表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

第五話:呼吸と魔術

霧の濃さは、日によって変わる。今日は特に深かった。湿地の朝は息が詰まるほど静かで、風もなく、ただ水面だけがかすかに震えていた。


「……今日は、少し、やってみたいことがあるの」


ミュリがそう告げたのは、夜明け前のことだった。二人は村のさらに外れ──湿地の奥、苔むした樹木に囲まれた、半ば沈みかけた遺構の中にいた。


そこは、かつて医療研究施設だったらしい。骨の断片と、黒ずんだ薬瓶、ひび割れた培養槽。天井は崩れかけ、空がのぞいている。


「ここなら、少しぐらいなら……わたし、抑えられるかも」


ミュリは、そう言って薬草を取り出した。乾燥されたそれは、先端をすり潰すと淡い蒸気を立てた。


「この匂い、都市では嫌われるんでしょう?」

「……ああ、刺激が強いからな。神経を狂わすって噂もある」

「でも、それで救えた命もあるんだよ」


ミュリは小さく微笑み、地面に座った。そして、静かに呼吸を始めた。その呼吸は、まるで周囲の空気と溶け合うようだった。エルは少し離れた場所に立ち、じっと見守った。


最初は静かだった。

けれど、数分も経たぬうちに──


空気が、膨らんだ。ただの霧ではない。空間が圧縮され、湿度が一気に跳ね上がる。そして、何もない空間にざわりと音が走った。


「ミュリ、やめ──」


エルが呼びかけるより早く、彼女の背後で地面が割れた。中から現れたのは──骨だった。けれど、それは生きていた。ぐにゃりと曲がった骨の腕が、空を掴むように揺れた。


「くっ……!」


ミュリの顔が苦痛に歪む。血の気が引き、呼吸が荒くなる。エルは思わず駆け寄り、彼女の肩を支えた。


「大丈夫か!」

「……まだ、抑えられる……でも、やっぱり……怖い」

「やめろ、限界だ!」


ミュリが震える唇で何かを言いかけたそのとき──

エルの背後で、記憶骨が発光した。父の残した、あの骨。それが、エルの腰袋の中で脈打っている。彼は反射的にそれを掴んだ。


──見えた。

骨の中に、記録された“手の動き”。父の指先が、ある決まった軌道を描いていた。


(これは……術式?)


思考が追いつくより先に、エルの手が動いた。その軌道を、ただなぞるように。


──そして。

骨の腕が、霧の中へと崩れ落ちた。湿度が一気に下がり、霧が晴れたような錯覚。ミュリは、驚いたようにエルを見た。


「……今の、あなた?」


エルも、自分の手を見つめていた。


「……わかんねぇ。でも、たぶん……俺の、術だった」 

ミュリは、エルの手をそっと取った。


「……すごいね。あなたも、呼応できる人なんだ」

「呼応……?」

「うん。記憶骨の声を聞いたんでしょう?術って、記憶の再現みたいなものだから」


エルは、自分の手を見下ろした。何も変わらない手。だが、今しがた──この手が骨を眠らせた。


「……よくわからないんだ。俺には、魔術の知識なんてない。ギルドにも入ってないし、適性だって、検査でゼロって言われてた」


ミュリは、静かに笑った。


「適性って、都市の術に合わせた基準でしょ?でも、ここの術は、巨獣の息を読むことから始まるの。たぶんあなたは、ずっとそれを感じてた。気づいてなかっただけ」

「……ずっと?」


エルの脳裏に、過去の断片が蘇る。父が記憶骨を握っていた姿。母の呼吸が苦しそうなとき、なぜかここが痛んだ、胸の奥の違和感。霧の濃い日だけ、やけに音が澄んで聞こえた、あの感覚。


「……あれも、全部」

「うん。術の兆し。あなたは都市じゃなくて、巨獣の中で生まれた人なんだよ」


その言葉は、なぜか恐ろしくなく、むしろ救いのように感じられた。ミュリは、エルの手を離さずにいた。湿地の霧が再び濃くなり始める。だが、先ほどのような圧迫感はなく、むしろ静かに包まれるような感覚だった。


