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第五話 アショーカ王~古代の南洋~

「共同体の獲得は、軍隊や友邦の獲得のうちで最高である。というのは、共同体は緊密に団結しているから、敵にとっては難攻である。彼等のうちの友好的なものを、懐柔策や贈与策によって支配下に置き、非友好的なものを、離間策と武力とによって」(カウティリヤ『実利論』)

 紀元前三世紀、マガダ国の皇子アショーカは父帝ビンドゥサーラが病に倒れて崩御すると、帝都であるパータリプトラ(パトナ)市に軍を進め、皇太子であった長兄スシーマを弑逆し、自身が即位するのに邪魔となりそうな異母兄弟たちを殺した。

 アショーカは父親や兄弟たちに愛情を抱いていなかった。

 ビンドゥサーラは数多くいる子供たちの中でアショーカだけを疎んじた。


 アショーカの生母ダンマーはビンドゥサーラと異なる種姓に属していた。

 種姓が異なる者との通婚は忌避されており、ビンドゥサーラはダンマーと種姓の異なるのをアショーカが生まれてから知った。

 しかし、それだけならビンドゥサーラもアショーカを疎んじはしなかった。


 種姓制度はインド亜大陸に侵入したアーリア人が先住民であるドラヴィダ人を征服したことで成立した。

 ドラヴィダ人はインダス川の流域でメソポタミアと交易し、通商しやすいよう職業ごとに集団を緩く形作っていた。

 その職業集団を利用し、アーリア人はそれに貴賤や浄穢の観念を付け加え、ドラヴィダ人を穢れた賤民として隔離した。


 ドラヴィダ人は免疫があった病気にアーリア人が次々と感染したからだ。

 もっとも、ドラヴィダ人の職業集団と同じくアーリア人の種姓制度も緩く、両者が結婚することもあった。

 種姓制度を宗教的に正当化して君主たちから庇護されたバラモン教も、アーリア人やドラヴィダ人の思想を融合させ、その教えを理論的に深めたウパニシャッド哲学は、氏より育ちを重んじた。


 自由思想家である沙門たちに至ってはバラモン教の司祭者たる婆羅門たちを批判し、種姓制度を無視した。

 ガンジス川の流域では農業の生産性が急上昇し、都市では盛んに取り引きがなされて都市国家が栄え、それによって台頭した商人たちが自由な経済に相応しい新たな思想を求めた。

 仏教のガウタマやジャイナ教のヴァルダマーナ、アージーヴィカ教のマッカリ・ゴーサーラら沙門は商取引の妨げにもなる種姓制度を否定した。


 そのような思想が持て囃された都市国家では市民の集会や討論会、議会などが開かれて自治的な統治が行われた。

 だが、市場の拡大はそれを管理する組織も発達させ、中央集権的な君主国が出現した。

 安定した秩序のために最高の行政職を世襲した君主たちは、特権の保証をちらつかせて市民を懐柔し、その自治を破壊していった。


 そうして君主国は幾つもの都市国家を支配下に置いた。

 マガダ国もそのような君主国の一つで、皇帝チャンドラグプタがナンダ朝からマウリヤ朝へと王朝を交替させるのに貢献した宰相カウティリヤは、『実利論』で都市国家の共和制を君主制に取り込み、一種の立憲政治へと止揚した。

 皇帝は大官との会議によって国家の意思を決定し、国内に人道的な政策を施さねばならなかった。


 チャンドラグプタはそういった事情からジャイナ教に帰依した。

 その息子であるビンドゥサーラもアージーヴィカ教に帰依したので、種姓制度を盲信してはいなかった。

 けれども、アショーカは醜男であってビンドゥサーラはそれを嫌悪し、その感情を種姓制度によって正当化した。


 アショーカは褐色の肌をした偉丈夫で、その眉や瞳は黒くて大きく、厳つい強面は醜かった。

 丈が長くて華やかな色合いの衣を引っ掛けていたが、顔から受ける印象は和らげられなかった。

 ビンドゥサーラはアショーカを可愛がらなかっただけではなく、危険な任務にばかり当たらせた。


 タキシラ市で叛乱が起きた時は、寡兵で鎮圧するよう命じた。

 アショーカは私財を投げ打って現地の無頼漢たちを傭兵として雇い、略奪などを許可することで叛乱の鎮圧に成功した。

 ビンドゥサーラはアショーカが生還したことに機嫌を損ね、無頼漢の傭兵たちによる略奪を認めたことなどを叱責し、ウッジャイン市で起きた叛乱をまたもや不利な条件で鎮圧するよう命じた。


 再び奸智を巡らしてアショーカは鎮圧に成功したが、傷を負ってしまい、たまたま出会った商家の娘デーヴィーに手当てされた。

 死にかけていた彼はデーヴィーに感謝し、結婚してくれるよう求めた。

 生涯で唯一アショーカが愛情を示したことにデーヴィーも感じるものがあったのか、彼女は彼を受け入れ、マヒンダとサンガミトラーの兄妹を出産した。


 帝座を獲得したアショーカは、簒奪の混乱で即位式を挙げられなかったが、それ故に彼を軽視する官吏たちを処刑し、今後は決して見下されることのないよう領土の拡大に乗り出して権威の確立に努めた。

 アショーカは容赦なく戦争を進め、彼の軍が通った土地は、劫火に焼かれて草木が一本も残らないと恐れられた。

 特にカリンガ王国の征服は凄惨を極め、カリンガは血と炎で赤く染まり、そこの兵士および人民は大量に殺害されたり捕虜として他の地方へ移送されたりした。


 そして、アショーカはインドで史上最大の帝国を建設したが、武力による征服が限界に達していることを悟った。

 そこで、彼は宗教の力で人民を支配しようと試み、宮廷で洗練された文化を輸出して諸外国に影響力を及ぼそうと図った。

 皇帝としてチャンドラグプタがジャイナ教に、ビンドゥサーラがアージーヴィカ教に帰依していたので、アショーカは仏教を支配の道具に選んだ。


 彼は戦場での殺戮を後悔して仏教に帰依した体を装い、来世に思いを馳せて現世の権力に逆らわぬよう人民に勧め、動物の殺生が必要なバラモン教の供犠を制限することなどで婆羅門を牽制した。

 帝国各地でアショーカによる法勅の碑文が銘刻され、伝道師が法を普及させて監督し、国外にも使臣が派遣されてマウリヤ帝国の制度を受容させようとした。

 マヒンダおよびサンガミトラーも仏教徒となってセイロン島に派遣された。


 アショーカは俗世の理想的な君主である転輪聖王として仏教徒たちに讃えられたが、やはりその覇業には無理があり、晩年は幽閉されてタキシラで没した。

 彼が亡くなった後、マウリヤ朝は分裂して縮小した。

 それでも、アショーカの路線は後世の諸王朝にも引き継がれていった。


 グプタ朝もそうした王朝の一つだった。

 チャンドラグプタ二世の時代に最盛期を迎えたグプタ朝ではインド亜大陸の文化も栄えた。

 爛熟したインド文化は印僑により黄金州(東南アジア)へも伝えられた。


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