第六話 王昭君~古代の東洋~
「漢は匈奴と兄弟の約束をし、辺境を侵害することのないようにした。だから漢は匈奴に物資を輸送することはなはだ厚いのである」(司馬遷『史記』)
紀元前一世紀、紀元前一世紀、前漢の宮女である王昭君は早くに父と母を亡くし、父方の祖父によって育てられた。
地主であった祖父は次男が帝都の長安(西安)で官職を得ると、長男の一人娘である王昭君を連れ、よく旅に出た。
司馬遷の『史記』を愛読していた彼は、隠居してからは在野の歴史家となっていた。
史家たる司馬遷は中土を旅したり市場の偶語に取材したりし、歴史書である『史記』の遺稿を娘に託した。
祖父はそれに倣って旅をし、偶語への取材にも王昭君を同行させた。
偶語は人民の集まる市などにおいて公演される娯楽で、二人の倡優が一組となり、対話や舞踊によって劇を演じたり議論を進行させたりした。
倡優は神話や口碑、音曲、歌舞などの保持者であって重要な情報源と言えた。
そうした倡優や古老に尋ねたり遺跡を探ったりするため、祖父は長旅を厭わなかった。
漢人は女性も馬に乗ったり武器を携帯したりすることがあったので、旅に同行する王昭君は、歴史学などの学問だけではなく、乗馬や護身術も学んだ。
彼女はきりりとした象牙色の顔と蒼い眼の美しい娘で、乳房も量感を蓄えてふっくらと丸く、男たちからよく言い寄られ、警戒心から無愛想となり、艶やかな蒼髪も目の粗い布で束ねているだけだったが、それが却って彼女に独特な魅力を与えた。
服も馬に乗りやすい筒袖とズボンの胡服にゆったりした漢装を羽織り、腰に帯を締めていた。
胡は前漢の西方と北方を指し、胡人は馬に乗って交易や遊牧に従事した。
暫くして祖父が亡くなると、王昭君は長安にいる父方の叔父に引き取られ、毎日のように市場へ出掛けた。
市は商品を売買する地区であると同時に人民の遊び場で、万人が平等に議論できた。
そこではかつて輿論が具現し、政治運動の震源地になることもあった。
春秋戦国の領域国家が形成されたり秦漢の世界帝国が出現したりする以前、中土は都市国家が割拠し、殷周も都市の連合でしかなかった。
都市国家の主体は完全な市民権を有する自由民としての士で、その字に一を添えた王は、市民の第一人者に過ぎなかった。
しかし、王公の下で領土が統一されていき、遂に皇帝が中土の大統一を完成させると、強大な君主権に圧倒され、都市国家は政治的な生命を失っていった。
それでも、人民の間で自由人の自覚は残り、春秋戦国では諸子百家の自由な思索が行われ、秦漢でも諸学派が学説を発展させた。
司馬遷も市場で語り伝えられていた民衆文学を『史記』に記録し、鼻っ柱が強くて逞しい自由人の姿を描いた。
祖父に感化された王昭君も、写本屋で見本を立ち読みするなどして勉強し、市での談論にも耳を傾けた。
王昭君は祖父の遺業を継ぐことが自分を育ててくれた彼に対する恩返しであると考えていたが、叔父は史学に熱心ではなく、その事業を支援する気はなかったので、結婚と宮仕えのどちらかをするよう彼女に求めた。
世間が求めるような良妻になれるとは思わなかったため、王昭君は独身であっても生きていけるであろう宮仕えを選んだ。
宮中には希望があった。
大河が流れて地味が肥沃な中土は君主政が発達するのに向いていたが、個人を海上交易で富ませるに足るほどの内海はなく、市が学校となったりそこで民主政が行われたりはしなかった。
そうであるがゆえに制度的な保障がない人民は発達した君主権を前にして自由人たる誇りと自覚を失い、市場も社交場から単なる営利の場に転落しつつあった。
それに対して宮廷では盛大な社交界が成立していた。
中土を一つにまとめた秦の始皇帝は、統一を安定させるため、地方ごとにまちまちであった文字や貨幣、度量衡などを一種類に決め、それを厳格な規律で守らせようと図った。
けれども、余りにも厳しすぎて秦は直ぐに滅びたので、その反省から前漢は罰するだけでなくて教令によって教え諭すこともし、硬軟織り交ぜた律令国家の原型が創始された。
そこで人民の教化を担ったのが儒教だった。
儒教の祖である孔子は都市国家の信条たる市民の自由を仁と呼んで重んじ、それと君主政の調和を実現させようと試みた。
前漢はそのような儒教を利用し、皇帝の臣民であるという態度を市民に植え付けようとした。
武帝もそうした観点から儒学者である董仲舒に儒教の正統な教学を定めさせたのだが、王昭君が宮仕えしようとしていた元帝は、儒学を統治の道具ではなく、純粋に好んで父帝から廃嫡を検討されるほどだった。
また、倡優は王侯の宮廷でも幇間的な存在として酒宴の興を助け、辛辣な比喩や軽口で君主の過失を正す知恵者もいた。
王昭君は祖父に影響されて『史記』や偶語を愛好していたので、孔子の理想が元帝の宮廷にて実現されつつあることを期待し、宮殿の門をくぐった。
ところが、彼女は宮廷に失望させられた。
確かに宮中の社交界は市の社交場に比べて洗練され、その盛大なことには歴然たる差があったが、結局、元帝が好んだ儒教は、帝政に合うよう解釈されたもので、王昭君の理解とは異なっていた。
王昭君が鬱々としていると、匈奴から呼韓邪単于が来朝した。
北方の遊牧民族である匈奴は遊牧国家を創始し、前漢から自国に匹敵すると見なされていた。
遊牧民が農耕民族や商業路も支配した遊牧国家は、圧倒的な破壊力の騎馬軍団を効果的に運用し、匈奴は冒頓単于が劉邦を破って前漢に絹や織物、酒、米などを年ごとに貢がせた。
もっとも、遊牧は生産力の発展に限度があり、遊牧民族が単一の大きな集団にまとまることはなく、遊牧国家は部族の連合体であって内輪揉めが頻発した。
匈奴も呼韓邪単于の代には東匈奴と西匈奴に分裂し、皇帝たる単于への即位にも前漢を頼らなければならなかった。
前漢は武帝が武将の衛青や霍去病、外交家の張騫や蘇武を起用し、戦争や外交で劣勢を覆したが、それにより国力を疲弊させていた。
そこで、元帝は漢人の女性を呼韓邪単于に嫁がせ、単于の妻たる閼氏とし、前漢に有利な形で匈奴との結び付きを強めようと考えた。
その意気込みは国境の安寧を祈願して元号を竟寧と改めるほどだった。
呼韓邪単于も前漢との繋がりが匈奴の安定に寄与すると判断し、何人もいる閼氏の一人に漢人を迎えることを諾った。
女性は宮女から選ぶこととなり、鬱屈していた王昭君は、その話に飛び付いた。
宦官である中行説や武将の李陵のごとく匈奴に降って活躍した漢人もおり、民族の違いなどに縛られない塞外には自由が残っていると思えたからだ。
文明が華開いた中土を去りたい宮女など王昭君くらいしかおらず、彼女は閼氏に選ばれ、北の国境を塞ぐ「万里の長城」の外に旅立った。
この時代を題材とした映像作品には『王妃 王昭君』と『クィーンズ 長安、後宮の乱』があります。