魂
崩れかけた石造りの塔。ここはかつて、ハーシュ王国と隣国の国境線付近に築かれた望楼だった。だが、二十数年前に王国軍が国境線の警備計画を全面的に見直した。その際にこの見張り塔は放棄されていた。
行商人も滅多に通らず、浮浪者も野生動物が多いこの場所は避けていた。獲物がいなければ、それを狙う野盗や山賊も寄り付かない。ここには何人も滅多に近寄ることは無かった。
その打ち捨てられた塔内に、黒い頭巾付きのローブを着た女性が一人立っていた。目の前には縄で縛られた若い女性、粟國夢夏が意識を失ったまま、冷たい石床に転がされていた。
魅了の魔法で操られている武装山賊集団”毒牙”。彼らの働きは見事だった。討伐隊が谷間からの脱出する事を察知すると、夢夏を捕らえる為に山賊団を複数に分けて、予想された脱出ルートに罠を張り待ち伏せをしたのだ。
谷間から脱出に成功した討伐隊の生き残りは、”カフカの平原”を抜けるルートを選択した。『強力な山賊がいない』というセオリー通りの行動だったのだろうから、待ち伏せを受けて大いに驚いたことだろう。
それらを思い出しながら薄く笑うローブの女性…そう、彼女こそヴェホラだった。
卓越した素質で若くして最高位の召喚魔法を操り、想像を絶する魔力を持ち、ハーシュ王国の王宮魔術師の経験もある強大な魔術師。
ヴェホラは、夢夏を運んできた”毒牙”に対して周囲の警戒を命じた。”毒牙”のリーダーは彼女に対して素直に頷くと、仲間に合図し騎乗するとそのまま立ち去った。何の問題もない筈だった。”魅了”の魔法が掛けられているのだから…。
だが、”毒牙”のリーダーの仕草を見た時、微かな違和感を感じた。彼の表情は趣味の悪いマスクで全く分からない。彼の眼を窺おうにも、眼は暗い色付きの丸ガラスで隠されている。それでも何か…完全に”魅了”の魔法が掛かっていないような感覚に囚われた。
「あいつら…今回の事をまるで…楽しんでいるみたいだ…そんな雰囲気を感じる…魔術に嵌っている人間はあんな感情は出さない…何か気になる…”魅了”の魔法は完全に掛かっている筈だが…違うのか?」ヴェホラは独りごちた。
”毒牙”は毒を操る山賊集団だ、自らの毒から己を守る為に、毒の耐性を得る想像を絶する厳しい訓練をしているらしい。必然的に肉体だけでなく精神も鍛えられているだろう。
そういった心身を鍛え抜いた人間に対して、他人を惑わしたり心を操る幻惑魔法は効果が出にくいものだと、魔術師の仲間内では常識として知られていた。
術者の幻惑魔術スキルより対象者の心身が強ければ、文字通り惑わされる事が無い、つまり魔法の効果が及ばないことは充分有り得た。
ヴェホラは召喚魔法では随一の実力者であった。そして幻惑魔法の使い手でもあった。だが、その能力は低くはないが、さりとて高いものではない。もしかしたら”毒牙”の精神力が、ヴェホラの幻惑魔術スキルを上回っているのかもしれない。
「”毒牙”の奴ら…こちらの”魅了”の魔法に掛かったふりをしているのか?私の計画に乗っかって何かを企んでいるのか?…いや、構う事は無い。寝首を掻くようなことを企もうが…こちらには自分の身を護る術くらい持っているからな」
儀式を執り行うために、魔力は温存しておきたかった。儀式には膨大な魔力を消費するのだ。どんな形であれ、魔力は消費したくない。その為オーク討伐も王国の軍を利用したのだ。
だが、もし”毒牙”が裏切ってきたら、奴らを撃退するために魔力を出し惜しみする気は無かった。
ヴェホラは破壊魔法のスキルは持っていない。直接奴らを攻撃する手段は無い。だが、召喚魔法で異形の生命体を呼び出し、使役することは可能だった。
「何かあれば、そいつらを奴らにぶつけてやる。それで終いだな」
一人頷くと床に転がった夢夏を見下ろした。ヴェホラの豊かな長髪…紺色を思わせる黒髪が頭巾の間から垂れる。白い肌。彫刻のように深く整った顔には、形の良い大きな琥珀色の瞳が光っている。
彼女は感情の昂ぶりで、その瞳を大きく燃やすかのように輝かせていた。
左手には魔力の込められた小さな容器が握られている。別の世界から召喚した男…オーク討伐に手こずる王国軍を助けるために、この世界に召喚魔法で呼び出した若い男。そう、深馬啓亜の魂も、この容器に封印されている。
彼をこの世界に召喚したのには二つの理由があった。一つ目はオーク討伐に確実を期するために、この世界より知識が高い世界の人間を召喚しようとしたのだ。そして、それを生かせるように特別な能力も与えた。
