第八話 牟羽可汗~中世の中洋~
「コラサン地方のトカラ人はバルクの近くに住み、長くマニ教守護の要衝をなしていた。マニ教徒の全権使節は、すでに八世紀に、ここからシナを越えてウィーグルの朝廷に使いし、その強力な王をマニ教に改宗させることに成功した」(ル・コック『中央アジア秘宝発掘記』)
紀元後八世紀、牟羽可汗は回鶻の可汗であった父の葛勒可汗が急逝したことにより即位した。
太子は兄の葉護太子だったが、彼は罪を得て殺されていたので、牟羽可汗が葛勒可汗の後を継いだのだ。
急に兄の代わりを任されたため、牟羽可汗には可汗となる心構えが出来ていなかった。
それでも、大燕皇帝である史朝義が牟羽可汗に援軍を要請してきた。
大燕は唐の節度使であった安禄山が挙兵して建国した国で、安禄山の盟友たる史思明の子が史朝義だった。
安禄山は子の安慶緒に暗殺され、安慶緒は史思明に殺害されたが、史思明も史朝義に殺された。
突厥とソグドの血をひく安禄山によって大燕は建国された。
背景には遊牧民の軍事力と「絹の道」での貿易による経済力があり、新しい王朝を開く条件は、十分に備わっていた。
ただし、支配を安定させるには回鶻を味方に取り込まなければならなかった。
突厥第二帝国として復興した突厥は、唐と対等に渡り合うが、大可汗の毘伽可汗が没した後は急速に衰え、それに替わって塞外で台頭したのが回鶻だった。
回鶻のウイグル人もアルタイ系の騎馬遊牧民やソグド人などの商人と緊密に結び付いていた。
そのような回鶻の可汗たる牟羽可汗に史朝義は唐を共に征服しないかと提案した。
経験の浅い牟羽可汗は国を傾けるのも厭わず、自ら大軍を率い、大燕に味方するために南下していった。
胡帽の下から蒼い瞳を覗かせた彼は馬を駆り、長い蒼髪と色鮮やかな装束を風に靡かせた。
黄色い肌をした牟羽可汗の体は筋肉質であって美しく、未熟さを補って余りある若さに満ち溢れていた。
唐も大燕を打倒するために回鶻へ援軍を要請したが、牟羽可汗はこれを無視した。
しかし、同行していた妻である可敦の僕固氏が両親に会いたいと言い出した。
僕固氏は唐に仕えるテュルク系の武将であった僕固懐恩の娘だった。
僕固懐恩は牟羽可汗のところに赴き、唐の側に付くよう娘婿に説いた。
牟羽可汗は年長者たる義父に説得され、一緒に大燕と戦い、史朝義を追い詰めて自殺させたが、唐の天子がいる長安には立ち寄らなかった。
飽く迄も妻の父である僕固懐恩に従っただけで、牟羽可汗としては唐に臣従したつもりなどなかった。
だが、洛陽で牟羽可汗はマニ教の僧侶と遭遇し、彼らに感銘を受けて本国へと連れ帰った。
マニ教はキリスト教を母体とする宗教で、教祖マニは宗教の坩堝であったメソポタミアで生まれ育ち、ゾロアスター教やユダヤ教からも学んでマニ教を創始した。
それゆえ、マニ教は伝道する地域で優勢な宗教の神話を換骨奪胎し、異教徒をマニの教義に引き込むという方法で布教していった。
牟羽可汗はマニ教に改宗し、それを国教化しようとした。
マニが豊かすぎる想像力で語った神話に魅了されたというのもあったが、既存の宗教と同化するマニ教の伝道にも彼は注目した。
マニ教はゾロアスター教やキリスト教ばかりか、大乗仏教とも結び付いて東西文化の交流にも多大の貢献をなしたので、東西貿易に支えられた回鶻と相通じるものがあった。
それに、ソグド人の政商や武将にもマニ教徒は少なくなかった。
牟羽可汗は唐などにもいる彼らの同胞から国際情報を集めて政治や経済、軍事などの決定を下していた。
僕固懐恩が起こした叛乱を助けた時もそうだった。
唐は僕固懐恩に謀叛の疑いを掛け、彼に叛旗を翻させたのだ。
牟羽可汗は成長の著しい吐蕃のチベット人とも手を結び、唐へ侵攻しようとした。
けれども、僕固懐恩が病死してしまうと、彼は吐蕃と袂を分かち、再び唐に付いて回鶻・吐蕃・唐という三つの帝国が鼎立することとなった。
唐へと侵攻する意志は捨てていなかったが、僕固懐恩の叛乱に与したのは、妻の父を助けるためだった。
まだ唐を打倒する好機ではないと牟羽可汗は判断しており、権力基盤を固めるため、マニ教徒のソグド人をますます優遇して彼らを枢要な地位に就けた。
ソグド人の商人は「絹の道」における貿易で利益を獲得してくれたし、彼らとマニ教の僧侶は情報を収集してもくれた。
そうして牟羽可汗は壮図を抱いた。
彼は唐を征服し、塞外と中土を統一する王朝を建国しようとした。
実父の葛勒可汗と義父の僕固懐恩が亡くなっても牟羽可汗は少年のように夢を追い続けていた。
ソグド人や遊牧民勢力の軍事力および経済力と情報網を駆使すれば、夢は叶うように思われた。
牟羽可汗の夢はマニ教によっても後押しされた。
マニ教は世界を悪しき勢力から解放するよう主張していた。
しかしながら、性急にマニ教へ傾斜する牟羽可汗には国内の保守層から根強い抵抗があった。
彼らは牟羽可汗が国を傾けてでも唐を打倒しようとするのを憂えていたし、ソグド人のマニ教徒が優遇されるのも面白くなかった。
また、マニ教の教義そのものも国を危うくするように思われた。
この世を悪しき闇の世界とするマニ教は、現世の権力を否定する革命の論理に転化しかねなかった。
そうした懸念を無視し、牟羽可汗は従父兄の頓莫賀達干を太原地方へと侵入させ、国を挙げて南下しようとしたが、頓莫賀達干は牟羽可汗に叛いて彼とその与党および側近であるソグド人を大量に殺害した。
マニ教は牟羽可汗に代わって即位した頓莫賀達干から迫害され、それが終わるのは王統がヤグラカル氏からエディズ氏に替わるのを待たなければならなかった。
牟羽可汗も属したヤグラカル氏が断絶し、宰相の骨咄禄将軍であったエディズ氏の懐信可汗が国人に推される形を取って即位すると、マニ教は本格的に国教化された。
ソグド人のマニ教徒は牟羽可汗の時代にも増して優遇された。
「牟羽可汗マニ教改宗始末記」が歓喜の内に作られた。
もっとも、やはりマニ教は革命の宗教だったのか体制化してからは振るわず、国教の座から滑り落ち、明教という反政府の秘密結社と化して江南で生き残った。
西方でもキリスト教の教会および王権に服さない人々がマニ教徒とされていた。
なお、キルギス人に回鶻を撃破されて西走したウイグル人は、高昌に本拠を構えて天山ウイグル王国を建国し、その君主はマニ教に由来する亦都護の称号を名乗った。