逃走 2
右脚に力を入れると泥濘始めた大地を大きく蹴る。それを見た彼らも同時に同じように走り出す。ラハナーの想像通り、意志は完璧に通じていた。
「おいっ!オメーらっ!何やってるッ!!!!!」誰かの叫び声が聞こえた。ラハナーはその声を背中に受けながらも、その声は無視して前だけを見て走り続けた。
眼前に戦線の最前列が見える。薄くなったオークの戦線に合わせて歩兵の数もまばらだ。オークが攻めてこないのを見て、戦意を失った歩兵は敢えて攻撃を仕掛けず…つまり『お見合い』の状態だった。
ラハナーは手に持っていたハンマーピックを両手で持ち、それを高々と頭上に掲げた。万歳の姿勢だ。武器を捨てても良いが、これから逃げるためには、野生動物が徘徊する森や荒れ地を抜けなくてはいけない。だから武器は持っていたかった。
だから武器を頭上高く掲げて、オークに対して『攻撃の意志はない』とオークに向かって意思表示をして、戦線を抜けようとしたのだ。
対峙するオークらはしっかりと武器を構え持ち、警戒した様子でこちらを伺っている。筋肉隆々なオークども。武器を頭上に掲げているので、奴らが攻撃してきたらこちらはもう、防御も反撃も出来ない。
(頼むぞ!行かせてくれ!)
険しい顔をしたオークの姿が近づいて来る。(頼む頼むぞ!)ラハナーは必死だった。
その時だった、立ち塞がっていたオーク全員が素早く移動した。相変わらずを油断なく構えていたが、それはラハナー達を倒すためでなく、戦線の穴を抜ける際に敗走した兵が、”行きがけの駄賃”ならぬ”帰りがけの駄賃”でオークに一撃を加えてくるのを警戒するためのようだった。
(豚ども、心配するんじゃねぇよ。何もしねーよ。無傷で逃がしてくれるなら、お前らとは友達だ。なんなら抱き締めてキスしてやってもいいぜ)
予感が的中しつつあったため、ラハナーは少し浮ついた事を考えながら、戦線に大きく開いた穴を全力で走り抜けた。
オーク達は、かなり距離を取ってラハナー達を見送っている。それでも視界の端に緑色の肉体がチラチラ見えたときは、緊張で心臓が爆発しそうだった。
ラハナーは無我夢中で走り抜けた。…大丈夫。奴らは手出しをしなかった。あとは谷を抜けるだけだ。俺は生き残る。絶対に生きてやる!
極度の緊張が解け始めた。消え去っていた周りの様子や音が徐々に認識され始める。
背後から、複数の鋭い呼子の笛の音と、怒鳴り声、そしてラッパ手の吹き鳴らす、狂ったようなフレーズが聞こえて来るのに気が付いた。
そして、地鳴りのような足音。ラハナーは後ろを振り返る。ある確信めいた予感を持ちながら、そっと振り返る。
ラハナーに追従するように、数多の歩兵が武器を頭上に掲げながら、谷を抜けようと走っていた。もともと戦意が低下していた他の歩兵達は、ラハナー達が逃げ出したの見て、遂に完全に戦意喪失して、雪崩を打つかのようにオークとラハナーが作った”撤退口”を使って敗走したのだ。
(そうだよ。皆も同じ気持ちだったんだ。やってられないよな…今日一日、散々な目に遭った。一歩間違えたら家畜の豚みたいに殺されてたんだよ。俺たちは…)
ラハナーは懸命に足を動かし走った。谷の出口まではもう少しだ。
(戦いの女神アイギナのご加護?あのアバズレは何にもしてくれねーよ。俺たちが虫けらみたいに踏みつぶされ、殺されるのを見て楽しんでいるだけの性悪女なんだよ)
谷の出口は目前だ。
(だから、俺は…いや”俺達”は自分たちのやりたいようにやるよ。アイギナ…あんたの気まぐれに縋って生きるのはもう勘弁なんだよ)
ラハナーは全速力で谷を抜けた。眼の前には鬱蒼とした森が広がっている。ほんの少し前、意気揚々と通り抜けた『深淵の森』だ。
…森の中は深閑としていて、オークの伏兵がいる気配はない。
(助かった…助かったんだ…! このまま森を抜けて…ほとぼりが冷めるまでどこかで身を隠そう)
一般の兵…あけすけに言ってしまえば”雑兵”。その雑兵が戦いを放棄して逃走をしたところで、後日処罰されることなんてないのをラハナーは熟知していた。
何と言っても、元々、歩兵総隊は『闘う肉壁』として運用される事が常なのである。そう言った事から、そもそも士気が余り高くなく”何かあったら敗走、脱走するもんだ”と指揮官達は認識しているのを知っていた。
だから逃走する度に脱走者を処罰していたら、歩兵総隊はその数を維持できなくなる。ほとぼりが冷めるまで、どこかに隠れていていれば、そのうち帰隊命令の噂か知らせが流れてくる。それを聞いてから、”しれっとした表情”で城に戻れば、簡単な説教だけ喰らっておとがめなしだ。
(念のため、家に戻って隠れるのはやめておこう…デバイン川の上流の水車小屋の辺りは、めったに人が来ないので、あそこに行くか…。二~三日したら馬に乗った王国兵が帰隊を促すラッパを吹きながら、あの辺まで来るだろう。それを聞いてから城に戻るとするか)
ラハナーは、走る速度を少し落としながら考えた。本当は歩きたかったが、後ろから、多数の他の兵達が走って逃げているのである。急に歩いたら、後ろから突き倒されて踏み潰されてしまう可能性があった。
(木々の匂いと、雨を吸い込んだ土の匂い…はぁ、普段は気にしたことがないが何て良い匂いなんだ…匂いを楽しみ、雨に打たれる感覚を身体で感じれるのも、アイギナなんてアテにせず、自分自身で考えて行動を起こしたからだ。一瞬でも女神アイギナを信じ、縋ろうとした自分は馬鹿だった)
ラハナーは周りの兵が歩き始めたのを見て、走るのをやめた。殆どの兵が歩いていた。もう後ろから突き飛ばされる心配はなさそうだった。
(…そう、所詮、”男は頑固、女はきまぐれ”なんだ。アイギナは悪戯好きの猫みたいなもんだ。こちらを弄んで嘲笑ってる、小賢しい猫みたいなもんだ。ホント、舐めてるんだよ…ふざけんなよ。ブス)
ラハナーは谷での戦いの一部始終の怒りを、戦いの女神アイギナにぶつけ続けた。それでも怒りはなかなか収まらず、最後に思いっきり罵倒した。
(今日で分かったよ。嫌と言うほどわかった。アイギナ、オメーは”神”気取りで澄まして高いところからこちらを見下ろしてるけど…俺には分かったんだよ)
神なんていない。