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第四話:湿地の村で

毎日8:00に2話ずつ投稿しています!

朝が、滲んでいた。

エル・ネイファスは、母の寝台の傍らで目を覚ました。薬草の煎じ液は、まだかすかに湯気を上げている。母の肌は昨日より血の気を取り戻し、目元の硬化も幾分和らいで見えた。


「……よかった」


思わず、そう呟いた。奇跡だと思った。いや、まだ分からない。それでも、効いたという事実だけで、エルの胸にはかすかな灯がともった。

薬草をくれた少女──ミュリのことが、何度も思い出された。白く透き通るような肌と、光を帯びた髪。そして、何よりあの眼差し。あの静かな場所にひとりでいた理由も、どうして自分を導いたのかも、何一つ分からないままだ。


エルは、再び父の残した記憶骨を取り出した。掌に触れると、淡く発光するその骨の中に、地図が浮かぶ。神経導管、呼吸塔、そしてそのさらに先。水が満ちるような湿地のマークが、記憶の縁に刻まれていた。


(あの薬草……もしかして、湿地から……?)


父は生前、巨獣の肺胞区画を調査する中で、外部と繋がる天然孔の存在を示唆していた。それが本当なら、都市の外に、まだ人が生きている場所がある。エルは立ち上がり、工具袋と水筒を肩にかけた。


「母さん、またすぐ戻る」


指先に、母が微かに触れた。返事はない。それでも、わずかなその動きに、確かに命を感じた。


そして、エルは都市の外れへと向かう。浄水区の外郭。そこにある、誰も足を踏み入れない旧排水路。父の記憶骨に刻まれた導線を辿り、彼は未知の空間へと降りていった。


ぬかるむ地面、ねばつく空気、植物の湿った匂い──空が、見えた。都市の外。巨獣の皮膚を破り出た空の下。そこには、奇妙な静けさがあった。風の音も、虫の声も、地の呻きもない。ただ、呼吸のように満ち引きする湿気だけがあった。


「……誰か、いるのか?」


そう問いかけた声は、霧に吸われて消えた。


そのとき──足元の水面が、波紋を描いた。そして、霧の中から、あの少女が現れた。霧が揺れ、少女──ミュリが現れた。以前と同じ白衣をまとい、素足で水辺に立っている。その姿は、湿地に差すわずかな陽光に透けて、まるで風の中に溶けてしまいそうだった。


「……また、来たの?」


ミュリの声は静かだった。それでいて、どこか安堵の色があったように思えた。


「薬、効いたよ。……母さん、少しだけ元気になった」


エルが言うと、ミュリは目を伏せて微かに笑った。


「……よかった」


たったそれだけの言葉なのに、なぜか胸が締めつけられるようだった。エルは周囲を見渡した。湿地の奥、背の高い草と半ば倒れかけた木々の陰に、いくつかの建物があった。屋根は骨材と草で編まれ、壁には苔が生えている。まるで呼吸する家のように、静かに空気と調和していた。


「ここが……君の村?」

「うん。湿地の村。名前は……もう、忘れられてるかも」


ミュリの言葉には、どこか寂しさが滲んでいた。


「都市の人が来るの、久しぶりだよ。……十年ぶりくらいかな」

「どうして誰も、都市と繋がろうとしないんだ?」


ミュリは首を横に振った。


「……この村の人たちは、巨獣と呼吸を合わせて生きてる。都市みたいに、無理に脈を取らない。……静かに、共に在るだけ」


その言葉の意味は、すぐには理解できなかった。だが、村に足を踏み入れた瞬間、エルは確かに何かが違うと感じた。空気が重いのではない。静かすぎるのでもない。


それは、まるで──自分が異物であることを、空気そのものが知っているような感覚だった。ミュリが導くように、木の橋を渡って進んでいくと、広場のような場所に出た。そこには、何人かの村人がいた。彼らは、エルに近づこうとせず、ただ遠巻きに見つめていた。その視線は、敵意ではない。けれど、拒絶と恐れが混ざった、妙に重いものだった。そして、その視線のほとんどが、ミュリにも向けられていることに気づく。


