8.転向①
「――というわけで、本来であれば私は今頃、旅行鞄を持ってリッチモンドに行っているはずでした。しかし、先にあなたにご相談した方が良いと思ってお訪ねしたのです」
警部が事件の説明を終えると、<メラヴェル・ハウス>の応接間は静まり返った。
アメリアは頭の中で警部の話を整理していた。
――事件が起きたのはリッチモンドの穏健派女性参政権運動組織<SWSA>。
――資金援助と裁縫を担当していたミセス・グリーヴスが殺された。
――現場にあった旗に書かれていた急進派のスローガン"DEEDS NOT WORDS"(言葉より行動を)。
――急進派に転向予定で仲間を募っていた代表のミセス・プレストン。
――被害者は穏健派に残るつもりだったのか、急進派に転向するつもりだったのか、または、決めかねていたのか、関係者の証言が一致しない。
アメリアが思考の海に沈んでいると、最初に沈黙を破ったのは彼女の母ミセス・グレンロスだった。
「警部、本当にあの静かなリッチモンドでそんな恐ろしい事件が……?」
「残念ながら本当です」
アメリアは、母の声が少し震えているのに気が付いた。
リッチモンドは母が生まれ育った地なので無理もなかった。
母の亡き父――つまり、アメリアの母方の祖父――はリッチモンドの平和な村の牧師だった。
アメリアも祖父母が存命だった頃は、時々リッチモンドの彼らに会いに行ったものだ。
「女男爵様、いかがでしょうか?何か気になる点はありますか?」
警部はアメリアに向き直って尋ねた。
「正直に言って気になる点ばかりですわ、警部。ただ、その中でも二つ、どうしても気になることがあります」
アメリアは視線を落として警部が座っている黄色のソファのダマスク模様を見ながら思案した。
結局、彼女は一番言いづらく、かつ、一番気になることから切り出した。
「まず、一番気になるのは、警部、あなたに関することです」
「私のことですか?何でしょう?」
「先ほどの話では、隠した……とまでは言わなくても、敢えて省略した部分がありますね?」
アメリアは視線を上げ、警部の表情を探った。
しかし、さすがに刑事として経験豊富な彼の瞳には揺れ一つ浮かばなかった。
「そうでしょうか?わざわざミセス・ヘイスティングスの誕生日のことまで話しましたよ」
彼が大げさに肩を竦めながら言ったので、アメリアは柔らかく笑った。
「それについては私からもお祝い申し上げますわ」
「どうも」
警部は口元に笑みを浮かべたが、すぐに真剣な顔に戻った。
アメリアは彼を真っ直ぐに見つめて言葉を続けた。
「私が言っているのは、あなたと主任警部のことです。お二人が話したことがもっとあったのではありませんか?」
警部は答えなかった。
そこで、アメリアは一つ息を吐いてから続けて問いかけた。
「警部、あなたは最初に今回の訪問は『非公式な訪問』とおっしゃいましたね?」
「まあ、そうです」
「前回の事件で当家にいらっしゃったときは、ロンドン警視庁の警部としての公式な訪問だったはずです――公式の名刺もいただきましたもの。でも、今回は『非公式』と明言なさいました。この違いは一体何なのですか?」
警部は控えめな咳払いをしたが、言葉に詰まったようにも見えた。
「警察には何か事情があるのでは?それを教えていただかないことには、協力するとも、しないとも申し上げられません」
アメリアはきっぱりと言い渡した。
警部は一度天井を見上げ、それから目を閉じて暫く思案していた。
しかし、最終的には重々しい口調で切り出した。
「……いいでしょう。お話しします」
そう言って彼はアメリアと真っ直ぐに視線を合わせた。
「今回事件が発生した地区の地主はとある准男爵なのですが、実は、その准男爵夫妻――というより准男爵夫人が相当熱心な"反"女性参政権運動家なのです」
警部は"反"を強調して言った。
もちろん、アメリアは、女性参政権運動家がいるのと同じように、"反"女性参政権運動家がいるのも知っている。
