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9.転向②

「……いかがです?女男爵様」


 警部の問いかけが長い沈黙を破った。

 アメリアはいよいよ捜査を支援するか否かの答えを出さなければならない。

 他の人々の視線もアメリアに集まってくる。


 ――午後4時までは生きていたと思われる被害者。

 ――彼女は睡眠薬を飲まされて眠ったところをナイフで刺されていた。

 ――急進派のスローガンが書かれた旗。

 ――ミスター・トーマス・ベネットと被害者の関係……。


 アメリアのヘーゼルの瞳の奥には様々な謎が巡っている。

 一度考え始めてしまえば、もう誰も彼女の思考を止めることはできない。

 

 しかし、一方で、アメリアは前回の殺人事件を捜査したときのことも忘れてはいなかった。

 前回の事件で、アメリアは自らの判断ミスにより犯人に監禁されてしまい、皆に迷惑と心配をかけてしまった。

 それに何より――。

 

 そこまで考えてアメリアは記憶を振り払うように首を振った。

 いずれにしても、今回はその反省を踏まえて慎重に行動する必要がある。


「警部、お引き受けしたとして、関係者に私が捜査していることを気づかれないように進めることはできるのでしょうか?」


 アメリアは警部の表情を窺う。


「ええ、もちろんです」

 

 意外にも警部が即答したので、アメリアは少し拍子抜けした。

 すると、警部はため息交じりに言った。


「というより、今回の捜査はローシュ警視に見張られているので、例えば、私があなたを関係者の元にお連れするなどということは困難なのです。私が警視の目を盗んでできそうなのは、現場をお見せすることと、関係者の証言記録などの写しをお渡しすることくらいだと思います」


 不満そうな警部と対照的に、アメリアは僅かに表情を緩めた。

 あくまで関係者に"気づかれないよう"捜査するのであれば、完全に安全とまでは言えなくても、危険は限定的だと考えても良いかもしれない。


「その条件であれば、少しお手伝いすることはできそうです。解決を保証することはできませんが、全力は尽くします」


 アメリアがそう言うと、警部の表情は目に見えて明るくなった。


「いや、感謝のしようもありません。ありがとうございます、女男爵様」


 アメリアが警部に微笑みを返そうとしたとき、彼女は自分に注がれている視線に気づいた。

 アルバート卿の青みがかった灰色の瞳が彼女に向けられていた。

 その瞳には問いが滲んでいる。


 ――「本当にそれでいいのか?」……ということかしら。


 そう理解したアメリアが小さく頷くと、アルバート卿の方でも頷きを返してくれた。

 しかし、実際のところ「本当にそれでいいのか」はアメリア自身にもわからなかった。


 ***


 その後、アメリアは警部と相談して、明日早々にリッチモンドの現場を見に出かけることを決めた。

 明日であれば、刑事たちが一斉に近隣に目撃情報の聞き込みに出かけるため、目立たずに事件現場を見せることができるらしい。

 大まかな予定が決まったところで、警部とそれまで付き合ってくれていた侯爵家の兄妹は帰って行ったが、アメリアは母ミセス・グレンロスと共に応接間に残っていた。

 彼女は母にどうしても聞きたいことがあった。

 

 アメリアは意を決して母に向き直ると、穏やかに、しかし、はっきりと切り出した。


「お母様、私の犯罪捜査を許してくださって感謝しているけれど、どうしてアルバート卿を巻き込んだりなさったの?」


 ミセス・グレンロスは、訪問者が相次いだことで刺しかけになっていた刺繍に取り組んでいた。

 今は既に刺し終えている雛菊の花の横に葉を足している。


「言ったでしょう?私は考えを変えたの」


 緑の糸で滑らかにフィッシュボーンステッチを刺しながら母は軽い調子で答えた。

 

 アメリアは首を傾げた。

 犯罪捜査を禁止する方針から母の監督を条件に許可する方針に変えたというだけでは、アルバート卿を名指しして同席させたことの説明にはならない。

 

