防御線
右側面を守っていた歩兵隊が居なくなった大きく開けた視界。”狼”は、その先を鋭く見据える。
”狼”の視線が敵の重装歩兵どもを捉える。彼らは強固な鎧に身を纏い、更には全ての攻撃を跳ねのける大きな盾を持っている…だが、その盾を持つ手は全員が左手。奴らが右側面から攻撃を仕掛けようとする”狼”達に盾を使って対応するためには、身体を完全にこちら側に向けて正対しなくてはならない。
だが、それも迂闊には出来ない。なぜなら正面と右側面からはオークの前線主力が迫ってきているからだ。一糸乱れぬ隊形を見せていた甲虫達に、一瞬だが逡巡の色が見えた。
(虫ども…迷っている暇はないぞ…)
”狼”は仲間とともに重装歩兵に飛び掛かった。彼らは態勢を整えていない。慌ててこちらを振り向こうとした隙を突いて、”狼”は持っていた剣を奴の兜目掛けて振り抜いた。
念入りに曲面加工され、更には分厚い金属で作られた重装歩兵用の兜は”狼”の一撃を跳ね返した。だが強力な剣撃をまともに受け、敵はその衝撃で思わずよろめく。
(ここだっ!!)
”狼”は左手で剣を持ったまま、右の腰に下げていた細く鋭く尖らせた短剣を右手で引き抜くと奴の首筋を狙う。
よろめきざまのけぞり、思わず顎を上げた眼前の敵。兜と鎧の間に僅かな隙間が空く。だが柔らかい首筋は露出していない。兜から垂れ下がった細い鎖を編んだ帷子が、細い隙間を護っている。
”狼”は眼前の敵に飛びつき、その帷子に思いっきり短剣を突き立てた。恐ろしいまでの手応え。赤い血が迸る。全力で突き刺した短剣は鎖帷子を打ち抜き、奴の首筋に致命傷を与えた。
それはまさに狼の牙そのものだった。
”狼”は激しく痙攣する敵から短剣を抜こうとした。全力で突き立てられた短剣は、鎖帷子を巻き込んでいるのでなかなか抜けない。
(しまった…!)
”狼”は舌打ちしていったん後ろに下がろうとした。他の敵からの攻撃を恐れたのだ。だが、こちらに迫る敵の気配は無い。訝しみながら辺りの様子を窺う。
(そうか…正面の味方か!)
”熊と踊る”率いる正面主力…そこから分派したオーク達が、”狼”の支援として駆けつけてくれたのだ。敵はオークの増援とも戦わなくてはならず、”狼”を仕留める余裕なぞ無かったのだ。
(甲虫共の陣形…正面が割れてる…)
”狼”は気が付いた。オークの側面攻撃を受けて奴らの右半分は、こちらに対応しようと姿勢を変えている。だが一方で、左半分はオークの正面兵力と対峙している。結果として、無敵と思われた重装歩兵の正面に深刻な亀裂が走っていた。
こちらの応援に駆け付けたオークの分派隊。大部分は、”狼”率いる奇襲隊と合流して、右側からの側面攻撃を仕掛けているが、一部のオーク達は、開けられた敵陣の亀裂に無理やり侵入しはじめた。
成功すれば奴らを分断する大きな楔となるが、飲み込まれれば、あっという間に包囲されて全滅してしまうだろう。
強引とも思える、”亀裂”への攻撃。この攻撃を生かすも殺すも、”熊と踊る”率いる正面主力と、正面主力から別れて側面攻撃に参加している分派隊。
そして奇襲攻撃を行った、”狼”率いる別動隊だ。
(我々の攻撃如何で、彼らの運命が決まる…そして彼らの攻撃が失敗するならば…我らは、この”甲虫”どもを打ち倒すことを成し遂げることは出来ない…)
”狼”は深く息をすると、死体となった重装歩兵の首筋から短剣を引き抜いた。血に染まった短剣を振り払い腰の鞘に収めると、左手に持った剣を強く握りしめ、崩れ始めた敵陣営に躍りかかった。
◇
「抜かれるな!絶対に抜かれるな!」
ベーレンズ分隊長は大声で部下たちを叱咤しながら、自分の配下の兵に混じって、三班四班と共に戦いに参加していた。
一班と二班が、右から奇襲をかけてきたオークの小部隊を排除しようと攻撃を仕掛ける。その攻撃を邪魔しようと、崖伝いから側面攻撃を仕掛けるオーク達、それを阻止すべく、分隊の三班と四班が防御線を敷いて、一班、二班のところに行かせまいと奮闘していた。
だが、奴らの勢いは止まらない。こちらのリーダーであるケーア様を打ち倒した勢いそのままの猛攻を仕掛けてくる。
「お前ら!三班四班を援護する!いくぞっ!」
指揮を執るために少し離れた場所にいたベーレンズは、傍にいた従兵に声を掛けると、剣を握った右腕を真上に突き上げ三班四班の応援に走った。
必死でオークの攻撃を押しとどめる防御線。これが破られれば一班、二班は後方から襲撃を受けて苦境に陥る。
そしてそれは陣形が崩れ、混乱をきたしつつある重装歩兵隊の運命を決めることにもなる。三班四班の築いた薄く頼りなげな防御線が、重装歩兵隊の…いや討伐隊全体の命運を握っているといっても過言ではなかった。