脱出2
『恐らくそうだろう。我ら部族は動物に騎乗して戦う事は無い。大型の猪を使役して騎乗して戦う、我らとは別の一族もいるが、少なくとも我らはそのような事はしない。人間どももそれを知っているから、重要な人物だけは馬に乗って逃げようと考えているのだろう。馬の脚は我らより遥かに速い。流石に追いつけぬ』
『それじゃ、どちらにしても応援を呼ばれるって事か…この戦いで討伐隊を倒しても、新しい討伐隊が編成されてこちらに向かってくる…』
英俊は絶望的な気分になった。仮に騎馬で脱出を試みた者たちを全て倒しても、帰還しない討伐隊を訝しんで、結局、王国本部は応援をこちらに寄越してくるだろう。
こちらが強大な力を持っているなら、王国も討伐を諦めるだろうが、”百人隊長”率いるオーク一族が全滅寸前という事はバレている。
『これは…どうしたらいいんだ?よく考えたら詰み掛かってるよな。この状態…』
”百人隊長”も無言だ。英俊と同じ事を考えているらしい。”百人隊長”は、一族全滅を阻止する為に、この戦いに勝つことだけを考えていた。存亡の危機という状況下、『戦いに勝ったあとのこと』なんて考えてなかったらしい。でもそれは仕方がないだろう。英俊自身、”百人隊長”と同じだった。とにかく眼の前の最終決戦に勝つことだけを考えていた。
だが、オークにとっては『最終決戦』でも、王国にとっては『二の矢』を放つ余裕があったのだ。
『”百人隊長”!、討伐隊の脱出は見逃そう!これ以上指揮官を殺したり、相手の戦力に損害を与えて、王国がその事を知れば逆上して、こちらを徹底的に潰してくるぞ!』
いつもは即断即決の”百人隊長”だが返答は無かった。答えを出すには悩ましい問題だ。それでも、しばしの間の後に、”百人隊長”が口を開いた。
『そうだな。我らにも追撃戦を行う余裕などはない。…奴らの撤退を見逃そう。無理に戦えばこちらの損害が増えるだけだ…”深い水底の魚”よ…聞こえるか?』
『”百人隊長”よ聞こえておる。皆に命令を下すのだな?』
『そうだ…人間どもが、我らの包囲網を…』
そこまで言った時だった。左翼から肉体と肉体、武器と武器が激しく交わる音が谷底に響き渡った。同時に馬の嘶きと、轟くような蹄音。
(討伐隊が脱出を開始した!)英俊の…いや”百人隊長”の心臓が強く脈打たれた。
『”深い水底の魚”!皆に伝えろ!攻撃するな!逃がしてもよい!速く伝えろっ!』
”百人隊長”の声が大きく響く。”深い水底の魚”は、すぐにその魔力を持って全オークに”百人隊長”の命令を伝えた。
『全員、人間どもに手を出すな!逃がしてやれ!”百人隊長”のご指示だ!無理をしなくてもよい!』
その声を聴いて、左翼のオーク達は討伐隊によって包囲網に開けられた穴を防ぐのを止めた。開けられた脱出口を、討伐隊の騎馬群が猛烈な速度で駆け抜ける。
(粟國…!あいつは生きていたのか!)
谷底を形成する斜面を、馬体を斜めに傾けながら疾走する三十数騎の騎馬隊。その中心付近に護衛の騎士に護られるようにして、一人の若い女性が見えたのだ。
手を出すな。と命を受けたオーク達は、逃走する騎馬群を武器を構えながらも手を出さずに見送る。狙撃弓兵達にも命令は伝わったのだろう。彼らに矢を撃ち掛ける事はしなかった。
谷の出口に向かうために疾走する騎馬群。”百人隊長”の側面の斜面を駆けて行く。その後ろを数頭の犬が追いすがる。追跡者隊が連れていた猟犬だろう。
騎馬群と英俊がすれ違う瞬間、粟國の姿が一瞬だがはっきり見えた。
弓兵の狙撃を警戒し、騎士たちが粟國を護るために大きく盾を掲げる隙間から、彼女の姿がちらっと見えた。
こわばった表情の彼女は、こちらには一瞥もくれない。彼女が見据える先は一点のみ。
谷の出口だけだった。