怪しい人影
ヴイサンチン帝国。聖都バスケス。
皇帝の居城、ダッカ城を仰ぎ見るこの街は昔から海運貿易の拠点として栄えてきたんだって。
私的には貿易より、美味しいお魚が食べられる方に興味があるけど。エヘヘ。
まあ、聖都と言うだけあってすごく大きい。陛下の居城は小高い丘の上にあるんだけど、街がそれを取り囲んでいるの。で、私が在籍してる学校、聖テンペレシオンス学園は、ちょうど丘の入り口にあるんだよ。
え? てことはお城めっちゃ近いじゃんって?
いやいやそんなことないよ。お城に行こうと思ったら、結構歩かないと無理。それに丘と言っても広大なんだよ。
ちなみに、街の道は石畳で狭くて、路面電車が通ってるとこもあるけど建物すれすれを通るんだよ。大通りもないことはないけど入り組んでる。だから外国から来た人はまるで迷路みたいって思うそうだ。
朝。まだ外は薄暗い。私は布団からうーんと腕を伸ばした。
時間は五時半くらい。
ちなみに寮の起床時間は六時。私は制服に着替えてベッドから降りた。
え? もっと寝てたらいいのにって? 習慣かな……いつも早く起きちゃうんだ。お母様の実家が農家で、学園に入る前は毎日早起きして、お母様の収穫のお手伝いをしていたから。
隣のベッドを見ると、マリニアが大の字になって布団蹴っ飛ばして寝てる。お嬢様も形無しだ。アナスタシアはと言うと布団にもぐりこんでる。息苦しくない?
しょーがないなぁと二人の掛け布団をなおしてやり、私は忍び足で外に出た。
階段を下りてまだ誰もいない食堂を横切り――寮母さんが台所にいるけど――、そのまま庭に降りる。星がよく見える。この分だと今日もいい天気みたい。
庭の花壇をひとめぐり。だんだん明るくなってくるお日様の光を浴びて綺麗。でもたまにしおれてるのがある。
あー、水やり忘れてる。
聖テンペレシオンス学園は国中の貴族のご子息ご息女が通う学校で、そんな子たちの家には庭師がいる。だからついつい忘れちゃうんだよね。
私がお水を上げるとお花はピーンと背筋を伸ばしてくれた。
――昨日の当番は確かマリニアだったような。
ところで、この学園は貴族の子供たちが通うと言ったけど、入学するまで、彼らがどんな人種なのかあまり実感わかなかった。だから最初は面食らったよ。
一体何の話かって?
つまり、彼らがほんとに、その手の雑用、つまり水やりに始まって台所の仕事、掃除なんか。
ゼンッゼンやったことないんだなあって。
まず、どの子も、箒も雑巾も触ったことがない。それがびっくりだった。
ぞうきん絞ったことない子とか、初めて見たよ私。そもそも触ったことないから絞ったこともないよね。
そう言えばアナスタシアだけど、しっかりしてるよなー。そこはさすが皇族様と言ったところか。
彼女はひととおりなんでも出来る。下手すると私より手際がいい。皇族は、何処にいても生きていけるように小さいころから色々と叩きこまれるってうわさで聞いたけど、そうなのかも知れない。
そんなあんたはどうなのよって? 私は自分のことは自分でする主義だよ。
そう言えば、私のことあまり詳しく話してなかったね。
まず私のフルネーム。ベアトリーチェ・ボルティモア。今年で16歳。
大学教授のお父様と、さっき紹介したお母さま。そして姉さまの四人家族。
お父様は農作物の研究で手柄を立てて、貴族に取り立てられたの。そのおかけで姉さまが学園に入れて、卒業後は辺境の領主さまの処に嫁いだ。なんでも、この学園で見初められたんだって。
「で、買い出しとかどうする? みんな」
朝ごはんのあと、寮の部屋で私が切り出すと、マリニアはこうのたもうた。
「買いだしって何?」
アナスタシアがぐるっと目を回す。
「あんた買い出しもしたことないの?」
「だから何よそれ」
「サプライズパーティに出すお料理の材料を買いに行くんだよマリニア」
私がそう説明すると、え? 持ってきてもらうんじゃないの?と。
そう言えばこの子、ゆで卵の殻もむいたことないと言ってたっけ。
「とりあえず、何を作るか、市場にいって考えようよ」とアナスタシア。
市場は海の方にある。学校から路面電車を乗り継いでいくんだけど、港から海岸線をびっしり埋め尽くす市場は、別名バザールと呼ばれてる。
この街も迷路だけど、バザールはさらにややこしい。
私、方向音痴だから迷わないように気を付けなきゃ。
