待ち伏せ
◇
「よし。クレト、伝書鳩を放て!」
「承知しました。分隊長殿!」
谷を無事に抜けた脱出隊。オークの追撃が無く、狙撃弓兵の射程外に出たと確信して、ユーハーソンは指示を下した。
クレトはユーハーソンが書き記した救援要請の通信文を受け取ると、伝書鳩の脚に括りつけられた通信筒へ封入し、しっかりと蓋を閉めた。
「よし行け!”25号”!頼んだぞ!」
クレトは伝書鳩を空へ放つ。”伝書25号”と名付けられた白い伝書鳩は、一直線に北へ向かって羽ばたく。目的地は王国軍第七陸防師団の鳩舎だ。
「第七陸防までは、どれくらいの時間で到着出来そうだ?」ユーハーソンがクレトに問うた。
「ここからですと…何事も無ければ約二時間ほどかと思われます」
「二時間か…。救援部隊の予想到着時刻は?」
「鳩舎付きの通信兵が通信文を回収して、団本部へ報告、その後の出動準備を考慮すると、通常部隊なら騎馬主体でも半日…そうですね、十時間近く掛かるでしょうか…」
「そう。通常部隊ならそれくらい掛かるだろうが…俺は救援要請にヴィカーリの軽騎兵隊を指名した」
「第七陸防師団のヴィカーリ殿率いる第13軽騎兵隊は、”神速”と名高いですから、もし即応してくれたら六時間くらいで到着できるはずです。我々が抜ける”カフカの平原”を進軍してくれれば、途中で出会えるかもしれません」
(六時間か…)
六時間。確かに速い。”神速”の名は伊達ではない。ハーシュ王国軍の軽騎兵隊の基準兵員数は二百名だ。第13軽騎兵隊が全兵力で救援に駆けつけて、討伐隊と協同すれば戦力の差はだいぶ縮まる。
更に騎兵二百名の突撃の威力は、騎乗をしていないオーク達にとっては厳しい圧力となるだろう。数的有利は無関係になるはずだ。
(それもこれも、伝書鳩が第七陸防師団の元に無事辿り着いて、陸防師団本部が救援に動いてくれれば。そしてクーンツ達が、六時間という時間を凌いでくれれば、の話だ)
ユーハーソンはそこまで考えると、それ以上思考を巡らせるのはやめにした。(不確定要素が多すぎる。兎に角今は”伝書25号”が第七陸防師団まで無事にたどり着くことを願うだけだ)
「クレト」
「はい。ユーハーソン分隊長殿」
「王国本部までの伝書鳩の状態は?」
「元気です。ただ今飛ばしても、途中で夜になります。この伝書鳩…”32号”は夜間は飛ぶのを止めます。明日の朝まで待った方がいいでしょう」
「そうか、それなら今飛ばしても明日飛ばしても一緒だな。無理しない方がいい。そのまま保持で」
「承知しました」
脱出した三十数騎の一隊は、バラーシュ隊長の先導のもと、第七陸防師団本部を目指し移動を続けた。当初の予定通り”カフカの平原”を無事に通り抜けた。その先には森が茂っている。バラーシュは片手を挙げて隊を止める。
「どうした?バラーシュ」
「ユーハーソン分隊長殿。これから森に入りますが…そろそろ陽が沈みます。どうされますか?夜の森は危険です。今日はここで野営されますか?それとも行ける所まで行きますか?」
「決まっているだろう。行くんだ。クーンツや重装歩兵隊を残してきているんだ。早く陸防師団本部へ報告せねば」
「…承知しました。それでは私が進行ルートを偵察し、その後に嚮導します。少しお待ちください」そう言いながら馬を降りた。
「危険があるのか?」ユーハーソンは尋ねる。
「ええ。夜行性の肉食獣に、この辺りを通る行商人を狙う山賊や野盗。ごく稀にですが、トロールも出没しますので」
「…トロールが?」
「いえ、恐らく大丈夫です。普段は森の奥深くに棲息して滅多にこの辺りまでは出てきませんから…警戒すべきは山賊です」
「”闇の踊り子”や”毒牙”が?」
「先ほど申し上げた通り、その二集団はこの辺りは縄張り外です。彼らはここまでは来ないでしょう。ここにいるのは名もなき二流、三流どころです。しかし待ち伏せされると面倒ですから」
(山賊に、”二流、三流”があるのか…)
ユーハーソンは、心の中で思わず苦笑した。だが、考えてみれば王国軍内で悪名を轟かせている、”闇の踊り子”や”毒牙”は王国軍正規兵を返り討ちにする実力を持っている。そう考えると彼らは”一流”で、それ以下の山賊を”二流、三流”と表現するのはおかしくは無かった。特に山賊討伐の任も担っている、追跡者隊隊員の口からその言葉が発せられるのは真実味があった。
バラーシュ隊長は、背中に背負っていたクロスボウを手に構えるとボルトの装填を確認し、身体を低くしながら静かに前方へ移動していった。
ユーハーソンはその姿を目で追いながら、ある事に気が付いた。彼が進む地面は下草が生い茂り、落ちた木の枝が散乱しているのに足音一つ立てずに進んでいたのだ。偵察任務を専門としているから当然なのだろうが、その技量に驚嘆するとともに、ユーハーソンの胸の内にある感情が満たされた。
(流石は、追跡者隊小隊長…彼を連れてきて本当に良かった…)
そう。その感情は、彼に対する紛れもない”信頼”の念だった。
◇
(急がず…だが迅速に…)
バラーシュは、心の中で自身を落ち着かせながら周囲に眼を配った。今日一日、討伐隊も自分が指揮する追跡者隊も大混乱の極みだった。
(だからいつもより注意力が散漫になっている筈だ。自分の気が付かぬうちに…気を付けろ…集中だ。心を落ち着かせろ…)
