脱出
英俊は”百人隊長”の代わりに両手剣を握りしめ、討伐隊の防御線に斬りかかった。何も考えないようにした。正気に戻ると、”現在進行形で殺人を犯している”という事実に耐えられそうに無かったからだ。
(殺らなければ殺られる…そう、だから仕方がないんだ。相手の事を思いやる場所じゃないんだ…ここは戦場なんだ)
その思いだけを心の拠り所にして剣を振るった。そうでもなければ正気を保つことは不可能だった。
英俊は、前の世界で読んだ、元兵士が綴った戦記小説の一部を思い出した。
正規兵として『人に向けて発砲する事』について洗脳に近い教育を受けても、初めての実戦では、相手に向かって狙いを付けて射撃することに強い抵抗感を覚えて、遥か先に見える敵兵の発砲光目掛けて適当に引き金を引いていた。という一節だ。
映画やアニメのように、相手の姿がはっきり見える数十メートル先での撃ち合いは、一般兵同士の戦闘では滅多に発生しないらしい。だから、実戦を初めて体験した著者も、初戦が相手の姿を把握し難い長距離戦であることを幸いに、悪く言えば『戦うフリ』をして無意識に自分の心を慣らしたらしい。
そして、何度か実戦を潜り抜けて…戦争、戦闘というものを自分なりに消化して、それに対して立ち向かう事が出来るようになった…おめでとう!一人前になったな!これでお前も一人の立派な兵士だ!って奴だ。
だがこの世界は、剣と剣でお互いが超近接距離で殴り合う世界だ。遠距離で銃を撃ち合うなんて僅かな余裕なんてものは存在しない。
自分にためらいの瞬間があれば、すぐさま命を落としてしまう世界だ。
だから英俊は考えないようにした。何も考えないようした。それは奇しくも、”百人隊長”と”神”が英俊に語り掛けた『何も考えるな』を無意識に実践している結果となった。
ただ余計なことを考えないという事は、良い結果を生み出す事にもなった。剣術と戦闘能力に秀でた”百人隊長”の身体は、英俊の変な緊張の影響を受けずに済んだため、伸び伸びとその技術を解放した。
相手の攻撃、防御、細かいフェイント…それらの動きに英俊が気が付いた瞬間、英俊が何かしようとする前から、身体は勝手に反応して最適な動きで対応した。
相手の攻撃を受け止め、即座にカウンターで反撃する。視界の外から突然飛び込んできた攻撃も、目の端にその影が走った瞬間、身を捩り、籠手を突き出し、剣を構えて完璧に防御する。
英俊は、”百人隊長”の身体能力の高さに舌を巻いた。流石はこの世界で”最強の戦闘民族”と謳われた”オーク一族”なだけある。プロスポーツ選手や一流アスリートでも、この卓越した反射神経による、反応の速さは賛辞を送るだろう。
どのくらい時間だろうか?自分の心を無にして剣を振るっていた英俊の耳に、突然呼子の笛の音が響き渡った。討伐隊の防御陣形の内側から吹き鳴らされているようだった。
眼前の歩兵達は、その笛の音を聞いて少し表情を変える。その直後、討伐隊の軍楽隊から勇壮な曲が流れ始めた。
今度こそ歩兵の動きに変化が見えた。構築している円形防御陣が、その半径を少しづつ縮め始めたのだ。小さくなった防御陣。不要になった兵は、次々と陣形の後ろに姿を消していく。その為、防衛線は第三線が構築されて分厚くなったようだ。
だが、それは同時に大きな弱点も抱えることになる。防御陣が狭くなればどこかが破られた時、対応できる余裕はなくなってしまい、そのまま殲滅する可能性が高い。いや、現在の討伐隊のこの状況、デメリットの方が多い筈だった。
『慌てるな…奴らの狙いはここから脱出することだ…恐らく崖の左側に集中攻撃を仕掛けて脱出路の穴を穿つつもりだな…』
突然、”百人隊長”の声が響く。
『”百人隊長”…大丈夫か!?身体の…いや、精神の方は治ったのか?』
『だいぶ良くなった。もう問題はなかろう。お前に任せきりにして申し訳なかった』
『いや、それは大丈夫だけど…討伐隊は逃げ出すのか…騎乗している者が多いみたいだな。指揮官や騎士だけでも逃がそうって判断かな?』
英俊は討伐隊陣営から聞こえる馬の嘶きを耳にしながら、”百人隊長”に尋ねた。