「……君、この村で……どういう……?」


エルが尋ねると、ミュリは言葉を濁した。


「わたしは、ここにいるだけ。……でも、みんなとは違うの。たぶん、生まれが」


エルがそれ以上聞く前に、霧の奥から一人の老女が現れた。身体は小さく、深い皺の刻まれた顔。だが、その瞳は異様なほど澄んでいた。


「……あの子を、都市に連れていく気かい?」


老女が発した言葉に、エルは息を呑んだ。


「い、いや……俺は、ただ……薬草のことを知りたくて……」


「ふん……。あの子は、この村の“外”の者じゃ。けれど、ここの空気に馴染んでおる。……それがどういう意味かわかるかい?」


エルは答えられなかった。老女は続けた。


「お前の母の命を繋いだのは、あの子の呼吸じゃよ。都市の術とは異なる、もっと深い術じゃ」


ミュリは、何も言わなかった。ただ、どこか遠くを見るような目をしていた。霧の向こう、老女が静かに両手を広げた。


「よいか、都市の子よ。わしらの呼吸術は、力を持つための術ではない。巨獣の息と、自らの命脈を揃えるための祈りじゃ」


そう言うと、老女は深く息を吸い込み、地に片膝をついた。村人たちが一斉に静まり返る。老女の掌が湿った大地に触れたとき──


空気が、揺れた。風ではない。音もない。それでもエルには、確かに何かが変わったことがわかった。湿地の水面が、老女の呼吸に合わせてわずかに脈を打ち、草が、光の届かぬ方へと一斉に傾いた。


「……生きておるな、今日も」


老女の口元が、わずかに緩んだ。エルは息を呑んだ。これが、呼吸の術──都市のギルドが使う魔術とはまったく異なる。媒介も装置も使わず、ただ、巨獣と“同期”するような……まるで、都市の中枢と会話しているような感覚。


「……君も、できるのか?」


エルが問うと、ミュリは首を横に振った。


「わたしの呼吸は……この村のものじゃない」


そう言いながらも、彼女は老女の真似をするように、そっと地に手をついた。


──その瞬間。 


土が震えた。空気が、逆流する。エルは本能的に身を引いた。草が一斉にしおれ、湿地の一部がじゅるじゅると音を立てて沈んだ。


「やめろ、やめろぉっ!」


村人の一人が声を上げる。


「またあの気配だ!あの子が……“ずれて”おる!」


ミュリはすぐに手を引っ込め、何もなかったかのように立ち上がった。だが、村人たちの視線は、明確な拒絶と恐怖に満ちていた。


「……ごめんなさい」


ミュリは、それだけを呟いた。誰にも責めるような色を見せず、ただ、うつむいたまま。エルは、その姿を見て、胸が熱くなるのを感じた。


「今のは、なんなんだ……。君のそれも、呼吸術なのか?」

「違うよ。ただ……出ちゃうの。わたし、わからないの。たまに夢を見るの。誰かの目で世界を見る夢。巨獣の中で……」


言葉は、途中で切れた。エルは思わず、ミュリの腕を掴んだ。


「お前、何者なんだ?」


ミュリは驚いたように目を見開いたが、すぐにふっと笑った。


「わたしも、知りたいんだ。……ねえ、教えて。都市って、巨獣の中なのに、どうしてあんなに苦しそうなの?」


その問いは、エルには答えようのないものだった。

でも、たしかに──彼女のその問いの中に、自分がずっと目を背けてきた何かがあると、思った。


「……俺、もう少し君のこと、知りたい。いいか?」


ミュリは、ゆっくりと頷いた。


「うん。わたしも、君のこと──もっと見たいと思ったから」


彼女の言葉は、ほんの微かな光のように、エルの心に残った。


(つづく)

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