「……君は、ずっとこれを、ひとりで?」


ミュリは、うなずいた。


「でも、誰にも言えなかった。魔術でも呼吸術でもない、変なものを持ってるなんて、恐れられるだけだから」


その声に、ほんのかすかな震えが混じっていた。


「……俺も、変だから」

「え?」

「俺も、いろいろ、まともじゃないって思ってたよ。母さんの病気に何もできなくて。父さんの残した骨を、何年も見れなくて。ただ、解体屋で汗かいて、毎日、息するみたいに暮らしてた」


ミュリは目を伏せ、ふっと笑った。


「……でも、それって、ちゃんと生きてたってことじゃない?」

「……そう、かな」

「うん。生きてるって、ちゃんと呼吸してるってことだよ。それだけで、巨獣の中では意味があるの」


その瞬間、エルは初めて巨獣の中で生きている自分を、肯定された気がした。ミュリの言葉は、柔らかく心に染み込んできた。

彼女が、霧の中で微笑む姿は──どこか幻想的で、それでいて、ひどく人間らしかった。


「ねえ、あなたの名前……まだ、ちゃんと聞いてなかった」

「……エル。エル・ネイファス」

「エル……いい名前」

「君の名前も、いいよ」

「ふふ、ありがと」


ふたりの間に、霧とは違う、温かな空気が流れた。エルの胸の奥、深くに何かが芽吹いた気がした。



湿地に異変が起きたのは、翌朝のことだった。空が、不自然なほど赤かった。夜明けというより──まるで巨獣の体内で、何かが“擦り切れた”ような気配。村の中心にある観測塔が、低く唸るような音を発していた。


「……脈が、乱れてる」


老女が、額に皺を刻んだまま呟いた。


「巨獣の鼓動が、周期を外れておる。これは──」


村人たちの間に、ざわつきが広がる。


「都市の方から……何かが来る」


その言葉を聞いた瞬間、エルの背筋を冷たいものが走った。


(都市の方……)


彼は、母のことを思い出した。ここに来て以来、ずっと胸の奥に引っかかっていた。ミュリは、視線を空に向けたまま言った。


「……来るね、“あれ”が。たぶん、もっと深いところから」

「“あれ”って……なんなんだ?」

「わからない。でも、怖い夢を見るの。誰かが巨獣の奥で、目を覚まそうとしてるみたいな」


彼女の声は震えていなかった。ただ、あまりにも静かで、重く、エルの心に刺さった。


村の外れの丘に立つと、はるか都市の方角からゆっくりと、灰色の煙のようなものが立ち昇っていた。


「……戻らなきゃ、か」


エルはぽつりと呟いた。


「え?」

「母さんが、たぶんもう長くない。

それに、あの記憶骨も……今の術も……全部、都市と関係がある」


ミュリは何も言わず、エルの顔を見つめていた。


「俺、行くよ。戻って、確かめなきゃ。この“体の中”で、何が起きてるのか──」


彼の言葉には、もう迷いがなかった。ミュリは、しばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「……わたしも、行く」


エルは、驚いて彼女を見た。


「でも、村の人たち──」

「いいの。わたし、ここじゃない場所で、

わたしの呼吸を確かめたいと思った。あなたとなら、できる気がする」


その瞳は、真っすぐで、恐れの色はなかった。エルは、少しだけ笑った。


「……だったら、行こう。ふたりで。巨獣の中を歩いて、外に出よう。何があるか、見てやろうぜ」


ミュリも笑った。


「うん、“鼓動の外側”を、見に行こう」


湿地の霧の向こうで、巨獣の息づかいがわずかに乱れた。だがそれは、まるでふたりの旅立ちを告げるような、合図のようにも思えた。


(つづく)

読んでいただき、ありがとうございます。

よければブックマーク・評価・いいねなどしていただけるととても嬉しく思います。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