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領地に引きこもっているとある伯爵令嬢が再出発するまで

作者: 蔵前

 夏の終わり、エンアライバス国の南方、センバライスト国の国境に近い地方にアラザント伯爵家の領地もある。そしてその領地の小さな町にて、豊作祈願となる祭が行われている。小さな町では若い男性も女性も数が少ないうえに親族ばかりなため、このような祭りの時には領主館を開放してダンスパーティを開く。


「数が少ないって言っても、貴族の話、なのよね」


 エメリア・アラザント伯爵令嬢は溜息を吐きながら周囲を見渡す。

 彼女はこの町の者では無い。彼女の兄がこの領主館の持ち主であるのだ。よって、自分の兄が主催者であれば、未婚の彼女は嫌でもこれに参加しなければいけない。ついでに、大好きな親族女性が彼女にここで出会いを作れと圧力をかけているならば、嫌、は絶対に表に出せない。


「私の評判を知っていれば、ここでも出会いなど無いと思うのだけど」

「その後ろ向きがいけないの」


 エメリアの付添い人は、彼女の手の甲を上品な仕草で扇で叩いた。


「では叔母様。叔母様のご慧眼に適うような殿方が、こちらにお集まりでいらっしゃいまして?」


 エメリアは叔母と呼んだ自分の付添い人に囁く。

 叔母と呼ばれたアマンダ・アラザントは、女学校の少女達が友人にする内緒めいた視線をエメリアに返し、いないわね、と囁く。


 ダンスパーティの出席者を、田舎者、として馬鹿にしての彼女達の会話ではない。実際、出席者の男性達は皆それなりの衣装に身を包み、見るからに人当たりも良い様子で会場の若き女性達をダンスに誘ったり会話に勤しんだりしているのだ。ではなぜか。アマンダの夫でありエメリアの叔父が騎士ではなく陸軍兵団所属の兵隊長だと聞けば、彼女達が理想とする男性が着飾っただけの薄っぺらい若者とは違うと、誰もが分かるだろう。


「アマンダが企画する催しだったら喜んで、なのに」

「あら、本当に企画してよ。夫の隊には未婚の方は多くいますもの」

「女だけの茶会、です。男の人は私はもう結構。よくご存じのくせに」

「ええ。あなた方があんなにも真剣だったなんて、分からなくてごめんなさいね。でもね、帰って来ない人を諦めるのも必要よ。あなたは若いの」


 エメリアは、どうして自分の兄が例年以上にこのパーティに力を入れ、彼女の参加を強要したのか、痛いほどに分かっている。

 彼女が国境に近いこの町を動かないから、だからこそ、なのだ。


 ――――――


 五年前、エメリアは王都にてとある男性に出会った。

 父の末の弟ジュネスの結婚式に招かれ、そこで叔母となったアマンダと、花嫁である彼女を祝う彼女の親友セーラ、そしてセーラの弟セシルに紹介されたのだ。

 黒髪で勝気に見える美しいアマンダに、金色の髪をした儚げな雰囲気のセーラは、対照的だからこそ親友になれたような二人だった。


「俺が頼む事ではないが、アマンダ姉さんをよろしく頼む」


 セーラの弟、赤味が強い金髪に宝石よりも深くて透明な色合いの瞳をした彼は、頬を少しだけ赤味に染め、照れくさそうにエメリアに頼んだ。

 エメリアは一目で大好きになった彼女を守ることなどなんでもないし、初対面なのにセシルが自分を信用に足る人間と認めてくれたと、とても嬉しくなっていた。そこで、もちろんだわ、と応えた。


