第五話:呼吸と魔術
霧の濃さは、日によって変わる。今日は特に深かった。湿地の朝は息が詰まるほど静かで、風もなく、ただ水面だけがかすかに震えていた。
「……今日は、少し、やってみたいことがあるの」
ミュリがそう告げたのは、夜明け前のことだった。二人は村のさらに外れ──湿地の奥、苔むした樹木に囲まれた、半ば沈みかけた遺構の中にいた。
そこは、かつて医療研究施設だったらしい。骨の断片と、黒ずんだ薬瓶、ひび割れた培養槽。天井は崩れかけ、空がのぞいている。
「ここなら、少しぐらいなら……わたし、抑えられるかも」
ミュリは、そう言って薬草を取り出した。乾燥されたそれは、先端をすり潰すと淡い蒸気を立てた。
「この匂い、都市では嫌われるんでしょう?」
「……ああ、刺激が強いからな。神経を狂わすって噂もある」
「でも、それで救えた命もあるんだよ」
ミュリは小さく微笑み、地面に座った。そして、静かに呼吸を始めた。その呼吸は、まるで周囲の空気と溶け合うようだった。エルは少し離れた場所に立ち、じっと見守った。
最初は静かだった。
けれど、数分も経たぬうちに──
空気が、膨らんだ。ただの霧ではない。空間が圧縮され、湿度が一気に跳ね上がる。そして、何もない空間にざわりと音が走った。
「ミュリ、やめ──」
エルが呼びかけるより早く、彼女の背後で地面が割れた。中から現れたのは──骨だった。けれど、それは生きていた。ぐにゃりと曲がった骨の腕が、空を掴むように揺れた。
「くっ……!」
ミュリの顔が苦痛に歪む。血の気が引き、呼吸が荒くなる。エルは思わず駆け寄り、彼女の肩を支えた。
「大丈夫か!」
「……まだ、抑えられる……でも、やっぱり……怖い」
「やめろ、限界だ!」
ミュリが震える唇で何かを言いかけたそのとき──
エルの背後で、記憶骨が発光した。父の残した、あの骨。それが、エルの腰袋の中で脈打っている。彼は反射的にそれを掴んだ。
──見えた。
骨の中に、記録された“手の動き”。父の指先が、ある決まった軌道を描いていた。
(これは……術式?)
思考が追いつくより先に、エルの手が動いた。その軌道を、ただなぞるように。
──そして。
骨の腕が、霧の中へと崩れ落ちた。湿度が一気に下がり、霧が晴れたような錯覚。ミュリは、驚いたようにエルを見た。
「……今の、あなた?」
エルも、自分の手を見つめていた。
「……わかんねぇ。でも、たぶん……俺の、術だった」
ミュリは、エルの手をそっと取った。
「……すごいね。あなたも、呼応できる人なんだ」
「呼応……?」
「うん。記憶骨の声を聞いたんでしょう?術って、記憶の再現みたいなものだから」
エルは、自分の手を見下ろした。何も変わらない手。だが、今しがた──この手が骨を眠らせた。
「……よくわからないんだ。俺には、魔術の知識なんてない。ギルドにも入ってないし、適性だって、検査でゼロって言われてた」
ミュリは、静かに笑った。
「適性って、都市の術に合わせた基準でしょ?でも、ここの術は、巨獣の息を読むことから始まるの。たぶんあなたは、ずっとそれを感じてた。気づいてなかっただけ」
「……ずっと?」
エルの脳裏に、過去の断片が蘇る。父が記憶骨を握っていた姿。母の呼吸が苦しそうなとき、なぜかここが痛んだ、胸の奥の違和感。霧の濃い日だけ、やけに音が澄んで聞こえた、あの感覚。
「……あれも、全部」
「うん。術の兆し。あなたは都市じゃなくて、巨獣の中で生まれた人なんだよ」
その言葉は、なぜか恐ろしくなく、むしろ救いのように感じられた。ミュリは、エルの手を離さずにいた。湿地の霧が再び濃くなり始める。だが、先ほどのような圧迫感はなく、むしろ静かに包まれるような感覚だった。
