表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

第二話:見てはいけない記憶

毎日8:00に2話ずつ投稿しています!

心臓部の境界線を越えるのに、特別な許可は必要なかった。なぜならそこに誰も行こうとしないからだ。記憶骨の地図が示したルートは、廃棄された旧搬送路の下層を通っていた。赤く点滅する警告灯、意味の消えた標識、立ち入り禁止の文字。それらはすべて、もう誰も読まない。誰も通らない。都市の奥へと続く、忘れられた道だった。


靴底が湿った骨材を踏むたび、足音が奇妙に響いた。まるで、自分の鼓動が外に漏れているような錯覚。暗く狭い管路の壁には、巨獣の神経線が走っている。淡く青白い光が、うねるように脈動しながら、エル・ネイファスの影を歪ませていった。


(こんな場所……父さんは、本当に通っていたのか?)


疑問は浮かんでも、足は止まらなかった。母の手が、あの骨に反応したときから、何かが決まっていた。彼は地図の示す分岐点まで来ると、工具のロックを解除し、神経管のカバーを慎重にこじ開けた。内部には、石灰沈着で詰まりかけた伝導路が絡んでいた。解体作業は慣れているはずだった。それでも、この場所にある神経管は違った。触れた瞬間、視界の色が一段階落ちた。


「……う、わ……?」


手元の感覚が遠のく。光が、明滅する。まるで、自分の指先が都市の神経に取り込まれていくような感覚。


「……大丈夫だ。慣れてる……俺は、慣れてる……」


自分に言い聞かせるようにして作業を続けた。だが、刃を差し込んだその瞬間――ぶわっと、空気が変わった。目の前に、何かが広がった。見たことのない風景。


赤い空。

黒い影。

骨の上を歩く、影の人々。

目が、無い。

顔が、無い。

なのに、エルのことを“見ている”。


(……なんだ……これ……)


音がする。遠くで、何かが鳴いている。それは巨獣の声だ。都市を抱くこの巨大な生命体の、意識の奥底から漏れ出したうめき。


違う。


声じゃない。

記憶だ。


誰かの。


誰の?


『……見ないで……』


声が、耳のすぐそばで囁く。


『……見ちゃ、ダメ……あれは、“私”じゃない……』


女の声。けれど、顔が浮かばない。ただ、泣きそうな声だけが残った。


(誰だ……?)


──次の瞬間、神経管の中から何かが覗き込んだ。エルは叫び声をあげて、工具を放り投げた。背中が壁にぶつかる。全身が震えていた。もう、作業どころではない。空間そのものが歪んでいた。都市の意識に触れてしまった。巨獣の記憶が、逆流している。


彼は、吐いた。

胃の中のものをすべて吐き出すほど、深く混乱していた。ふらつきながら立ち上がる。手が、震えている。皮膚が、痛む。何かが、内側から“視て”いる。まるで、誰かの眼が、エルの脳髄の内側に張りついたような感覚。


記憶骨。

あれに触れたせいだ。父の“地図”を見てしまったせいだ。エルは、逃げるように作業路を後にした。だがその背後で、神経管が脈動していた。まるで、彼の存在を覚えたかのように。──記憶に、触れてしまった。しかも、見てはいけない記憶に。


視界の奥に、赤い水が満ちていた。どこから入り込んだのか、神経導管の隙間からゆっくりと、ぬるい液体がエルの足元を濡らしていく。靴の中に染み込み、足先を鈍らせ、感覚が溶けていく。鼓動が早まる。違う、これは自分の心臓じゃない。もっと、巨大なものの鼓動。都市の、巨獣の、その奥底の“意識”が、エルの中に流れ込んでくる。吐き気が、再び込み上げた。視界の端で、何かが揺れている。


──白い足。少女の足。

ゆらゆらと、神経管の先で揺れていた。目をこらすと、その姿ははっきりと見えない。まるで水の中にいるように、形が揺らいでいる。髪が長くて、風に舞うように漂っていた。皮膚は透けるように白く、目だけが、こちらをまっすぐに見ていた。だがその視線は、どこか遠い。まるで、エルの向こう側を見ているような。


『……あなた、誰……?』


少女の声が、脳に直接、流れ込んできた。けれど、どこかおびえている。呼びかけているはずなのに、声の奥に震えがある。


『こんなところに来ちゃ、ダメ……ここは、壊れてる……“記憶”が、混ざってるの……』


(記憶……?)


『あなた、まだ……開いちゃいけない……』


少女の目が、悲しそうに細められる。


『わたしは……わたしは……』


名を言おうとして、彼女の声が割れた。ビリッ、と鼓膜が裂けるような音がして、エルは頭を抱えた。瞬間、視界が暗転する。地面が揺れ、神経管の明滅が崩れ、都市の構造が歪んでいく。


(ダメだ、このままじゃ……)


逃げなければ。このままこの層にいたら、自分の心が壊れる。記憶が、流し込まれてくる。誰かの痛み、悲鳴、断片、愛。それが、重なって、侵食して、エルという個人が溶けてしまう。エルは立ち上がろうとした。だが、身体が動かなかった。筋肉が拒否していた。あるいは、都市が掴んで離さなかったのかもしれない。


──そのときだった。ふわりと、空気が変わった。誰かが、触れた。視界の端に、もう一度、あの白い手が伸びてくる。そっと、エルの頬に触れた。あたたかく、柔らかく。でも、なぜか切ない。


『……まだ、ここにいて……』


少女が、言った。その声は、今度は震えていなかった。静かで、透き通っていて、どこか懐かしい響きがあった。エルはその声に、微かに頷いた。そして、意識が落ちた。崩れるように、全身の力が抜け、彼の身体は神経導管のそばに横たわる。


都市は、何も言わなかった。だが、その奥で。

巨獣の“何か”が、また、呼吸をした。


──まだ、目覚めぬまま。


(つづく)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