「ありがとう」


 セシルがその時エメリアに向けた笑顔は、それは輝くようなものだった。

 その時エメリアは初めて胸の中で小鳥が羽ばたく、という感覚を知り、さらに、胸が痛くなる嫉妬という気持も知った。

 エメリアは思ったのだ。

 目の前のジュネスと同じ軍服を着た青年は、アマンダに恋をしていたに違いない、と。


 その後のエメリアはどうしたか。

 アマンダを貴族の集まりに誘うことももちろんだが、アマンダがもともと参加していた兵団の女達の集いに自分も参加するようになったのだ。

 理由は、貴族の一員となったアマンダがその繋がりを切るのではないか、という兵団の男達の妻や娘達にそれは杞憂だと払拭するために、である。


 本心は、その集まりに顔を出す男性達の中にセシルの姿を求め、あるいは、集まりの後に兵団の訓練を覗きに行けるから、という不純なものでしかなかったが。

 ただ、その行動がエメリアとセシルを近づけたのは事実であろう。

 ある時のお茶会は、叔父のジュネスが彼の若い部下達を引き連れ、エメリア達が集うサロンに突撃してきたのである。新婚で浮かれるジュネスは、若い者達にも幸せの出会いを、と女性達の抗議をいなした。けれどエメリアにしてはジュネス様様だ。セシルと一緒にお茶を飲んで語り合う、という機会を持てたのである。


「アマンダは以前よりも輝いてる。君のお陰だね」

「そこは叔父を褒めてあげなきゃ」

「このクッキーは君が持ち寄ったんだって? 凄く美味しいよ。君が焼いてきたのかな?」

「いいえ。我が家お抱えの料理人です。ごめんなさい」

「――えっと、いや、君は伯爵令嬢だったね」

「はい。なりたくもない伯爵令嬢です」

「そうなの?」

「ええ。父の従兄が亡くなって、それでの爵位ですけれど、財政難の家を押しつけられた父は過労死する事になりましたもの。母も後を追うように。爵位を継いだ兄は商会に議会に弁護士事務所と、家には寝に帰るだけ。我が家は単なる商人であった時の方が幸せだったわ」

「そうか。そうすると君は別に結婚相手に爵位を望まない、と」

「アマンダとジュネスのような結婚が夢ね」

「ハハハ。それはこの隊全員の夢だね」


 エメリアは自分の言葉に、アマンダと叔父のような結婚があなたとできるのが夢、と心の中で重ねていた。だから、セシルのセリフが、アマンダとジュネスの仲睦まじい様子を見つめながらだったことに彼女の胸が痛んだ。まだ恋をしているのね、と。

 エメリアは自分がパッとしない外見であることを知っている。

 本物の伯爵令嬢がどんな風かも知っている。


 裕福な商人の娘のままであれば、私は幸せだったでしょう。

 私は彼女のようになりたくないもの。


 エメリアの家族の本当の不幸は、父親が爵位を継いだ時に残された伯爵令嬢と伯爵未亡人も抱えねばならなくなったことである。当時エメリアの母は存命だったため、父親に再婚の話は無かったが、伯爵令嬢とエメリアの兄エメットが結婚することを親族達に強要されたのだ。

 ただ、エメットには幼いころからの想い人がいる。

 そこで伯爵令嬢と伯爵未亡人が騒がないようにと、彼女達が望む生活を保障することでエメリアの父は必要以上に働いた。そのために早すぎる死を迎えたと言うのに、今やエメットまでも馬車馬のようにして働いている。


 それなのに、伯爵令嬢も伯爵未亡人も、父や兄に感謝することなく、お金を湯水のように使うばかりだなんて!!


「エメリア様、お話があるのだけど、いいかしら?」


 ある日の集会、セーラが珍しく緊張した面持ちでエメリアに話しかけて来た。

 エメリアはセーラの誘いを断るどころか、もしかしてアマンダのことで何かあるのかと思い、良いわ、と答えていた。

 セーラがエメリアを連れだった先は、誰もいない小部屋だった。

 そこでセーラは声を潜め、もうやめてください、と言った。


「何をやめれば良いのでしょうか?」

「私達に関わること、です」

「意味が解りません」

「ええ、あなたは無邪気なお姫様ですもの。あなたの行動に夢を見て傷つく人がいるなんて理解できないでしょう。余計な夢を見る方が悪いと仰りたいでしょうけれど」

「どういうこと、でしょうか?」

「弟のことですわ。弄ぶのはおやめになって。私達の父は騎士でしたが、父が亡くなったそこで騎士称号など我が家にはないのです。セシルだって騎士になりたかったけれど、単なる平民では武勲を上げない限り騎士にはなれません。父が生きていれば、騎士である父の推薦で騎士見習いになれたのに」