 ミセス・グレンロスは、アメリアに一瞬視線を向けてから再度口を開いた。

 

 「私が考えを変えたのは、犯罪捜査のことだけじゃないのよ」


 刺繍の手が速いミセス・グレンロスは既に葉の三分の一ほどを刺し終えていた。

 そこで彼女は一度手を下ろしてアメリアを真っすぐに見つめた。


 「あなたの結婚相手のことですよ。こうなってみれば、あなたはあの方に結婚してもらうのが一番なのよ。だから、彼にはあなたの状況を知っておいてほしいと思ったの。こういうことは隠しても仕方ないのだから」


 アメリアは思わず目を見開いた。


 "あの方"というのは明らかにアルバート卿を指している。

 去年までミセス・グレンロスはアメリアがアルバート卿と親しくすることに反対していたはずだ。

 とはいえ、去年、殺人犯に監禁されたアメリアがアルバート卿を巻き込みながらも辛くも生還した後は、二人の関係に対しての母の考えは有耶無耶になっていた。


 アメリアが戸惑っていると、ミセス・グレンロスは刺繍を再開しながら話を続けた。


「あの方はあなたの前の婚約者とは違うわ」


 その言葉にアメリアの忘れかけていた記憶が蘇った。

 

 メラヴェル男爵位を継承する前、まだ上流中産階級のグレンロス家の令嬢だった彼女には、准男爵家の推定相続人ミスター・ジョナサン・カーライルという父親同士が決めた婚約者がいた。

 しかし、アメリアが女男爵となった際に、ジョナサンとその父のサー・ロバートの意向に沿う形で婚約は解消された。

 その理由ははっきりしていた。

 准男爵位は世襲可能な爵位ではあるが、本当の意味での貴族ではないので、ゆくゆくジョナサンが准男爵になったとしても女男爵のアメリアの方が格上になってしまう。

 女性が男爵やら伯爵やらと結婚すれば男爵夫人や伯爵夫人の称号を得られるのに、男性が女男爵や女伯爵と結婚してもそれだけでは彼は妻の爵位に対応する称号も爵位も得られない――理不尽にも思えるがそれがルールだ。

 准男爵家の男性たちにとってはそれが不都合だったのだ。


「あの方は……あなたの複雑な立場を特段気になさっていないようね。前から変わった方だとは思っていたけれど、生まれが高貴だとそんな些末なことは気にならないのかしら?」 


 アメリアは母の言わんとしていることを理解していた。

 前の婚約において、アメリアとジョナサンも複雑な立場に置かれたが、アメリアとアルバート卿の場合はもっと複雑だ。

 

 まず、爵位の有無の観点がある。

 アルバート卿は侯爵の子息なので洗礼名に"卿"を冠して呼ばれる立場にあるが、それはあくまで儀礼上の称号に過ぎず、彼は自分自身の爵位を持たない。

 この点において、母はアメリアが爵位を持っていることが彼の矜持を傷つけるかもしれないと懸念していた。

 

