、この美しく平和なリッチモンドで殺人事件が発生した。
自動車は田園地帯を通り抜け、賑やかな商業地区にある事件現場の建物の前で停車した。
アメリアはまず、ほこり避けの上着を脱ぎながら建物の外観を観察した。
市街地によくあるタイプの三階建ての新バロック様式の建物だ。
昨日警部から聞いた話によると、この建物は被害者ミセス・グリーヴスとその夫の所有で、夫妻はその三階の一区画を<SWSA>にほぼ無償で貸しているとのことだった。
それ以外は、一階には薬局が、二階は被害者の夫で事務弁護士のミスター・グリーヴスの<グリーヴス弁護士事務所>が、三階の<SWSA>本部以外の区画にはとある商会のオフィスが入っていると、建物の看板に書かれていた。
アメリアはほこり避けのコートに続いてヴェールも取ろうとして手を止めた。
迷った末に結局は、ヴェールを着けたまま侍女のミス・アンソンを伴って車を降りた。
事件現場で顔を曝け出すのは心許ない気がした。
建物のホールではヘイスティングス警部とエヴァレット巡査部長が待っていた。
「ごきげんよう、お二人とも」
アメリアが声を掛けると、2人の刑事は軽く帽子を上げて挨拶した。
「ご足労いただきありがとうございます、女男爵様」
「お久しぶりです、女男爵様」
警部に続いて、相変わらず刑事というには柔和すぎる印象のエヴァレット巡査部長が穏やかに言った。
アメリアはエヴァレット巡査部長とも過去の二つの事件を通じて面識がある。
今回の捜査にはローシュ警視の強い意向が働いているということだが、この忠実な巡査部長が今回も警部と一緒であることはアメリアにとっても心強かった。
***
一同は警部に続いて建物の急な階段を上った。
今日のアメリアは、動きやすさを重視してベージュとブラウンのストライプの外出用スーツという出で立ちだったが、それでも上りづらい階段だった。
侍女用の黒いドレスを着ているミス・アンソンも難儀していた。
足早に一同を先導していた警部は、女性たちの苦労に気づいて「これは失礼」と言って少し歩調を緩めてくれた。
そして、昨日帰りがけに言ったことを繰り返した。
「ローシュ警視の目を盗んで現場を見られるのは30分ほどしかないので、つい焦ってしまいました」
アメリアは神妙に頷いた。
警部が無関係の女男爵に捜査をさせたことが警視に知れれば、最悪の場合、免職になることすらあり得るのかもしれない。
万が一そのような事態になれば、ヘイスティングス家の家族は路頭に迷ってしまう。
アメリアは会ったこともないミセス・ヘイスティングスと子供たちのことを思い、背筋を伸ばした。
今日の現場検証は密やかに速やかに、かつ、漏れなく行わねばならない。
三階まで階段を上り切った警部は右手に進み、<郊外女性参政権運動同盟本部>と書かれたプレートがついている扉の前で立ち止まった。
彼はアメリアを振り返ってからそっと扉を開けた。
本部の中は静まり返っていた。
<SWSA>のメンバーはもちろん、警察関係者も今は不在だ。
扉の先には小さな玄関ホールがあり、そこから直線の狭い廊下が続いていた。
一旦全員がその狭い廊下に収まったところで、エヴァレット巡査部長が今の状況を説明した。
「この現場は捜査のために暫く封鎖されることになっていますが、<SWSA>側は早期明け渡しを求めています。彼女たちは亡くなったミセス・グリーヴスの遺志を継いで来月の<女性の戴冠式>の行進の準備を一刻も早く再開したいらしいのです」
アメリアは昨日の警部の話を思い出した。
確かに被害者は来月6月の<女性の戴冠式>の行進で使う旗を作るために作業室でミシンを使って作業していたという話だった。
「こちらが遺体が発見された作業室です」
警部は廊下の左側の二部屋の内、入り口に近い方の部屋のドアを指した。
その左側の二部屋の他には、右側に扉のない大部屋が一つ、突きあたりに扉付きの部屋が一つあるので、この本部には合計四つの部屋があるようだった。
「他の部屋は何の部屋なのでしょう?」
アメリアが念のため質問すると巡査部長がそれぞれの部屋のドアを指しながら教えてくれた。
「作業室の隣が簡易キッチン付きのパントリー、右手の広い部屋が執務室、一番奥は会合室です」
被害者が本部に滞在中、会合をしていた人々もいたということだが、その会合は奥の会合室で行われたのだろうとアメリアは思った。
「まずは作業室をご覧になります?」
巡査部長の問いかけにアメリアが頷くと、彼は木製の扉を静かに開け、入室しながら説明を続けた。
「この部屋はほぼ事件当時のままになっています。ただし、当然遺体は既に運び出されていて、ミセス・グリーヴスが持参したハンドバッグとその中身は地元の警察署に保管されています」
作業室は簡素な部屋だった。
左手の壁沿いに長方形の作業台があり、長い辺の一方が壁に付けられていた。
その天板は裁縫の際に布を広げるのに十分な広さがある。
そして、作業台の奥には、カバーで覆われた時季外れのストーブがあった。
一方、右手の壁沿いにもいくつかの家具が配置されていて、入り口から見て一番手前に小さな書き物用の机、そのすぐ奥に背の高い書棚があった。
アメリアはまずは書き物机の前で足を止め、近くの壁に飾られている写真の内の一枚に視線を向けた。
<SWSA>のメンバーの記念写真のようで、20名弱の人物が並んで写っていた。
ほとんど女性だが、何名かの男性の姿もある。
「その写真には〈SWSA〉のメンバーほぼ全員が写っています。ミセス・グリーヴスはこの女性です」
エヴァレット巡査部長も写真に近づき、その中の一人の女性を指し示した。
アメリアはヴェールを外して、その女性をよく観察しようと少し目を細めた。
ミセス・グリーヴスは30代前半くらいの女性で、写真の中央付近で"VOTES FOR WOMEN"(女性に投票権を)と書かれた盾形の旗を掲げ、微笑んでいた。
モノクロ写真ではあるが、優しげな瞳と通った鼻筋が印象的な美人であることはわかった。
「ミセス・グリーヴスの左隣の背の高い女性が代表のミセス・プレストンです。反対の右隣に写っている眼鏡の女性が書記のミセス・ベネット、その後ろが息子のミスター・トーマス・ベネットです」
アメリアが写真に見入っていると巡査部長が補足した。
代表のミセス・プレストンは、精悍な顔つきをしている女性だ。
一方の書記のミセス・ベネットは丸眼鏡を掛けて固い表情をしている。
後列の明るい笑顔の若者がミセス・ベネットの息子ミスター・トーマス・ベネットだ。
「被害者のご主人も写っているのかしら?」
アメリアが問うと、巡査部長は写真を少し見回して、右端のボウラーハットを手に持った男性を指した。
「こちらが被害者のご主人ミスター・ヴィンセント・グリーヴスです」
ミスター・グリーヴスは整った口ひげが印象的な典型的な専門職の男性に見えた。
それから、アメリアはその他の写真にも目を走らせたが、いずれも演説会や行進の最中に撮られた遠目の写真で、人物ははっきりとは写っていなかった。
【引用詩出典】
James Thomson, "The Seasons: Summer" (1730)
日本語訳は作者による。




