131 思い出 (震災)
思い出 (震災)
あの時、私は静岡県の御殿場に来ていました。
東京から東名高速を利用して、来ていたのです。
あの時間、揺れました。
長く揺れました。
今まで経験した事が無いほど長い時間でした。
丁度、富士山が見えるところだったので、富士山を見ました。
「富士山の噴火」だと思ったのです。
富士山は、何事も無く立っていました。
車のナビにテレビがあったので、何故かラジオではなくテレビをつけてみました。
こういう時は「NHK」です。
色んな情報が流れています。
何処と言うより、「東北の方」という事でした。
東北の地震で、静岡の御殿場でこんなに揺れるとは思えませんでした。
持っているのは、スマホではなく「ケータイ」です。
通話は駄目で、家族にメールを送っておきました。
「何をして良いのか?」
ハッキリ言って、分かりません。
とにかく、家に帰ろうという事にしました。
家は東京です。
「一般道で帰る」選択はありませんでした。
御殿場ですから、「東名高速」です。
東名高速はICが近いのですが、逆に情報が錯綜して、通行が可能かどうかが分かりません。
自分でどう考えたのか分かりませんが、「中央道」なら東京へ帰れると思ったのです。
御殿場から須走に向かいました。
走り始めは、国道で片側2車線の広い道です。
災害の場合は、狭い道よりも広い道の方が通行が可能な場合が多いのです。
震源地から遠く離れた御殿場でしたが、停電したのか信号は全て点いていませんでした。
大きい交差点なのに、信号が点いていないだけで事故が起きていました。
多分、確認もせずに車が強引に飛び出したのか、追突事故をアチコチで見ました。
正直、広い道で「正解」だったと感じました。
あまり記憶に残っていないのですが、とにかく、須走から「東富士道路」を通って「中央道」に入りました。
時間が経てば経つほど、「通行規制」が始まります。
良くない考え方ですが、その前に通ってしまおうという「狂った考え方」です。
でも運良く、中央道を走れました。
途中、談合坂SAに寄って、トイレ休憩をしました。
その時は、車を「満タン」にしようと思いませんでした。
燃料が結構残っていたからです。
東京から出発する時に満タンにしていたので、かなり残っていたからです。
後悔とは「後から悔やむ」、その通りです。
災害の時は、補給出来る物はしておく事が大切です。
東名高速が使えていたのかは、情報が混乱していて分かりません。
とにかく、中央道は走れたのです。
でも、首都高速は「通行禁止」になっていました。
首都高速に繋がる、八王子~高井戸間も閉鎖でした。
八王子JCTで中央道はお終いになりました。
後は一般道です。
当然、安全パイの甲州街道、国道20号線を進みます。
もう、八王子JCTを出て暫くすると「大渋滞」でした。
東京に向かう「上り線」です。
当然、「下り線」も大渋滞です。
八王子から高井戸間の中央道と、首都高速が閉鎖しているからです。
「一寸摺り」の様な進み方です。
有り難い事にガソリンタンクは余裕でした。
府中あたりをトロトロと進んでいると、東京方面から沢山の人達が歩道を歩いています。
電車も動いていない様です。
時間は覚えていませんが、八王子JCTから一般道を使っても、4時間は掛かりません。
間違いなく、3倍以上の時間を掛けて、次の日に家に到着したのを思い出します。
それから、ガソリンスタンドは開店休業状態になりました。
補給がされないからです。
まあ、なんとか電車は動いてくれたので、仕事には行けましたが、会社の方も大変だった様です。
会社は東京支店で、高層ビルの30階にあります。
近くに本社がありますが、12階建てです。
電車も動かず、ビルのエレベーターも動かないので、30階に泊まった連中も多くいた様です。
何故か準備が良く、食料だけでなく、ビールとかも準備してあった様です。
本社の人間が「ビール欲しさ」に、30階まで歩いてきたとか「おバカ」の話ばかりでした。
東京はそんなものですが、仙台の東北支店の知り合いから、聞かされました。
「やっぱり、固定電話だね。」
当時ですから携帯電話ですが、「基地局」が壊れたとかで、ケータイは1日も持たず、役に立たなかったそうです。
固定電話は、電子交換機に代わってきていますが、昔はクロスバーと言われる交換機で、熱にも強かったのですが、デジタル機器は違います。
発熱量が多いのです。
空調機の「冷風」を直接機械に吹き付けて冷まします。
勿論、交換機の使う電力は、アナログよりもデジタルの方が多いのです。
ケータイからスマホになりましたが、スマホ本体は電池が長時間もつ物もありますが、繋いでいる交換機は物凄い電力を使います。
多分、固定電話よりも交換機の使用電気量は多いかもしれません。
ですから、電気の供給が無くなれば、即「アウト」です。
関係各社は「移動電源車」を用意している様ですが、問題は「燃料の供給」です。
大型のタンクローリーが、道を走れる保証はありません。
今の時代、電気が無いと、水も出ません。
そして、この前の八潮市の様に「下水道」が駄目になれば、水を流す事も出来ません。
筆者の親戚は東北方面に多くいます。
特にオフクロは姉妹が多いので、沢山います。
岩手の従弟は造り酒屋で、震災の地震には耐えましたが、津波でコテンパンに壊されました。
確か、NHKの映像にも映っていたと記憶しています。
でも、復興して、頑張っています。
宮城にも従弟がいました。
彼は、あまり勉強が出来た記憶はありませんが、手先が器用でした。
何とか、歯科医になりましたが、手先の器用さが功を奏して大人気の歯医者さんだった様です。
地震の時に高台に逃げて大丈夫だった様です。
でも、離れて暮らしている母親の消息が分かりません。
彼は高台から街中に戻り、母親を探しました。
どのくらい時間が経ったのでしょうか?
映像でも流れた「津波」が来たのです。
母親は、違う高台に避難していた様です。
でも、彼はそれを知りません。
歩き回ったのでしょう。
彼の消息は「不明」になりました。
私も色々な情報源で調べましたが、「生きている」という情報もありました。
結果は残念ながら、津波にもまれて亡くなっていました。
遺体は、余程の近親者でないと分からないという状態だったと聞きました。
津波で流されてきた「瓦礫」などで、体中「真っ黒」だったのです。
「内出血」です。
地震はいつ起こるか分かりません。
でも、日本にいる限り、避けては通れません。
そして、悲しい事に、当時よりも「殺気だった」時代になりました。
でもその時に、場所も時間も分かりませんが、家族がいる方は「連絡方法」を決めておくのが賢明です。