昨夜の正餐会で同席した自由主義的な人々は、条件面で細かな意見の相違はあるものの、女性が参政権を得ること自体には皆反対ではなかった。
しかし、今のところ、貴族や地主の間では――積極的に活動するかは別として――女性参政権に反対する保守的な人々の方が目立っている。
「とはいえ、准男爵夫妻は先週後半からずっとバースで静養中であることが確認されているので、事件とは無関係と言って良いでしょう。ただ、私の上司の上司、ローシュ警視がどうも准男爵夫人の政治的立場に"配慮"しているようなのです――警視の兄が准男爵夫人の後援で治安判事に任命されているからに違いありません」
ヘイスティングス警部は深くため息をついた。
「警視は、<SWSA>の有力幹部を今回の殺人事件の犯人として検挙することで、組織の活動を停滞させて准男爵夫人の歓心を買いたいのです。おそらく、"第一希望"はミセス・ベネットでしょう。ミセス・プレストンでも悪くないでしょうが、彼女は間もなく<SWSA>を脱退してリッチモンドを離れてロンドン市街の急進派組織に加わる予定ですからね」
「あら、被害者のご主人ミスター・グリーヴスは?彼も会計係なのだから有力幹部でしょう?」
と指摘したのはミセス・グレンロスだった。
「ええ、彼も有力幹部ではあります。ただ、彼が犯人として検挙されると、准男爵夫人は喜ぶでしょうが、准男爵のお気には召さないと思われるので、微妙なところですね。准男爵は事務弁護士としての彼を重用しているのです。最近も准男爵の従弟の方の結婚に際して、ミスター・グリーヴスに花嫁の実家との婚姻契約をまとめさせたとか。准男爵は政治思想より職業的な実力を重視する方のようです」
警部の説明にミセス・グレンロスは頷いた。
確かに"政治思想より実力重視"というのは、現実的な地主らしい判断かもしれないとアメリアも思った。
「もちろん、私とフェアファックス主任警部は客観的証拠に基づいて捜査を進めるつもりです。ただ、警視の思惑と外れたことをしていれば、事件の担当から外されることもあり得ます。なので、今回私はあなたを非公式に訪ねたのです。事件と無関係の女男爵様の助力を仰いだことが公式な捜査活動として記録に残ると、警視に目を付けられかねませんから」
警部の話を聞きながらアメリアは警部と知り合った最初の事件――侯爵家のダイヤモンド盗難事件――のことを思い出していた。
警部はそのときから権力に屈せずに捜査を進める刑事だった。
今回も何とかして警視の監視の目をかわして公正な捜査をしたいのだろう。
アメリアがそんなことを考えていると、今度はレディ・グレイスが警部に質問した。
「警部、部外者だけど質問してもいいかしら?」
「もちろん、構いませんよ」
警部は頷いてレディ・グレイスに続きを促した。
「私、警部がどうしてわざわざレディ・メラヴェルの助力を求めるのかがよくわかりませんの」
レディ・グレイスはその大きな瞳を見開いて首を傾げていた。
「だって、先ほどのお話からすると、容疑者は絞られますでしょう?ベネット母子の言う通り、被害者が午後4時までは生きていたとすると、外部犯でなければ犯人は第一発見者のミセス・プレストン以外あり得ないのではないかしら?他の会員たち――弁護士事務所にいたミスター・グリーヴスと演説会に参加していた四人にはアリバイがありますもの。それなら、警視の思惑とそれほど外れてはいないのですから、何も心配ないでしょう?」
警部は彼女の指摘にゆっくりと頷いて言った。
「ええ、私もその可能性を真っ先に考えました。ただ、今日の午前中に遺体を検分した地元の検死官から連絡があり、新たな事実がわかりました。被害者は亡くなる前に睡眠薬を飲んでいたようなのです。出血の状況から、眠ったまま背中をナイフで刺されたと見られています」
アメリアは眉を上げた。
被害者は単純にナイフで刺されて殺されたわけではなかった。
先に睡眠薬で眠らされ、次にナイフで刺されたのだ。
――でも、そうだとしたら、何故犯人は……?