「セシル様は騎士に」

「ええ。武勲を上げるんだと、先日移動願いを出しました」

「あの、それはどういう?」

「前線のカラバリ砦に向かうつもりよ」

「そ、そんな」


 カラバリ砦は難攻不落の兵士喰いの砦だと有名な場所である。

 その砦は古に建てられた遺跡のようなものだが、未だに人が住み籠城できるほどの強固さも持っている。つまり、その砦を制することができれば、今後の戦略を大きく変えることができるぐらいな重要拠点となっているのだ。

 そのため、その砦を拠点にしたい隣国センバライストとエンアライバス国が、常に砦を挟んで睨み合っている。

 ただし、にらみ合いだけで済めば誰も死なない。

 険しい山岳でもあるそこには、大型魔獣も多く棲み付いているのだ。


 カラバリ砦に赴いた兵士達は、国内に魔獣の大群が向かわないように魔獣征伐を行いながら、敵国の兵士が砦を奪取しようとする行為を妨害しなければいけない。

 しかし、その砦に常に兵士の補充があるのは、決められた期間そこで生き延びられた兵士には、かなりの褒賞があるからだ。


 貴族には小遣い程度かもしれないが、平民にはひと財産であるはずだと、もとは商人だった家の娘であるエメリアには分かっている。


 でも、彼の夢が騎士になることならば、私には彼を止められないわ。


「あなたが弄んだからよ!!あの子は傷ついた。だから、だから、子供の頃からの夢だと言って死地に行くのよ。本当はあの子は死ぬつもりなの!!」

「私は弄んでなんかいません!!だいたい、セシルとの会話は、ええ、いつだって単なる天気程度の内容なんですよ。たくさん話したのはこの間だけ。どうやって弄べばいいの? 私こそアマンダの結婚式の日から恋をしているって、彼に伝えたいのに!!」


 エメリアの手首はセーラに掴まれ強く握られた。

 セーラはエメリアを強く彼女に引き寄せ、彼女の瞳を覗き込むように見つめる。


「セーラ?」

「ハルバラート子爵と婚約したのではないの?」

「ハルバラート子爵と婚約したのは、シェリルよ」

「シェリル? あなたには姉なんかいないでしょう?」

「前の伯爵様の娘よ。父が爵位を継いでも、彼女が伯爵令嬢なのは変わらないわ」

「まあ!!あの子は勘違いで死ぬつもりなの!!」

「勘違い、うそ、セシルも私を好いてくださっていたの?」

「そうよ。一目で恋に落ちちゃったそうよ。何を言っていいかわからなくなって、アマンダをよろしくなんて馬鹿な事を言ったと落ち込んだり。ええ、本当に馬鹿な子」

「じゃ、じゃあ、止めなきゃ!!」

「そうよ、止めなきゃ!!」


 エメリアとセーラはセシルの住まう寮に急いだが、一日遅かった。

 セシルがセーラに前線に行くことを伝えたのは出立のその日であり、それはセーラに止められる事のないようにとの算段だったのである。


 しかし、エメリアはそこで泣いて終わりにしなかった。

 伯爵家が持つ領地でカラバリ砦に近い所は無いか探し、そこを見つけたからと王都を飛び出したのである。彼女は兄に何と言って許可を得たか。

 もともと商人気質の二人だ。

 互いに利になることを並べれば、交渉など簡単なのである。


「何も育たない貧しい領地。金食い虫でしかない赤字領地の赤字を小さくすることで、兄様も楽になるのではないかしら?」

「何も無い場所をどうやって豊かにする気だ?」


「乾燥地帯でも育つ古代麦を増やして、あれを食材として転用できれば飢えはしのげる。高い小麦を買うお金を抑えられる。それにそれが名物になれば、逆にその麦を販売して稼ぐこともできる。あと私がやっている領地の帳簿の確認ですが、あれは王都じゃなくてもできるわよね。今までだって領地から王都へと月々報告の馬を往復させているのだから、あちらに全部書類を送ってもらって、あちらで処理するのも問題ないのではないかしら? 王都よりも領地間が近いから、そこも節約できると思いますけど?」