学校の事務局で授業の欠席許可――サプライズイベントなら許可してもらえるとのこと――と外出許可を貰って、戻る時間を書き込む。一応、学園から執事がついて来るんだけど。
じゃあ自家用車か馬車で行けばって話だけど、これも社会経験の一環なのだそうだ。
「ねー、喉乾いたんだけど」
とマリニア。執事さんが、もう少々御辛抱くださいと笑顔でたしなめる。
ようやく、バザールの入り口付近まで来て路面電車を降り、私達はカフェに入った。
「てゆーか、そもそも、外食する予定なかったのに」
どしん、と乱暴に椅子に座るアナスタシア。その横でマリニアが、執事さんにお料理をとってきてもらってる。予算が限られてるから、少しでも安いとこってことで、セルフなら安そうと入った店なんだよね。
それを見たアナスタシア。自分でとって来いとマリニアに言った。すると彼女。
「えー、何で? 歩くのシンドーイ」
いや、これからたくさん歩くんだけど。
アナスタシアがほんとにこの子は、と頭を抱える。
軽く食事を済ませて、私達はバザールの中を歩き始めた。執事さんの案内で、食品を売ってるところにたどり着く。ふー、人もお店も多い!
新鮮な果物に野菜、お肉、お魚。干したレンズマメに山のように積まれた香辛料がいい匂い。あ、あっちに装飾品売ってる。こっちに服売ってるっ。可愛い―、うわー、目移りしちゃうー!
あ、あれヴィサンチンの民族衣装だ。金色の糸で刺繍するんだよね。花嫁衣裳なんだよ。綺麗!
と浮かれていたら……。
「マーリーニーア! あんたね!」
マリニアにアナスタシアがキレた。なぜかと言うと抱っこされていたから。執事さんに。
「だあって、疲れたんだもん」
ぎゅ、とマリニアは執事さんにしがみついた。執事さん、学園からの依頼で出張で来てるんだけど、
背が高くてスラッとしてて、顏もハンサム。
「降りなさいよ子供じゃあるまいし!」
「やだ」
執事さんも疲れるでしょ?と私が言うと、執事さん、私のことならご心配なくとニコッと笑った。
それにしてもどれにしよう。つくりやすいモノがいいよね。となるとやっぱスイーツかなぁ。シシカバブとかピラフとかあるけど、慣れない台所うし。
シナモンやバニラを売ってるお店を周り、ハチミツなんか見てたら、パンケーキなんかいいんじゃない?ってことになった。すると。
「ちょおっと、私の意見は?!」
相変わらず執事さんに抱っこされたままのマリニアが吠える。
「あんたの意見?」
ぎろ、とアナスタシア。
「そーよ、野菜のテリーヌにしましょうってさっきから言ってるのに!」
「そんな難しいのつくれるわけないでしょ!」
がう、と吠え返すアナスタシア。
そうなんだ。さっきからマリニアったら、テリーヌつくろーとか、パテつくろーとか、タジン使ったシチューとか言ってるんだよね。そんなの無理に決まってんじゃん。使える調理器具だって限られてるだろうし。
結局、パンケーキ、ナッツをたっぷり入れてって話に落ちついた。材料の小麦粉と香辛料、アーモンドにバターを買い込み、寮に戻って試作しようってことに。
「ねえ、喉乾いた」
とマリニア。
「あんた他に言うことないの?」
青筋立てるアナスタシアに、私は、いいんじゃない? そこにカフェあるよと指さした。
坂道が入り組むバザールの一角にある小さなカフェ。私たちはそこに落ちついた。
「野菜のテリーヌ……」
ミントティーをすすりながらぼやくマリニア。まだ言ってる。
「そんなこと言ったって、お城の台所使わせてもらうのよ。慣れない場所で難しいことやったら絶対失敗するってば」とアナスタシアが言うと、
「でもお父様が来るのにぃ」
ミントティーのお供の砂糖漬けドーナツを齧りつつマリニアがぼやく。彼女はしかめ面で何か考えていたが、はっとしたように私たちに言った。
「そーだ、生クリームとか飾りましょうよ」
「却下」
「なんでよアナスタシアの意地悪」
「別にアナスタシアは意地悪言ってんじゃないよマリニア」私がとりなした。「凄い数つくるからさ、いちいちそんなことしてられないんだよ。溶けてくると拙いじゃん」
だいたい、生クリーム泡立てるの、どんだけシンドイかこの子分かってないっ。絶対根を上げるに決まってる。だってほんとに生粋のお嬢様なんだもんこの子。
ま、でもとりあえず意見もまとまって(一人納得してないが)、帰ろってことになった。
その前にもう一回バザールを見て回ってってことになって。その時は何も無かったんだけど。
事件が起きたんだ。
なんとマリニアが迷子になったのだ!