アメリアは少し首を傾げたが、警部の話がまだ続いていたので、この点は後で落ち着いて考えることに決めた。
「一方で、こちらに伺う前に、私は、昨日ロンドン市街でミセス・プレストンに会っていた人たちに話を聞いてきました。彼女たちは、ミセス・プレストンはロンドン市街で午後1時半から昼食会に参加し、帰りは確かに午後4時の少し前に発車する列車に乗ったと証言しました。すると、ミセス・プレストンが現場である本部に着いたのは、本人の申告通り午後4時40分過ぎだったと思われます。そして、彼女が警察に通報したのが午後4時50分であることは地元警察の記録にも残っています」
警部がため息交じりに説明すると、レディ・グレイスは考え込んでしまった。
アメリアも少し思案してから口を開いた。
「そうすると、ミセス・プレストンには時間が足りないということですね?午後4時40分に本部に到着したのだとしたら、その後午後4時50分に警察に通報するまで10分しかありませんわ。僅か10分で被害者に睡眠薬を飲ませてからナイフで刺すというのは無理があります。そもそも一般的な睡眠薬であれば、効果が出るまでに30分くらいは待たないといけないでしょうし」
警部はアメリアの言葉に頷いて、少し声を落とした。
「おっしゃる通りです。それに、彼女が犯人だとすると他の謎と繋がらない気がするのです。例えば、旗に残されていた急進派のスローガン――ミセス・プレストンが犯人だとすると彼女が書いたのでしょうか?しかし、何故わざわざそんなことを?急進派に転向しようとしていた彼女が殺人現場に急進派のスローガンを書き残し、それを『被害者が書いたものではないと思う』などと証言するのは……よく意味がわかりません」
警部の言葉にアメリアも頷いた。
彼の言う通り、ミセス・プレストンが犯人だとすると筋が通らない。
警部は首を捻りながら更に話し続けた。
「それから、書記補佐のミス・ロビンソンが証言したミスター・トーマス・ベネットと被害者ミセス・グリーヴスの関係もよくわかりません。もっとも、これが事件に関係しているかは不明ですが……」
アメリアは頬に手を当てて思案した。
この点については、二つ目の"気になること"を訊いてみた方が良いのかもしれない。
「警部、そこに私の"気になること"の二つ目があるのです。先ほどのミス・ロビンソンの証言は、彼女が聞いた会話そのものなのでしょうか?つまり、間接話法に直したものではなく、発言者の言葉を直接お伝えいただいたのかという点を気にしています」
「ええと……私はどんな風に言いました?」
警部はそう言いながら上着のポケットから黒い革表紙の帳面を取り出して、パラパラとページを捲り始めた。
すると、これまで黙っていたアルバート卿が静かに口を開いた。
「警部はこうおっしゃいましたよ。ミス・ロビンソンはまず、ミスター・トーマス・ベネットの言葉として『僕たちの結婚の件でミセス・ベネットに騙されたと思っているのですか?』と訊いた。それに対して、ミセス・グリーヴスが『いいえ、あれは私が馬鹿だったの。ただ、いずれにしてもアグネスとは気まずくなってしまったわ』と答えた。そして、ミスター・ベネットが『母はあなたではなく僕に怒っているだけです。母は結婚を個人の意思だけでするものではないと思っていますから』と言ったところで会話は終わったようですね」
言い終えたアルバート卿にアメリアが視線を向けると、彼が少し眉を上げたので、アメリアはつい微笑みを返してしまった。
言語的な記憶に優れているアルバート卿はアメリアが忘れかけていた部分まで再現してくれていた。
警部も彼の言葉と帳面上の記録を照らし合わせて頷いている。
「ええ、今、卿がおっしゃった通りのことをミス・ロビンソンは話しました。証言時の彼女の口ぶりからは発言者の言葉をそのまま再現しているように聞こえましたよ」
「だとすると、やはり違和感があります」
アメリアが指摘すると、警部は首を傾げた。
「どの部分です?」
「最初のミスター・ベネットの言葉です。彼は『僕たちの結婚の件でミセス・ベネットに騙されたと思っているのですか?』と言ったそうですが、息子が自分の母のことを第三者との会話で『ミセス・ベネット』と表現するのはかなり……珍しくありませんか?」
「そう言われてみればそうかもしれません。普通はそんな風には言わない……言うとしても『"僕の母"ミセス・ベネット』と補足しながら言うのが自然でしょうね」
警部は小さく唸りながら俯いて考え込んでしまった。
「……ベネット家のパーティーでの会話だったそうですから、息子ではなく父の方のミスター・ベネットだったのでしょうか?中産階級の紳士が自分の奥方のことをミセス・ベネットと表現するのは普通です。しかし、続く会話では『母はあなたではなく僕に怒っているだけです』と今度は"母"と言っていますから、やはりおかしい……」
と言ったのはアルバート卿で、彼は顎に手を当てて思案している。
「もしくは、お父様のミスター・ベネットと息子のミスター・トーマス、そして、ミセス・グリーヴスとの三人の会話だった、ということはあり得ますか?」
アメリアは警部に向けて尋ねたが、警部は首を振った。
「ミス・ロビンソンははっきりと『お父様の方ではなく息子の方のミスター・ベネットとミセス・グリーヴスとの会話だ』と言い切っていたので、それはないと思います」
警部の言葉を受けて、<メラヴェル・ハウス>の応接間は再び静まり返った。
優雅な応接間に複雑に絡まった事件の謎が横たわっていた。