「……君は、ずっとこれを、ひとりで?」
ミュリは、うなずいた。
「でも、誰にも言えなかった。魔術でも呼吸術でもない、変なものを持ってるなんて、恐れられるだけだから」
その声に、ほんのかすかな震えが混じっていた。
「……俺も、変だから」
「え?」
「俺も、いろいろ、まともじゃないって思ってたよ。母さんの病気に何もできなくて。父さんの残した骨を、何年も見れなくて。ただ、解体屋で汗かいて、毎日、息するみたいに暮らしてた」
ミュリは目を伏せ、ふっと笑った。
「……でも、それって、ちゃんと生きてたってことじゃない?」
「……そう、かな」
「うん。生きてるって、ちゃんと呼吸してるってことだよ。それだけで、巨獣の中では意味があるの」
その瞬間、エルは初めて巨獣の中で生きている自分を、肯定された気がした。ミュリの言葉は、柔らかく心に染み込んできた。
彼女が、霧の中で微笑む姿は──どこか幻想的で、それでいて、ひどく人間らしかった。
「ねえ、あなたの名前……まだ、ちゃんと聞いてなかった」
「……エル。エル・ネイファス」
「エル……いい名前」
「君の名前も、いいよ」
「ふふ、ありがと」
ふたりの間に、霧とは違う、温かな空気が流れた。エルの胸の奥、深くに何かが芽吹いた気がした。
湿地に異変が起きたのは、翌朝のことだった。空が、不自然なほど赤かった。夜明けというより──まるで巨獣の体内で、何かが“擦り切れた”ような気配。村の中心にある観測塔が、低く唸るような音を発していた。
「……脈が、乱れてる」
老女が、額に皺を刻んだまま呟いた。
「巨獣の鼓動が、周期を外れておる。これは──」
村人たちの間に、ざわつきが広がる。
「都市の方から……何かが来る」
その言葉を聞いた瞬間、エルの背筋を冷たいものが走った。
(都市の方……)
彼は、母のことを思い出した。ここに来て以来、ずっと胸の奥に引っかかっていた。ミュリは、視線を空に向けたまま言った。
「……来るね、“あれ”が。たぶん、もっと深いところから」
「“あれ”って……なんなんだ?」
「わからない。でも、怖い夢を見るの。誰かが巨獣の奥で、目を覚まそうとしてるみたいな」
彼女の声は震えていなかった。ただ、あまりにも静かで、重く、エルの心に刺さった。
村の外れの丘に立つと、はるか都市の方角からゆっくりと、灰色の煙のようなものが立ち昇っていた。
「……戻らなきゃ、か」
エルはぽつりと呟いた。
「え?」
「母さんが、たぶんもう長くない。
それに、あの記憶骨も……今の術も……全部、都市と関係がある」
ミュリは何も言わず、エルの顔を見つめていた。
「俺、行くよ。戻って、確かめなきゃ。この“体の中”で、何が起きてるのか──」
彼の言葉には、もう迷いがなかった。ミュリは、しばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……わたしも、行く」
エルは、驚いて彼女を見た。
「でも、村の人たち──」
「いいの。わたし、ここじゃない場所で、
わたしの呼吸を確かめたいと思った。あなたとなら、できる気がする」
その瞳は、真っすぐで、恐れの色はなかった。エルは、少しだけ笑った。
「……だったら、行こう。ふたりで。巨獣の中を歩いて、外に出よう。何があるか、見てやろうぜ」
ミュリも笑った。
「うん、“鼓動の外側”を、見に行こう」
湿地の霧の向こうで、巨獣の息づかいがわずかに乱れた。だがそれは、まるでふたりの旅立ちを告げるような、合図のようにも思えた。
(つづく)
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