「そうだな。一理ある。それに商会の経理と領地の経理は一度確り分けた方がいいとは思っていた」

「そうよ。そのうえで、伯爵令嬢さま方が使える金銭は、伯爵領からの収益のみしか権利が無いと教えるべきよ」

「そうだな。ただ、それを教えるのは来年で良いか? 来年ようやくあの母子をハルバラート子爵家に押し付けられるんだ」

「でも来年だと、持参金をこちらで用意しなければならなくならない?」

「持参金の話はついている。手切れ金だと思えば痛くない百万リブルと、伯爵領のカレサアントをつけてやる。維持費ばかりかかる悪趣味庭園でしかない領地など、いらん」

「兄様。なんてお悪い人」

「俺の大事な妻を平民風情と侮辱した奴らなど、その傲慢さで死ねば良い」



 ――――――



「大丈夫? バルコニーにでも出る?」


 アマンダの労わる声に、エメリアはハッとする。

 しかし、もの思いが覚めて良かったと思うよりも、過去の記憶の中のそのままでいたいと彼女は思ってしまった。

 いいえ、あの先を思い出した方が辛いわね。

 エメリアはアマンダに肩を抱かれるようにして歩き出す。バルコニーに出て、会場の中とは違う暗闇と涼しい夜風に当たると、彼女はこの領地に着いたばかりのことを思い出した。一番忘れたい記憶が蘇った、のだ。




 エメリアが辺境領地にやって来た三か月後に、エメリアの元に二通の手紙と小包が届いた。

 一通はエメリアがセシルに向けて出した手紙の返事であり、もう一通はセシルの戦死を知らせる事務的な文書と彼の遺品を転送してきたものである。


「君を愛している。戻ったら、君に結婚の申し込みができる栄誉を与えてくれ」


「そうよ、彼は私に結婚を申し込まなきゃいけないの。帰って来る。ぜったいに帰って来なきゃいけないのよ!!」



 あれから五年。

 一年目は喪中だからと出席を断り、二年目は喪が明けたばかりで気が乗らないと断り、次の年からはこの時期は思い出して辛いからと断って来た。それでの五年目だが、エメットに三人目の子供が生まれたことで彼は変わった。女の子だったのだ。彼はそれで娘に妹の境遇を重ねたようだ。そこで妹を幸せにせねばと発奮し、エメットはダンスパーティをいつもよりも盛大に催したのである。

 そろそろ君こそ生き返れ、という風に。



「エメリア。わかるわ。でも、もう五年。愛する人を失ったら、五年なんてまだ短い年月だってわかるわ。でもね、あなたこそ幸せにならなければ」


「アマンダ。私は幸せよ。愛した人に愛して貰えた。結婚できなかったけれど、彼以外の人はいらないの。だから、私は一生一人でも幸せなのよ。子供がいて愛する人の顔を毎日見られる人には、きっと私が不幸だと思うけれど、でも私は、自分が抱く子供はセシルの子供じゃ無きゃ嫌だし、私が毎朝毎晩見つめる顔はセシルのものじゃ無きゃ嫌なの」


「俺もそうだ」


 エメリアは記憶に残る声に、怖々と言う風に声の方へと振り返る。

 完全に振り返ったら、幻聴だったと認めねばならない。

 そんな恐ればかりしか無かったが、彼女の瞳は彼女が愛した人のシルエットを捕らえていた。暗闇の中で顔かたちも表情も分からないが、エメリアが目の前にいる人を間違うはずは無い。


「セシル」


 思わず駆け寄ろうとするが、影は左手の手のひらをエメリアに向けた。

 動かないで、と制止の為に。


「どうして」

「見せられる姿じゃないからだ。だが、俺は愛する君と結婚したかった。君に心を捧げたかった。お願いだ、気持だけ捧げさせてくれ。そうすれば俺は心に区切りを付けられる」

「いやよ」

「そうだな」


「私の心を受け取ってくれないなら、嫌よ。勝手に終了してしまうおつもりならば、絶対にさせはしない。だって、夢だもの。あなたに結婚を求められるのは夢だもの。その夢だけで生きてきたのだもの」


