3.千草峠
信長はこの時、朝倉攻めの最中で義弟・浅井長政に叛かれた、いわゆる「金ヶ崎崩れ」によって京都へと帰陣し、再び岐阜城へと戻る途上であった。
崖や谷などに囲まれた鈴鹿山脈の間道、千草峠を越えようとしていたのである。
こうした動きをいち早く察知した善住坊は、大岩の影に潜んで、信長が来るのを待っていた。
しかし、実際にその姿を見た時、彼は絶句するのである。
てっきり信長は、旗指物などを隠して進軍し、影武者を何人も立てているのだと思っていた。
だが実際には、馬上にて威風堂々とした態度を周囲に誇示し、影武者も立てずに山道を進んでいたのである。
その姿は善住坊に、
(お前に、儂が撃てるのか? 殺れるものなら、撃ってみろ!)
と挑発しているかのように映った。
(おのれ、信長……!!)
無性に腹が立った善住坊であったが、すぐに怒りを沈めて一呼吸を置く。
そして、一二、三間(約23メートル)離れた風下から狙いをつけた善住坊は、静かにその引鉄を引いた。
火薬が爆ぜる音が山道に木霊し、鉛玉が、信長の心臓部を目掛けて放たれる。
だが……
善住坊の弾は、信長の肩を掠めただけで、虚しく後方の岩にめり込んだ。
『信長公記』はこの時のことを、「左候ところ、杉谷善住坊と申す者、佐々木左京大夫承禎に憑まれ、千草山中道筋に鉄炮を相構へ、情なく、十二、三間隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候。されども、天道照覧にて、御身に少しづゝ打ちかすり、鰐の口を御遁れ候て、目出たく五月廿一日濃州岐阜御帰陣」と記している。
「二つ玉」とは、火縄銃に弾を二つ込める散弾方式であり、この時命中精度を高めるために用いられたと思われる。
だが、それでも善住房の弾は外れてしまったのである。
善住坊は追手から逃れるため、すぐさま谷の中へとその姿を消した。
◇
今でも善住坊は、あの時の光景が忘れられなかった。
(引鉄を引こうとした、あの刹那……信長は、確かに俺を見た。弾が外れたのは、奴の眼のせいだ。細くて鋭く、地獄の業火を宿した奴の眼に、俺は負けた……人の形をした悪鬼。それがあの信長よ……!)
信長が甲斐の信玄に宛てた書状の中で、自らを「第六天魔王」と名乗ったという話は、遠いこの地にも流れていた。
この名称は、延暦寺を焼き討ちにした信長を仏敵とする信玄に対し、我こそは仏教を滅する悪魔の王であると挑発した、稚拙な比喩表現に過ぎない。
だが、実際に信長を撃たんとし、逆にその眼光炯々にしてやられた善住坊には、その話が単なる例え話とはとても思えなかった。
(信長は本物の魔王だ。奴が天下を取れば、日本は必ず焦土と化す……)
部下たちには口が裂けても言えないが、善住坊にとって、甲賀五十三家や六角家の再興など、もはやどうでもよかった。
このマカオに来て以来、日本という国が、いかに小さい島国であるかを知った。
いつまでも小競り合いを行っていては、いずれ他国に呑み込まれる。
むしろ一刻も早く誰かが天下を統一し、外国に対抗できる国力をつけなければならないとさえ考えるようになっていた。
しかし、天下人の座に、信長だけは座らせてはならないというのが善住坊の考えであった。
なぜそう考えるのかについて、彼にも確たる答えがあるわけではなかった。
単に、自分の火縄が当たらなかったことへの逆恨みかもしれない。
あるいはこのマカオで、宣教師たちがキリスト教を広めた後、その土地を支配するという遣り口を見聞きしたせいかもしれなかった。
信長のように仏教を廃する一方で、天主教・切支丹を保護するやり方では、いずれ異国に侵略されてしまうとの考えである。
いずれにしろ、今でも信長が狙撃対象である事に変わりがなく、いつかは日本に戻り、その手で信長を仕留めることを夢見ていた。
これはあくまで自分の願望であり、そのために部下を危険に晒す気にはなれなかった。
一方で、彼は以前のような一匹狼の忍びとして、気ままに動ける立場ではなくなっていた。
今や甲賀衆十名を率いる忍びの頭領であり、彼らの糧を得るために、又右衛門のような小者から、仕事を請け負うという恥辱に耐えねばならなかった。
(だが、金さえあれば……安心して部下をマカオに残し、俺は再び信長を狙える……)
又右衛門の話を聞いて、善住坊の心にはムラムラとそんな希望が湧き上がってきた。
「取り分は?」
「四・六だ」
「なに、二万だと!? こいつは、これまでの小銭稼ぎとは訳が違うぞ! 額の大きさからしても、一分がせいぜいだ!」
「四分は四分だ。討伐に必要な武器・弾薬類は、欲しいだけ言いな。いつも以上に、たんまり用意してやる……俺はな、今回の件が上手くいけば、大金を持って引退することを考えてるんだ」
「まだそんな歳ではなかろう?」
「へっ、そりゃそうだがな。このマカオじゃ、ちと敵を多く作りすぎた……依頼主がいる暹羅には、日本人町があるらしい。俺は金を受け取った後、そこに留まって家屋敷と女どもを買う。死ぬまで遊んで暮らすのさ」
「……三分だ。それ以上はビタ一文譲る気は無い。いつも通り、火薬半斤、それから日本で祈祷済みの鉛玉も三十発用意しておけ」
「仕方ねえな……こいつが手配書だ、取っとけ。そうと決まれば、早速港に向かいなよ。酒呑童子に羽でも生えてない限り、日本から来るには海路しかないからな。着港した商船を片っぱしから調べ上げて、野郎を炙り出すんだ」
第4話は、明日日曜日に投稿予定です。
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