森には細い道があった。元は獣道だったのを行商人や、猟師が利用し踏み固められた粗末なものだったが。この道を無事に通り、森を抜けることが出来れば山賊や野盗の脅威は激減する。森の抜けた先からは王国軍の勢力圏だからだ。
隠蔽された落とし穴が無いか…下草の踏み後は無いか…木々の陰、木の枝に作られた罠…人間、動物を問わず新しい足跡、肉食獣のフン…木の枝の折れる音…足音
バラーシュは全神経を集中して偵察を続ける。その時、誰かの視線を感じた気がした。右側、木が生い茂った森の深部からだ。だがその視線に殺気は感じられない。粘つくように観察する視線だ。それが自身の身体に執拗に絡みついてくるのを感じた。
バラーシュは偵察のスペシャリストだった。だから反射的にそちらを向くような素人臭い行動はとらなかった。視線に殺気が込められていないと確信すると、敢えて気が付かない振りをした。
(動物ではないな…人間。分かる。…そうだ人間だな、この視線の感じは…山賊か…だが複数ではない感じだ。見張りが一人ってとこか。この先に行ったら待ち受けるのは待ち伏せの伏兵か…これは戻った方がいいな)
バラーシュは相手の視線を警戒しつつ騎士団の所へ戻ろうと、そっと身体を反転させようとした。その時身体すれすれに触れんばかりの樹木の枝の一本が、ほんの僅かだけ不自然にたわんでいるのに気が付いた。バラーシュは静かに動きを止めて、その木の枝を観察する。
たわんだ木の枝の先に、夕日の反射を受けて薄く光る糸のようなものが繋がっているのが見えた。バレにくいようにその糸は、背景に溶け込むような緑色をしていた。
(罠か。なかなか精巧な作りだ。見つからないように緑色と来ている。ご丁寧なこった…これはそこらの山賊や野盗が作ったモノじゃないぞ…)
バラーシュは嫌な予感を抱きつつ、視線を滑らせて糸がどこに消えているか確認しようとした。
(これだけ細いのに、切れもせずに真っ直ぐ張っている。これ、魔法で出来た糸…悪党どもの中に野良魔術師が居るのか…これは面倒なことになった)
張られた糸は、罠の起動装置だろう。そう思いながら、糸の消えた先を観察する。その糸はバラーシュの右側すぐ前方で消えていた。正確には生い茂った下草に吸い込まれるように消えて見えなくなっていた。
他にも罠が仕掛けてるかもしれない。バラーシュは迂闊に動けなかった。いや、こういう罠を仕掛ける人間は、解除されることを予想して多重に罠を仕掛けるのが定石だ。そっとしておいた方が良い。退避だ。
引っかかる訳には行かない。バラーシュは反転の動作を中止すると身を屈めたままの姿勢で、来た時と同じルートを後ずさるように戻り始めた。
その時、絡みつく視線に強い殺気が込められたのに気が付いた。
(まずい!罠を起動させる気か!)
反射的に飛び退って回避しようとした。だが身を屈めて後ずさりしている最中だ。一瞬、反応が遅れた。
糸が切られた。
糸が宙を走り、空気を切り裂く鋭い音がする。
直後、右前方の下草の隙間から緑の煙のような瘴気が盛大に噴き出て来た。
その瘴気は、バラーシュの方向へ正確に噴き付けて来た。最初からこちらの動きを予想して、緑色の瘴気に指向性を持たせていたようだった。念の入ったやり方だった。
(くっそ!緑の瘴気…毒の罠か!まずい!薬草を…)
即座にバラーシュは腰に取り付けてある革製の小物入れから、解毒作用のある薬草を取り出そうとした。身体が痺れる。呼吸が苦しい。神経毒だ。
(ペオニアだ…薬草はペオニアだ…)
神経毒に対して効果のある薬草の名前を心の中で連呼しながら、必死で小物入れを探ろうとするが腕が痺れてうまく動かない。毒の周りが速い。すぐに指先も動かなくなってきた。薬草を取り出すことなど不可能だった。
(やられた…”毒牙”だな…やつらの仕業しか考えられない…だがなぜこんなところまで”毒牙”が出張って来ているんだ?ここはあいつらの領域じゃないだろ?)
痺れは凄まじい速さで体全体を巡る。五感が急速に失われ始めた。まず眼前が暗くなって目が見えなくなった。音も遠く小さくなる。地面に顔面を押し付けているのに、草の匂いも土の匂いもしない。神経毒によって全ての感覚機能が奪われてしまっていた。
更には喉の筋肉が痺れて麻痺し始めた。呼吸が出来ない。自然とバラーシュは喘ぐような浅い呼吸で身体に空気を取り込む体勢になった。そして鍛えられた筋肉の塊であるはずの心臓すら、毒の呪いからは逃れられなかった。
(胸が苦しい…締め付けられるようだ…鼓動が浅く…速い…俺は死ぬのか?悔しい…毒の罠などという汚い手段で…)
”自分は死ぬ”
覚悟を決めたバラーシュだったが、不思議な事に苦しいばかりで意識は失わなかった。その代わり苦しみは地獄そのものだったが。バラーシュは途切れ途切れの意識の中で気が付いた。
(この毒…麻痺毒なのか…。奴ら、俺達を殺して装備を奪うのが目的ではないのか?では、なにが目的で縄張り外まで出てきて、手間の掛かる麻痺の毒で攻撃してくるんだ…?)
痺れる脳で必死に考えるが答えは分からなかった。そして倒れ伏して五感を奪われたバラーシュ隊長には、知りようが無い事実がもう一つあった。
後ろで待機していた騎士団が、ほぼ同時に”毒牙”の奇襲を受けて大混乱に陥っている事を。




