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第三話:脈打つ病

──都市の鼓動が、まだ耳の奥で鳴っていた。

エル・ネイファスは、自宅の扉を開けながら、かすかに足元をふらつかせた。神経街区の導管で倒れてから、どれだけの時間が経ったのかは曖昧だった。ただ、空気が違う。湿気と脂の匂い、異物感。ここは浄水区。都市の最下層。巨獣の心臓膜に近い場所だ。


「……母さん」


寝台には、いつも通り母がいた。だが、様子が違った。その肌は、昨日よりもさらに白く、硬く。皮膚の下に、紫色の血管のような“筋”が浮かび上がっている。目はうっすらと開いているが、焦点は合っていない。喉の奥から、濁った音が漏れる。


(……おかしい)


違和感は、明確だった。これは、病ではない。変質だ。まるで、母の身体が、都市そのものと同調しているかのような――


「母さん、俺、もう少し……、調べてくる」


手を握ると、冷たさと、かすかな脈動があった。まるで記憶骨に触れた時と同じだった。エルは決めた。母のために薬を探す。それが、何であれ。だが、都市の医者も治療を放棄した病に、薬など存在するのか。ふと、記憶の奥に声が残っていた。


『……呼吸の奥へ……来て……』


少女の声。あの夢のような、幻のような、でも確かに“触れられた”感覚。


(呼吸……塔?)


都市の中枢へ酸素を循環させる巨大な肺胞区画。通称「呼吸塔」。通常、市民の立ち入りは禁止されているが、かつて父が整備に関わっていたと聞いたことがある。地図にも、かすかにその経路が記されていた。エルは、工具袋を手に取った。再び、都市の奥へと潜る。母を救うために。あの声の謎を確かめるために。

そして、まだ見ぬ何かに、導かれるままに。


巨獣の肺、それは塔ではなく“洞”だった。呼吸塔と呼ばれているが、エルが足を踏み入れた場所は、構造物というより呼吸する洞窟だった。壁面は粘膜のように滑らかで、ところどころに気嚢のような膨らみが脈打っていた。微かに漂う空気は、湿っていて生ぬるく、甘ったるい匂いが混じっている。


(……まるで、何かの口の中みたいだ)


照明のない空間を、父の整備灯で照らしながら進む。

足元には古びた階段の名残と、廃材の骨片が散らばっていた。かつてここには作業員が出入りしていた証だが、今は誰も通っていない。


都市の肺。

生体循環システムの要。都市全体へ酸素を送り、不要な成分を濾過する区画。その中枢には、特殊な気体植物が植えられていたはずだ。父が記憶骨地図に“青い葉”と記していた、謎の薬草。


「これさえあれば……」


エルはそう呟いて、壁に手をついた。ぬめるような感触に指が震えた。


次の瞬間──。

空気が変わった。誰かがいた。その確信だけが、頭に突き刺さった。気配があった。それも、人間のそれではない。軽やかで、薄い。けれど、確かにそこに在る。エルは手にしていた整備灯を前に突き出した。光が、奥の空間を照らす。


──そこに、“彼女”はいた。

白い衣をまとい、光を反射するような髪をした少女。黒曜石のような瞳。ひどく整った顔立ち。年齢は、エルより少し下に見える。だが、彼女の輪郭は、空気と同じ速度で揺れていた。


「……誰だ」


声が、自分でも驚くほどに硬かった。少女は答えなかった。ただ、静かにこちらを見ていた。


「ここは、立ち入り禁止区域だ。……どうしてこんなところに……?」


問いかけても、沈黙が続く。だがその沈黙には、敵意も恐れもなかった。ただ──


『あなた、昨日……夢で、泣いてた』


少女が、そう呟いた。それは“音”ではなかった。声が、直接、頭の奥に響いたような感覚。


「……夢?」


エルの喉が詰まる。彼女の声を、知っていた。聞いたことがある。神経街区で倒れる前、記憶骨の向こうで、彼女が何かを言っていた。


(まさか……同じ声?)


少女はゆっくりと近づいてくる。だが、その足音は不思議と聞こえない。浮いているようで、確かに地に足をつけている。


「……俺は、薬草を探してる。母が……病気で」


エルの言葉に、少女の眉がかすかに動いた。


「ここに、生えてるって聞いた。青い、葉の……何かが」


少女はしばらく何も言わず、やがてふわりと背を向けた。


『ついてきて』


そう言った“気がした”。エルは躊躇いながらも、彼女の背中を追った。――迷ってはいけない。この空間では、思考さえも変質する。彼女が導いてくれるなら、従うしかなかった。


少女は、音もなく進んでいった。呼吸塔の奥は次第に狭くなり、壁はやがて透明な膜に覆われる。その先、巨大な肺胞のように膨張する空間が広がった。


そこには──青く輝く植物が、呼吸するように揺れていた。光に濡れた葉。根から浮かぶ微細な霧。一見して毒々しいそれは、けれどなぜか清らかさを感じさせた。


「……これが?」


少女は黙って頷いた。そして、自らの腕をまくりあげると、青い葉をちぎり、そのまま、自分の皮膚にこすりつけた。


「……おい!」


エルが声を上げた瞬間には、すでに遅かった。彼女の皮膚が、じわりと発光する。発疹のような模様が広がる。


「な……何してんだ……!」

「大丈夫。……もう、慣れてるから」


そう言った少女の声音は、やはり静かだった。まるで、自分の身体を、ただの試薬として見ているかのように。


「どうしてそんなこと……」

「毒じゃないって、証明しないと……。……あなたが、手に取れないでしょう?」


そう言って、少女は微笑んだ。光がその頬に落ち、透けるような睫毛が揺れる。儚さと、強さ。どちらも感じさせない。ただ、無垢。けれどエルは、背筋に冷たいものを感じていた。この少女は、普通じゃない。


「……名前、教えてくれ」


少女は少しだけ目を伏せて、それから静かに口を開いた。


「……ミュリ」

「ミュリ……」


その名を口にしたとき、何かが確かに胸に残った。忘れていた響き。記憶の奥に埋まっていたはずの、柔らかな何か。


「君、ここで暮らしてるのか……?」

「ここが、わたしの場所。……でも、もう少しでいなくなるかも」

「え?」


ミュリはそれ以上、何も言わなかった。ただ、足元の青い薬草を一株、そっと抜き取って、エルに差し出した。


「これは、浅く煎じて。水に長く漬けない方がいい。……たぶん」

「たぶんって……」

「全部、自分で試すしかないから」


エルはその言葉を、重く受け止めた。この少女は、薬草を集めていたのではない。試していたのだ、自分の身体で。理由も、背景もわからない。けれど、たしかにここで、誰にも知られずに存在していた。ミュリは最後に、小さく呟いた。


「お母さん、助かるといいね」


その言葉に、エルの胸が締めつけられた。


「……ありがとう。俺……絶対に助ける。何があっても」


ミュリは、また微笑んだ。やがて、エルは薬草を胸に抱え、呼吸塔を後にした。その背中を、ミュリはずっと見送っていた。声をかけることもなく、ただ──ほんの少し、唇を噛みしめながら。


(つづく)

読んでいただき、ありがとうございます。

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