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第一話:解体屋の少年

都市が咳き込んでいた。

湿った音が遠くで響き、床下の管を震わせる。巨獣の肺が痙攣するたび、壁の神経膜が波打ち、天井から透明な粘液が一滴、ぽたりと落ちた。


その音は、誰も驚かない。


ここ《グラン=レクト》は、生きている。

かつてこの地に現れた巨獣の内部に、人々は都市を築いた。その心臓部を〈浄水区〉と呼ぶ。清らかな水が巡っていたのは、もう遠い昔の話だった。いまでは、濁った血液のような液体が管を流れ、酸化した内壁はじわじわと赤錆色あかさびいろに染まり、空気は鈍く、濃く、甘ったるいような匂いを纏っていた。


その底の底に、エル・ネイファスはいた。

巨獣の心膜に沿ったメンテナンス通路。神経管と骨格が入り組む隙間で、彼は一人、鉄製の解体工具を握っていた。金属の軋む音が響く。鈍色のブレードが、硬化した生体繊維を削り取っていく。まるで、傷口の瘡蓋かさぶたを剥がすような手応え。


「……案外、しぶといな」


独り言は返ってこない。ここに耳を傾けるものはいないし、いてもそれを“記録”する者はいない。彼の作業は、都市にとって必要ではあるが重要ではない。だから誰も彼の名を記憶しないし、彼自身も名乗らない。ただ、働いているだけ。


ぬるりとした脂がブーツの甲にこぼれる。神経液の腐臭が鼻を突く。けれどエルは顔色一つ変えず、淡々と動きを続けた。それが、ここで生きる術だった。



仕事を終えた頃には、袖は血に似た色で染まり、手のひらは硬く冷えていた。通路を抜けると、いつもの路地がある。骨格材と鉄管が無秩序に組まれた下層区画。上層とは違い、陽も風も通らない。それでも、足を止めて空を見上げた。


──見えない。

天井の神経膜が明滅しているだけ。星も雲も、世界の外の色も、ここには届かない。エルはゆっくりと息を吸い込んだ。喉が少しだけ焼ける。


(……母さんの薬、今日も効かなかった)


自宅までの道を歩きながら、彼は考える。母はもう、まともに起き上がれなくなっていた。皮膚が硬く、ひび割れ、声は、かすれた水音のように濁っていた。都市の医師は、「異形化の兆候かもしれない」と言った。でも、正確な診断はされなかった。なぜなら彼女は下層市民で、治療も観察も割に合わないからだ。扉を開けると、鉄と脂の匂いが満ちていた。


「……ただいま」


母は答えない。寝台に横たわったまま、うっすらと目を開けている。その目は、もう彼を認識していない気がした。だがエルは、黙ってタオルを取り、額を拭い、干からびた唇に水を含ませた。指先が冷たい。それは、死ではない。もっとじわじわと、確実に身体を変えていく別のものだった。


「……父さんの遺したもん、見てみるよ」


彼は、小さな金属箱を手に取った。旧倉庫の床下に隠されていたもの。父が死ぬ前、「いつか必要になる」とだけ言い残していた。埃にまみれ、開閉装置は錆びついていた。ゆっくりと蓋を開く。


そこには、骨があった。

ただの骨ではない。中央には繊維質のパターンが走り、脈管のような構造が浮かんでいる。

そして何より、その骨は──微かに震えていた。掌の中で、鼓動するように。


「記憶骨……?」


エルは名前だけ知っていた。人の記憶が封じられた、都市の禁忌。ギルドの管理下にあるはずの遺物。


(なんで父さんが、こんなものを……)


骨の下には、古びた地図が挟まれていた。手描きの線が、都市の最深部へと続いている。

“夢脈核”“中枢接合部”“旧記録塔”――市民は立ち入りを許されない領域ばかりが描かれていた。それを見た瞬間だった。骨が、脈打った。


──ドクン。

そして、彼は聞いた。


『……呼んでいる……』


誰かの声。冷たいのに、やわらかく。遠いのに、耳元で囁くような。彼の世界の奥から、誰かが、確かに。


(……誰だ?)


振り返る。だが、誰もいない。それでも、確かに“誰かの気配”が残っていた。まるで、水の底から見上げられているような、静かで、澄んだ、何かの視線。そのとき、エルはまだ知らなかった。その視線の持ち主が、彼の旅路の隣に立ち、記憶と選択を共に背負うことになる少女であることを。


骨は、ずっと脈を打っていた。

エル・ネイファスは、その夜、眠れなかった。作業着のまま、灯の消えた部屋にうずくまり、記憶骨を抱いて、静かに呼吸をしていた。どこかで何かが、繋がろうとしている。その感覚は、言葉にできないまま、背骨を伝っていた。

記憶骨は温かかった。だが、それは命の熱ではない。

都市のどこか、もっと奥の奥にあるなにかから送られてくる、ゆっくりとした波動。


(これは……父さんが……)


エルは父の顔を思い出そうとした。けれど、記憶の輪郭は霞んでいた。かすれた声、工具の扱い、背中の匂い。母が異形に近づくにつれ、父の像もまた、心からこぼれ落ちそうになっていた。


(思い出せなくなる前に……何か、しなきゃいけない)


骨を包む布を静かにたたみ、彼はそれを、母の寝台のそばに置いた。母の呼吸は浅く、時折、喉の奥で泡のように鳴った。その音さえも、巨獣の内部で響く都市の「雑音」の一部のように感じられる。それでもエルは、記憶しようとした。この夜を、この呼吸を、この孤独を。母がまだ、ここにいるということを。

そのときだった。母の手が、かすかに動いた。ゆっくりと、何かを探るように。


「……母さん……?」


エルが近づこうとした、その瞬間。彼女の口が、開いた。何かを吐き出すように。けれど、声ではなかった。音でもなかった。──“脈動”だった。

母の胸の奥で、何かが同調している。記憶骨と、母の身体とが、わずかに共鳴していた。


「……まさか……」


彼は咄嗟に骨を手に取る。すると、また声が響いた。


『……来て……記録塔の……深層……“声の記憶”を……』


声の主は、明らかに母ではなかった。だが、どこかで“母の中の何か”がそれに反応しているようだった。目の前に横たわる母が、都市の中の何かに組み込まれていく――そんな恐ろしい想像が、エルの喉を締めつけた。


「ふざけるな……」


彼は骨を握りしめた。


「母さんを……お前らの部品にはさせない……」


記憶骨の脈動が、わずかに強くなった。まるで、応えるように。まるで、“選んで”くれたかのように。


──翌朝。

エルは、母の額に冷たい布をのせ、倉庫の奥、かつて父が働いていた通路へと向かった。その足取りには、まだ迷いがあった。だが、胸の中の疼きだけは、確かだった。この都市の奥には、何かがある。父の骨が残した道の先に、真実がある。彼はまだ、それが何を意味するのかを知らなかった。


少女と出会うことも、

記憶の声が世界を変えることも、

そして、自分の選択が命と記憶の運命を分けることになるということも──何ひとつ。

ただ、心臓の底のような場所で、都市が、巨獣が、鼓動していた。


(つづく)

読んでいただき、ありがとうございます。

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