毒牙
◇
「退避ですっ!」
数十メートル先のバラーシュが、突如として緑の煙に包まれた瞬間、クレトは大声で叫んだ。
(隊長が罠…毒の罠に掛かった!待ち伏せだ!)
特殊部隊の範疇にある”追跡者隊”、非常事態が起きた時の行動は時として冷酷だった。
”自己と部隊の安全の確保が最優先”
訓練時から徹底的に叩き込まれた大原則。クレトは反射的にその鉄則に従った。バラーシュ隊長を見捨てて騎士団の安全を第一にしたのだ。
馬を反転させようと手綱を返す。同時に腰に付けた小物入れに手を突っ込むと薬草の束を掴みだし、確認すること無く口の中に詰め込み、奥歯で思いっきり噛み締める。
どんな種類の毒か分からない。それを調べる暇もない。クレトは全ての種類の薬草を口の中にねじ込んだ。
噛み締めた瞬間、猛烈な苦みが口中を走る。嫌な匂いが鼻を抜ける。胃が痙攣して嘔吐しそうになった。それを意志の力で耐え忍ぶ。
「退避!!!」
クレトの言葉にユーハーソンも叫ぶ。騎士団が反転しようとした時、バラーシュ隊長を捉えた毒の罠が作動した付近から、乾いた破裂音を発しながら次々と緑色の瘴気が噴き出した。
それは一直線にこちらに向かってくる。直線状に仕掛けられた罠が連動して作動しているのだ。
三十数騎が混乱しながら退避を試みる。だが毒の罠は狂気の速さでこちらに向かって連続して作動してくる。逃れることは出来なかった。
馬を返したクレトの側面で罠が作動する。そして次の罠が作動し、そして次の罠が…クレトの眼には、騎士団の隊列の側面を、得体のしれない緑色の生き物が猛烈な速さで駆け抜けたように見えた。
隊全体が緑の瘴気に覆われる。突然、クレトが騎乗している馬が、激しく嘶きながら後ろ脚二本で立ち上がった。前足は苦し気に空を掻く。一瞬彫像のように静止したのち、唐突に棹立ちの状態から真横に倒れ始めた。
クレトは馬が倒れる瞬間に、自分から水に飛び込むように身体を躍らせると、そのまま前転して落馬の衝撃を逃した。
なんとか立ち上がろうとしたが、身体全体に痺れが走り自由が利かない。心臓が締め付けられる。喉の筋肉が麻痺しかかって空気をうまく吸うことが出来ない。クレトはそのまま俯せの姿勢で地面に倒れ伏した。眼前に、地面に横倒しになった馬の顔が飛び込んできた。
身体全体を痙攣させ、眼は恐怖と混乱で飛び出しそうになっている。口を大きく開けて激しく喘いでいる。その口からは大量の泡が噴き出していた。
(これは酷い…何てことだ…皆は無事なのか…)
そのままクレトは懸命に首を動かし、周辺を見廻した。立っている人馬はいなかった。人も馬も大地に倒れ伏し、懸命に空気を吸おうと身体を震わせている。
(死んでいる者はいないようだ…みな苦しみながらも生きている。つまりこれは神経毒…麻痺毒だな。こんな嫌らしくも計算した罠を仕掛けるのは…ただの山賊ではない。”毒牙”…そう、”毒牙”の仕業に違いない…だが一体なぜこんな場所まで?何が目的なんだ?)
クレトはハーシュ隊長と同じ疑問を持った。自由の利かない痺れた身体で懸命に考えた。…だが答えに辿り着きようもなかった。
(分からない。なんでだ?いや、考えても仕方がない。今は”毒牙
”の目的と、ここを切り抜ける事だけを考えよう)
クレトはそう決意した。身体を動かそうと試みる。だが指先が微かに動いただけだった。神経毒はクレトの身体を完全に蝕んでいた。
(身体は動かない…だが、眼も見えるし耳も聞こえる。匂いも分かる。麻痺毒は、身体と五感の自由を奪う筈だ。つまり、薬草が僅かながらも麻痺毒を中和しているという事だな)
その時、大地に伏せているクストの身体が、地面から伝わるリズミカルな振動を察知した。五感の内の一つ、”触覚”も無事だったようだ。
(この振動。馬の蹄音か…奴ら、こちらに近づいて来ている。一体何騎いるんだ?)
クストがそう考えた時、今度ははっきりと耳に飛び込む馬の蹄の音。相手が何人かを知ろうと必死で耳を澄ます。
(七、八…十…十以上か。十騎以上いるな。…十五騎はいない。ということは全員じゃないな。”毒牙”の総数は五十名近くいるはず。こいつらは様子を見に来たのか)
気が付かないうちに閉じられていた両眼をそっと開ける。眼前には相変わらず苦悶の表情の馬の顔。クレトは、その少し横に水溜りがあるの気が付いた。戦いの最中に降ってきた雨で出来た水溜りだろう。あの雨はここまで降っていたらしい。
夕日を浴びて水溜りは鏡のように光っていた。クレトはそちらへ顔を向けると、眼を半開きのまま水溜りに視線を固定した。そして来るべき敵を待ち受けた。
直ぐに馬が近づいてくるのが分かった。蹄の音の他に、馬からは嘶きや鼻を震わせる音が聞こえる。だが不自然なくらいに装具の音がほとんどしない。
(装具は全て縛り付けて固定してあるのか。無駄な音は一切出す気はないらしい。”毒牙”の奴ら、相変わらず抜け目が無い…)
クレトは身体を微動だにさせず、水溜りを注視し続けた。人馬の気配がこれまでにないくらい近づいてくる。次の瞬間、すっ…と水溜りに騎乗した人物の影が映し出された。
その人影は一言で言うならば”鳥の頭”をしていた。烏のような大きな嘴が顔面から突き出している。
頭頂部も黒い影となって水溜りに写しだされた。僅かに三角形に尖っている。クストはその姿を見て更に確信を深めた。
(頭には頭巾かローブを被り、鳥のようなマスクを付けている。間違いない”毒牙”の奴らだ)
頭巾やローブを被っているのには理由があるのを知っていた。自分達の風体を悟られなくするのと、肌に直接毒が触れない防護のため。そして鳥マスクの眼は、保護のために丸い色付きのガラスが嵌め込まれているが、その反射光を防ぐためだった。
もし英俊がその場にいたのなら、前の世界にかつて存在した”ペストマスク”にそっくりだと思っただろう。ペストが蔓延した死と絶望の十六世紀の欧州で登場したペスト医師が装着したマスク。
恐怖と死に満ちた暗い街を歩く異様な風体のペスト医師は、或る意味不気味な”死への案内人”に見えないことも無い。だが諸説はあるものの、彼らは市民をペストから救おうとした医療従事者である。決して”死への案内人”などではなかった。だが”毒牙”は違う。
(数少ない目撃者の証言の通りだな。何て不気味な姿なんだ。奴らを”死へ誘う者”、”死への案内人”って噂される一つの理由だな。…医師と薬師の推察だと、あの嘴の中には解毒作用のある薬草が詰め込まれているらしいが…)
(頭と首を保護する頭巾、マスクに付けられた眼を保護する為のガラス板。そして、解毒の薬草が詰められた嘴…”毒牙”のメンバー達も自身が作り出す毒には無力なのか。いや、彼らは毒に対して耐性を得る訓練をし、出撃の時には毒魔術師から、毒ダメージ防御の魔法を掛けて貰っているという情報もあるのだが)