ずっと執事さんに抱っこされてたんだけど、ちょっと歩きたいって言いだして。
姿が見えなくなった……アワワワ。
「ったくあの子どこに行ったのよ!」
アナスタシアが汗みずくで探す。私も、執事さんも。
「申し訳ありません、私が付いていながら……」
「あんたのせいじゃないって」
アナスタシアはそういって、近くにいた憲兵に自分の身分を明かした。相手が直立不動の姿勢をとる。
「礼はいいから、私の友達を探して。お願い!」
私こっちを捜すねと言うと、アナスタシアが、アンタは私の傍にいてと私の腕を掴んだ。
「あんたまで迷子になられたら困る」そう言うアナスタシアの表情は青ざめて引きつってた。
憲兵の人達が懸命に探す。私たちは互いにしがみつくように抱き合いながら、待った。
すると……。
「見つかりました!」
憲兵の一人が、汗だくでやってきた。マリニアをつれて。
ヨカッタと抱き着こうとする私。その前にアナスタシアのゲンコがマリニアの頭に飛んだ。
「この、ぶぁかもぉん!」
殴ることないでしょと怒るマリニア。そんな彼女に、アナスタシアは今度は顔真っ赤にして泣きながら叫んだ。
「殴りたくもなるわよ! このバザールには人さらいもウロウロしてんのよ! アタシがどんだけ心配したと思ってんの!」
「……ごめん」
あー、気まずい雰囲気。どうしよう。マリニア、まるで叱られたネコみたい。アナスタシアも、ちょっとやりすぎたかなみたいな感ある?
その時ふと、私の目にすごくきれいな飴細工が目に入った。お花の形をした、すごくかわいいの。私はとっさにそれを買って、二人に差し出した。これで仲直りしない? って。
でもその時私は大変なことに気付いた……!
「あ、ごめん。お金全部使っちゃった」
そうなんだ。予算全部使っちゃったんだ。
「どーすんのよ帰りの電車賃!」とアナスタシア。
そうなんだ。電車賃も入れてお金学校から支給してもらってたから。
「まさか歩いて帰ろって?」とマリニア。
うん。と言う私に、もー、何考えてんのよと二人はなんか、泣き笑いしつつ言った。
仕方なく私達は歩いて帰ることになっちゃった。
買った飴はみんなで分けて食べながら歩いた。寮までは遠かったけど、なんか楽しかった。今日一日のいざこざも忘れちゃったな。
あ、でも、執事さんには申し訳ないこと、しちゃったかな。
で、その日の夕方。ご飯を済ませて、さっそく試作に取り掛かることになったんだけど……。
「え? マリニア、もう一回言ってくれる?」
寮の部屋で、私達は彼女から、衝撃の話を聞かされることになったんだ。
「だーかーら、昼間、バザールでなんか見覚えのある人と出会ったの。向こうは私に気づいてなかったみたいなんだけど……」
マリニアの話を要約するとこうだ。
私たちとはぐれてウロウロしてると、その人と出会ったそうなの。
ん? と思ってついて行ったら、路地裏に入り込んだんだって。
そこで、なんかちょっと分けありそうな人たちとヒソヒソ話をしてるの見たんだって。
で、その人達、お城の食糧庫とか台所とか、し、忍び込むとか話してたそう。
「それ、間違いないの?」とアナスタシア。
「間違いないわよ。私耳はいいもん」
マリニアの言葉に、私はアナスタシアを見た。
「どうしよう、アナスタシア、これ先生に言った方がよくない?」
「……」
「誰かを毒殺しようとしてるのかも知れないわ」マリニアがキッとした顔になった。「だって他に考えられないじゃない?」
うわー。なんかきな臭い事態になってきた。お姉さま、どうしましょう……。