 一方、出自の観点はまた別の懸念が生じる。

 アルバート卿が生まれたときから高位貴族の子息なのに対し、アメリアの生まれは上流中産階級の法廷弁護士の娘に過ぎなかった。

 この観点においては、逆に、アメリアの出自が彼よりも著しく劣っていることを母は懸念していた。


 いずれにしても釣り合わない二人に結婚の可能性はないのだから、無駄に親しくしない方が良いというのが、去年までの母ミセス・グレンロスの考えだったはずだ。

 しかし、彼女の考えはこの一年ほどで180度変わったようだ。


「……ずいぶんと思い切った転向ね、お母様」 


 アメリアが正直な感想を漏らすと、母は刺繍の手を動かしながら軽く肩を竦めた。


「頭で色々考えるより、実際的な面を見ることにしたの。去年のオフシーズン以来、彼は月に一度はあなたに手紙をくれるようになったでしょう?」


 確かにそれは大きな変化だった。

 去年、共に危機を乗り越えた後、彼は定期的にアメリアに手紙をくれるようになっていた。

 とはいえ、正式に交際しているわけではないので、宛名はいつもアメリアとミセス・グレンロスの連名ではある。

 しかし、その内容は明らかにアメリアに向けたものだった。

 お互いに感情的なことは何も書かないものの、共通の趣味である読書の話題を通して、かなり個人的な考えや思いを交換している。


「それから、彼はタイミングを図っているように見えるわ。きっとその内に"求婚者"として訪問の申し込みをなさるつもりよ」


 アメリアはつい先ほど庭を散策していたときのことを思い出した。

 ヘイスティングス警部の訪問によりアメリアが室内に呼び戻される直前、彼は何か言いかけていた。


「なにより、この一年弱、母親として観察していたけれど――やっぱり彼はあなたのことが好きなのよ。証拠が積み上がっているのだから間違いないわ」

「そんなことは――」


 レディとしての慎ましさが身についているアメリアは反射的に「そんなことはないはず」と言いかけたが、続かなかった。

 だって、正直――。


 ――そんなことは……ある、と思う。


 自然と彼とのたった一度のキスの記憶が蘇った。

 それが決して軽い気持ちでなされたものではないことは、アメリアにもよくわかっていた。

 

 アメリアは自分の頬が熱くなるのを感じ、まだ傍らに残っていた冷め切った紅茶を口に含んだ。

 

 母はそんな娘の様子を気にする風でもなく、あっという間に雛菊の葉を一枚刺し終わった。

 そして、続けて二枚目の葉に取り掛かろうとしている。


「ただ、訪問の申し込みに少し時間がかかりすぎているわね。まさか今更あなたが"探偵"をしたがっていることを気にされているなんてことはないと思うけど」


 ――それは……どうかしら?


 母の言葉にアメリアの頭は一気に冷静になった。

 

 そもそも彼女とアルバート卿は、初めて会ったときにウェクスフォード侯爵家で起きた盗難事件を一緒に捜査した。

 その意味では、彼にとってアメリアはほとんど最初から"探偵"のようなことをしている女性ではある。

 けれど、そのとき捜査したのは、あくまで盗難事件であり、捜査範囲だってウェクスフォード侯爵家の屋敷の中――つまり、アルバート卿の家の中――に留まっていた。

 一方、その後の二番目の事件と今回警部から相談された事件は殺人事件だ。

 しかも、今回はロンドン市街を離れて、郊外のリッチモンドにまで出向くことになってしまった。

 さすがに"探偵"の真似事が行き過ぎているのかもしれない。

 

 ――アルバート卿は私の爵位や出自のことは気になさっていない……それは確かだわ。

 ――ただ、それはどちらも今更変えられないことだからではないかしら?

 ――一方で、"探偵"は、私の選択次第ですぐにやめられるわ。

 ――だとすると……。


「あの方は一体何を躊躇っていらっしゃるのかしら?」


 アメリアの沈黙を他所に、ミセス・グレンロスは針を動かしながらため息をついた。

 

「とにかくね、アメリア。来月には新しい国王陛下も戴冠されることだし、私は古い考えは捨てることにしたわ。だから、あなたは何としてもあの方に結婚してもらいなさい。もちろん、あの方よりもあなたを幸せにしてくださる方がいるのなら別よ」


 そう言って、ミセス・グレンロスはもうこの話は終わりとばかりに目の前の刺繍に没頭し始めた。

 一方のアメリアは自室に戻ることもなく、ただその場に留まっていた。

 思考を巡らせながら目を閉じると、瞼の裏に先ほどのアルバート卿の灰色の瞳が浮かんだ。


 ――私は本当にこれでいいのかしら?


 母の刺繍が終わっても、アメリアはその答えを出すことができなかった。

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