老練な剣士も驚く高度な剣術。そして一瞬だが時を止める(正確には時が止まったと錯覚するほど素早く動ける)という破格の力も与えた。オークを脅かす魔剣まで持たせてやるという念の入れようだ。まさに至れり尽くせりだ。
更には人望を集めて、すぐに王国軍に入隊して指揮官になれるように、”魅力”の魔法もかけておいた。
魔法というものが存在しない世界の人間が魔法に掛かると、より一層その効果を発揮する事をヴェホラは知っていた。それが深馬啓亜を召喚した二つ目の理由だった。
だが、この男は失敗した。最後の最後で。使えない奴。だが、それでも…死んだ後でも使い道は残っている。”魂”だ。”死穢の儀式”を成就するための供物。”魂の取引”に必要な。
”魂の取引”は、一つの魂だけでは執り行えない。選ばれた男女の魂が必要だ。”選ばれた”とは、この世界ではない別の世界からの来訪者の魂の意味だ。
「この男だけを連れてくる予定だったが、何人かが一緒に飛ばされてきたようだ。やはり、異世界からの召喚は不安定…だが、結果的にはそれが幸いした」彼女は呟く。
そう、啓亜はオーク討伐の最後の戦いで敗北し、アイオンの像の奪取に失敗した。儀式は”死鎖の月”と呼ばれる、一年に一回だけある特別な満月の夜にしか行えない。今年の”死鎖の月”は五日後に迫っている。
「これを逃して一年を待つ気などない。この男女二つの魂を使って儀式を成就させてやる…」
ヴェホラが呟き、容器を夢夏の前に突き出した。魂を抜き取り封印する為の詠唱を開始する。死者の魂ではなく、生きている者の魂を封印するのには、高い魔力と高スキルの魔術が必要だ。
彼女にはその二つが備わっていた。だが、それでも間違いがあってはならない。
ヴェホラが詠唱を始める。低く歌うような旋律。身体から魔力が満ち溢れて、薄い紫の光が周囲を明るく照らすほどだ。更には石床に落ちていた小石が浮き上がり、魔力によって宙を漂い始めた。これほどまでの魔力を持つ魔術師は、ハーシュ王国のみならず、近隣の国にも存在しないだろう。
左手に魔力が集まる。彼女の左手と魂を閉じ込めるための容器が光り輝く。もうじき詠唱が完了しようとした刹那、夢夏が目を醒ました。
「…あぁ…気持ち悪い…アレ…何だったのよ…」
そしてすぐに自分の身体が妖しげな光に包まれている事に気が付き、金切声で喚き立てる。
「ちょっと!なによこれ…アンタ誰?!なにしてんのよっ!ふざけんじゃねーよ!」
驚いたことに、麻痺毒から回復したばかりなのに夢夏は絶好調だった。回復した直後は、鍛えられた肉体と精神を持つ兵士でも、暫くは茫然自失となるはずなのに。
夢夏の有り得ない回復力の早さと、自己の危機状態における状況判断能力。人を苛立たせる口調は常識を凌駕していた。特にその言葉遣いは本当に口から毒を吐いているようだった。その毒の凶悪さたるや、”毒牙”の連中ですらたじろぐだろう。
ヴェホラも突然喚きだした夢夏に驚き一瞬怯んだ。だが、詠唱は終わりかけている。彼女は何とか集中を保ち詠唱しきった。光芒が拡がり魔法が発動される。
「テメー!何やってんだよ!このクソおんながあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
絶叫しながら夢夏の魂は肉体から抜け出し、飛び出した青白い魂は、容器の中に吸い込まれる瞬間まで絶叫していた。
「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
彼女の魂が容器に閉じ込められたのちも、望楼の内部には彼女の金切声の残響がこだましていた。
(声を出せない筈の魂が叫んでいた。毒蛇のように性悪で執念深い女…果たして邪神はこういう歪んだ魂は好物なのだろうか?)
王国一の召喚魔法の使い手であるヴェホラが、思わず首を傾げる程の夢夏の捩じくれた性格。そしてその結晶である魂。
どちらにせよ、彼女の魂は”黒の邪神”の召喚に使われる儀式に於いて、取引の材料として使われるため、魔力を帯びた容器にしっかりと封印されることになった。しっかりと厳重に。
ヴェホラは容器を懐にしまうと、儀式のための次なる行動を起こすために塔の外へ出た。望楼の内部には、魂の抜けた夢夏の肉体だけが残っていた。
大きく口を拡げ絶叫したその瞬間で凍った表情は、人間とは思えぬ憤怒の悪魔の形相にそっくりで、見る者の背筋を凍らせるには充分な禍々しさだった。
そこにはハーシュ王国民から、”神が遣わし子”と称賛された欠片さえなく、彼女本来の本性が剥き出しになっていた。