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第七話 武則天~中世の東洋~

「わたくしは、年若くして陛下と夫婦のちぎりを結び、いらい今日まで、下にもおかぬ扱いで、こまやかな愛情をたまわってまいりました」(呉競『貞観政要』)

 紀元後七世紀、唐の皇太后であった武則天は皇族を差し置き、国号を周と改め、自ら帝位に上がって皇帝となった。

 もっとも、武則天の母である楊夫人は隋の帝室に連なっていた。

 隋唐は漢の滅亡による混迷を最終的に収拾した王朝で、どちらも拓跋国家の流れを汲んでいた。


 漢は前漢が王莽によって倒され、彼が建国した新を光武帝が滅ぼしたことで後漢として再興されるが、曹操の魏と孫権の呉、劉備の蜀に分裂した。

 その三国が鼎立した三国時代は、司馬懿の一族による西晋が終止符を打つも匈奴に滅ぼされ、江南で東晋として再興したけれども王威は振るわず、王朝が相次いで建った。

 華北では胡人が侵入し、匈奴・羯・鮮卑・氐・羌の五胡と漢人が入り混じる十六の諸国が興亡した。


 その中から鮮卑の拓跋氏を皇帝に戴いた王朝が建てられ、江南における漢人の王朝が南朝と呼ばれたのに対し、北朝と称されて南北朝時代の幕が開いた。

 拓跋氏の国家たる北朝は関隴集団という軍閥に支えられていた。

 関隴集団は胡人の貴族が漢人の豪族と手を結んだ集団で、武川鎮という辺境軍に起源があった。


 隋を開いた楊堅も、唐を開いた李淵も関隴集団の出身で、彼らは塞外で新たに台頭した柔然や突厥を打倒するため、中土を統一して後顧の憂いを取り除いた。

 武則天の父である武士?は木材業で富を築き、楊堅の子たる煬帝に対する李淵の挙兵へ参加していた。

 唐の建国には商業民族であったソグド人の郷兵も協力した。


 財産家の父から武則天は高度な教育を与えられたけれども彼が死去すると、母や妹たちともども父方の実家に引き取られた。

 そこには亡き先妻の息子たちがおり、良家の子女たる楊夫人や武則天は叩き上げである彼らに蔑まれて虐げられた。

 楊夫人は誇り高さによって耐えたが、武則天は母から誇りを受け継ぎつつ、実際的な異母兄たちをも見習った。


 彼女は自身の現実に際しての感覚だけを信じるようになった。

 それは武則天が関隴集団の縁故で後宮に出仕した時に役立った。

 李淵の息子たる李世民は実際家の武則天を秘書に採用し、武則天は後に呉競『貞観政要』にまとめられる李世民の言行と直に接した。


 おかげで彼女は唐の帝室と繋がりを持てた。

 李世民の子である李治は武則天の美貌に籠絡された。

 武則天は唐装の上からでも両胸が形良く張っていると分かり、丸く盛り上がって弾力がある腰は、好く熟れた椰子の実のようで、真珠色の肌には些かも弛みがなく、髪は蒼く輝いて瞳は漆を塗ったように艶やかな黒色だった。


 李治に寵愛されたゆえ、李世民が崩御して武則天は喪に服すために尼にさせられたが、直ぐ宮中へ呼び戻されて皇后となった。

 彼女は愛顧を確実なものにするため、李治の后たちを陥れた。

 そうして李治が健康を害すると、代わりに政務へ口を出し、実権を握るようになった。


 李治は坊ちゃんであって世話を焼く甲斐があり、武則天もそれなりに愛着を抱いてはいた。

 しかし、彼との間に儲けた子らはいずれも凡庸で、武則天は己の地位を保つためには自力に頼らざるを得なかった。

 そこで、彼女は唐が拓跋国家であることに着目した。


 李世民は東突厥と西突厥に分裂していた突厥第一帝国を打倒し、塞外の諸君長である可汗たちから天可汗という尊称を奉られた。

 そうして彼は小可汗たちの上に立つ大可汗となったのだが、武則天はその尊号を皇后にも適用して天后を自称し、皇帝の単なる伴侶ではなくて天子として同格であることを示した。

 彼女は李治が崩じると、子供たちを皇帝の位に即けては廃し、彼らに代わって政令を行った。


 それには皇族や関隴集団が兵を挙げたが、武則天は彼らを武力で打倒し、武氏を帝室とする周が開かれ、洛陽が都となった。

 その武周における天子となった彼女は、新興の官僚たちに支えられていた。

 武氏は関隴集団の傍流に位置し、不遇であるという点で官僚たちと同じだった。


 拓跋国家は塞外の遊牧国家が律令国家と融合し、中土に浸透した浸透王朝で、人口の多い漢人を統治するため、漢の官学であった儒学を取り入れた。

 隋唐も実際の政治や経済を重視する儒学に基づき、官僚を登用するための試験である科挙を実施した。

 科挙は胡人と縁故のない漢人の中から人材を発掘するのが目的だったので、身分や民族を問わず、実力主義の民主的な試験制度だった。


 ただし、科挙で採用された新興の官僚たちは、関隴集団の貴族たちからは下っ端の役人として冷遇された。

 武則天は官僚たちを厚遇し、熱意と実務能力のある彼らに貴族たちを排斥させ、悪辣な策略や残酷な弾圧も用いて政権の強化に努めた。

 科挙で登用された文官は、自由人たる士の精神を受け継いで士人と呼ばれ、人民の声となり、必要があれば皇帝を批判した。


 そうした士人たちの批判に武則天はしっかり耳を傾けた。彼らを抜擢した己の目に自信があったからだ。宗教面でも自身の信仰心を満足させた大乗仏教を保護した。


 大乗仏教はインドの仏教がイラン文化の影響などにより変容したもので、クシャーナ朝において成立した。

 クシャーナ朝はインドの北西部を支配したイラン系民族の王朝で、東西貿易の東西文明の融合に大きな役割を果たし、カニシカ一世の治世に最盛期を迎えた。

 その時期に栄えた大乗仏教は、胡人の宗教として中土にも伝えられた。


 そのような大乗仏教を保護し、新興の階層を科挙で官界へ大量に進出させ、則天文字を作るなど各方面に新気運をもたらした武則天は、胡人や漢人の融合した唐人が生み出されるのを促進した。

 だが、自分の直感に忠実な彼女は狄仁傑のような名臣の諫言を聞き入れる反面、感性が衰えぬよう刺激を求め、巨根の妖僧である薛懐義らと醜聞を残した。

 武則天を非難する者は少なくなかったが、煬帝が長江と黄河を大運河で繋いで南北を結び付けていたこともあり、経済が活性化して民間における政治への不満はそれほど高まっていなかった。


 けれども、やはり寄る年波には勝てず、老いるに連れて武則天は判断を誤るようになっていき、重い病にも罹った。

 そのせいで政敵が挙兵しても討伐できず、病床で退位を迫られ、幽閉の身となった。

 唐の国号が復活され、その帝室が再び位に即き、都も長安に戻された。


 それから間もなくして武則天は病没した。

 遺体は彼女が営建した長安の陵墓に李治と合葬された。

 それ以後、中華の帝国で女帝が出現することは二度となかった。


この時代を題材とした映像作品には『則天武后』、『武則天 秘史』、『則天武后 美しき謀りの妃』、『謀りの後宮』、『武則天 The Empress』があります。

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