プロローグ──巨獣都市、心臓の奥で
巨獣の心臓は、今日も規則正しく、腐臭とともに脈打っていた。
この都市は、遥か昔に死んだはずの巨獣の心臓核に築かれた。
死体の中で暮らすという矛盾に、誰も疑問を抱かない。
なぜなら、この都市の住人はみな“生きている”のではなく、ただ“止まっていない”だけだからだ。
エルは、その最下層で生きていた。
脈打つ血管の傍らで、腐りきった神経を切り出し、骨を運び、肉の壁を剥ぎ続ける──解体士のひとりとして。
「おいエル、そっちの管、まだ動いてるぞ! 早く薬液止めろ!」
誰かの怒鳴り声が飛ぶ。
振り向くこともなく、エルは使い慣れた片手操作で弁を締める。
巨獣の血流はもう止まって久しいはずだったが、それでもときおり、どこかの神経が“記憶”を再起動する。
それが“動脈反射”として暴れ出せば、最悪、隣の作業員の身体が吹き飛ぶ。
(……生きてるわけじゃねぇ。死にきってねぇだけだ)
そんな風に、この都市も、この巨獣も、自分自身すらも、エルには同じに見えた。
彼の髪は、油と粉塵に染まった灰茶色。
どこかの工房で投げ出されたままの機械のように、ぼさついた前髪の下からは、濁った琥珀色の瞳がのぞく。
肌は暗く、爪は割れて、袖口は破れかけ。
けれど手だけはよく動く。静かに、冷たく、器用に。
十七歳。
もう子どもでもないが、大人になる希望も持っていない。
ただ、「明日を生きる価値があるか」ではなく、「今日死ぬ理由がないか」を探すような毎日を送っていた。
今日の仕事を終えた帰り道、エルは小さな階段を下りた。
家──というにはあまりに無機質な鉄の箱。
母とふたりで暮らすその部屋には、湿った空気と消えかけの薬草の匂いが染みついている。
「……おかえり、エル」
ベッドに横たわる母が、乾いた声でそう言った。
血の気のない顔。息の合間にこぼれる咳。
医者も診ない。ギルドの管理下にない者に、診断コードなど発行されるわけがない。
「水、飲むか?」
「ううん。……あの人のこと、思い出してた」
あの人──父のことだ。
五年前、解体中に“記憶骨”に触れて消えた。
それ以来、遺体も報告もなかった。
ギルドはただ「作業中の消滅事故として処理済み」とだけ通達してきた。
「エル、あの人の工具箱、まだ持ってる?」
「……あるよ。捨ててねぇ」
「見てもいい?」
エルは無言で頷き、部屋の隅にある、古びた木箱を開けた。
重い蓋を開けた瞬間、ふわりと空気が変わる。
中には工具と並んで、小さな骨片が入っていた。
それは、通常の記憶骨と違って“形”が歪だった。
人の手で削られたように角が丸まり、表面には微細な切り込みが走っている。
エルはそれを手に取る。
途端に、皮膚の内側を“冷たい電流”が走った。
視界が、一瞬、暗転する。
どこかで──水音。
心臓の音。
風のような“呼吸”。
そして、声。
『……呼吸を、感じて……』
女の声だった。
聞いたこともない。けれど、やけに澄んでいて、静かで、どこか泣きそうな響きだった。
「──っ……!」
エルは骨を手放す。床に落ちた骨は、微かに音を立てて転がる。
(……今のは……なんだ?)
記憶骨は、見るだけで脳に“刻まれる”。
幻覚とは違う。それはもう、“自分の記憶のように”残るのだ。
けれど今のは……ただの映像じゃなかった。
音と、感触と、誰かの“意思”のようなものまで、流れ込んできた。
「……やっぱり、お前もどこかで、生きてんのかよ」
エルは小さく呟いた。
巨獣は動かない。
でも、都市はまだ脈打っている。
そして──この骨は、まだ誰かを呼んでいる。
エルは骨をポケットにしまった。
その夜、心臓の底で、何かが“呼吸を始めた”。
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