 影は大きく息を吸った。

 そして一歩踏み出した。

 パーティ会場の明かりが漏れるその位置まで。

 エメリアは息を飲んだ。

 それからあとは、小さな悲鳴を上げてセシルに向かって走っていた。


「エメリ――」

 セシルはエメリアを抱き締める。

 抱きしめたかった女性の背中に自分の左手がある。

 自分の胸には、あれほど望んだ愛する人の可愛い顔が押しつけられている。


「ああ、右手があれば、泣く君の頭を撫でて宥めてあげられるのに」


 セシルの右腕は肘下から無くなっていた。

 それだけでなく、顔の右側にも大きな傷跡が残る。

 魔獣の一撃で右腕と顔の右側は抉られたのだ。


「右腕程度で隠れていたなんて!!」


「ハハハ。だって右腕だぞ? これじゃあ騎士どころか末端兵士の任にもつけない。こんな男じゃ家庭なんか持てやしない」


「ほ、ほんとうに、そう思うのなら、やりなさい」


「エメリア?」


 エメリアはセシルを押しのけ、一歩下がる。

 セシルの顔はエメリアの視線を受け、苦しそうに歪む。


 右側半分に大きな傷跡が残るが、エメリアにはそんなものは大したものでは無かった。素晴らしく透明で大きな宝石にほんの少しだけ傷がついていた所で、そんな素晴らしき宝石は二度と産出されないのだから、宝石の価値がぐっと下がるなんてことはないのだ。


 それに、エメリアはセーラから聞いて知っている。

 騎士になりたかったセシルがどれだけ勉強家だったのか。

 エメリアは伯爵令嬢であるよりも、商人の娘だ。

 武力よりも知性こそ尊ぶ人間なのである。


 そう、私も商人ならば、賭けをするべきなのよ。


 彼女は大きく息を吸う。


「エメリア、そうだな、俺の姿は――」

「どうして動かないの? 五年もあなたを待っていた私に、あなたはやることがあるでしょう! さあ、私に結婚を求めなさいよ!!」


 セシルはふっと微笑んだ。

 光栄だ、と彼は呟き、エメリアに向かって跪く。

 次いで彼は自分の顔にしっかり明かりが当たるように顔を上げ、憧ればかりが見える煌く瞳で彼女を見つめ、微笑む。


「セシル」


「愛しいあなた。あなたを愛しています。俺と結婚してくれませんか?」

「はい。今すぐにでも」


「――断ってくれ」


「あなたは他に好きな方が出来たの?」


「そんなはずは無い。君を幸せにできない男だ。断って、俺を終わらせてくれ」


「あなたはこの領地をご覧になった? ここは荒れ地ばかりだった」


「信じられないな。豊かな麦の穂が揺れる畑ばかりだった」


「パンに出来ないって見捨てられていた古い麦なの。でも、みんなで考えたら、とてもおいしい料理になったのよ。だからこれからこの麦を、温度が高くて乾燥ばかりで荒れ地でしか無かったここでしか育たないこの麦を、ここでたくさん増やしてここを豊かにしようと思っているの」


「君はゴミみたいなものでも素晴らしいものに変えられる。だから俺も?」


「ゴミじゃ無いわ。そう思い込んでいただけで、あの麦だって美味しくて素晴らしいものだった」


「俺もそうだと?」


「ええ。私はもともと商人の娘なの。良いもの悪いもの、ちゃんと見分けられる。領地が豊かになれば奪いに来る人達もいる。冬になれば山から魔獣だって降りてくることもある。それについての対処は私には考え付かない。粗野な男達を統率するなんてできないわ」


「それはそんなに君が泣いてしまうぐらいに不安な事か?」


「ちがう、分からないからよ。どうしたらあなたが私と結婚してくれるか、わからないからよ。私はあなた以外の人と結婚したくない。あなたしか愛していないのに、あなたが本気でわかってくれないから、だから」


 セシルはエメリアを抱き締めていた。

 彼こそ分からなかったから。

 彼こそどうしてもエメリアを思い切れない。



 彼は魔獣に襲われて九死に一生を得たが、自分の状態を知ったことで軍を退役した。

 既に勝手に自分の戦死報告が姉に行き、姉がエメリアにその知らせを転送していると知った時は、姉を怒るよりもホッとしていた。


 こんな姿を見られて彼女の愛を失うよりも、愛する人の一生の想い人でいられる方が良い。

 彼はそう考え、名を捨てて生きる事を選んだ。

 幸いにも報奨金はあったため片腕でもできる仕事を得るために学校に通い、それからエルメ商会に雇われて商会の船に乗った。与えられたのは海外での買い付けの仕事であるが、海上で海賊に出会う事もあるし、また、船が着いた先でも荒くれはいくらでもいる。それらに物怖じすることなく撥ね退け交渉できるからと、実はセシルは五年のうちにエルメ商会では無くてはならない人間となっていた。


 だからこそ、彼の夢が叶ったのだ。


 エメリアを思い切るために、彼女に告白がしたい。


 エルメ商会の会長でありアラザント伯爵のエメットは、愛する妹が先に進めるきっかけにもなると言い、セシルにこの場を設けてくれたのである。


 そこでセシルは思うのだ。

 伯爵が望むのは、自分との結婚ではなく、エメリアが別のちゃんとした男と結婚を望むようにセシルを思い切ること、だと。


「エメリア。俺は実は――」

「さすが我が妹。人を見る目は間違ってないな」


 セシルはハッとして振り向いた。

 単なる従業員には数回しか会えなかった雲の上の人間、エメット・アラザント伯爵が会場を背景にしてバルコニーに立っているのである。


「お兄様!!」


「セシルには船を一隻任せる。よって会えるのは一年で数えるぐらいしか無くなるが、それでもいいか?」


 セシルは伯爵に自分が受け入れられていた、と知って驚くばかりだ。

 思わずエメリアではなく彼女の付添いのアマンダに視線を動かせば、彼女は輝くばかりの笑顔の中で、おめでとう、と声は出さずに口を動かした。

 セシルはエメリアをぎゅうと抱きしめる。

 そうしないと嬉しさで死んでしまいそうだった。


「もちろんです。会長。ええ、なんだって――」

「お兄様。それには抗議させていただくわ。私の大事な人を使い潰すような就労条件は決して認められない」


「そうは言うがエメリア。俺がそもそもセシルと君の結婚を認めたのは、セシルが我が商会で天賦の才を発揮したからだ。働いてもらわねば」


「でも、お兄様!!」


 セシルの腕からエメリアは出て行き、エメリアは伯爵と言うよりも完全に商人な兄と口論を始めてしまった。

 セシルの占有権という争いだ。


「えっと」

「ふふ。おめでとう。こんなに欲しがられているのだから、胸を張りなさい。それでね、船が嫌ならジュネスの所に顧問として戻って来て。魔獣を一人で倒しただけでなく、あの険しい山から傷を負いながらも一人で生還したあなたは軍では英雄よ。彼はあなたの指導が新兵に必要だって考えているの」


「俺は、こんなにも高値が付いたのですね」


「そうよ」


「では、自分で選ばせてもらいます。俺の心を奪い切ったエメリアの言う事に従うことにします」


 セシルはアマンダの結婚式の日から愛してやまない恋人を見つめる。

 彼の目には月の光どころか太陽よりも光り輝くエメリアは、彼の視線に振り返ると、彼の心臓を握りしめてしまう程の笑顔になった。

2024/9/16

右手→左手に修正。

これはヤバイ間違いだ。申し訳ありません。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 切ないからのハッピーエンド。泣きました。 キャラがみんないい、特にお兄様! 先代の伯爵令嬢と伯爵夫人はあれですが…彼女たちは傲慢故にどうにかなってしまうのでしょうね…。 [一言] 情景が浮…
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