第二十五話 明治天皇~近代の東洋~
「日本の場合は中国式に君主の即位を起点としている。君主が年号を制定し、その存命中はその年号が使われる。君主が亡くなると年号も変わり、その起点も変更される。たとえば、現在は、ミカドの治世であるので、年号は「明治」のミカドの即位の日を起点としている」(イブラヒム『ジャポンヤ』)
紀元後十九世紀後半、孝明天皇が突然に病死し、実子の明治天皇が京都で践祚した。
明治天皇はまだ元服を済ませていない少年で、体は華奢であって蒼い艶やかな髪は耳が隠れるほど伸ばされており、卵形の相貌を縁取っていた。
その面差しは凜として美しく、皮膚は淡褐色であって黒目がちの眼は青く翳りを帯び、鼻梁は秀でて朱い唇も端整だった。
もっとも、天皇が名目的に君臨していた当時の日本国は、雅であるだけでは乗り切れぬ状況にあった。
国内外の植民地を収奪して産業革命を起こした欧米の列強は、日本にも姿を現し、その経済力や軍事力で従属させようとしていた。
日本国を実質的に統治する江戸幕府も、そうした列強の帝国主義に抵抗できなかった。
幕府と共に幕藩体制を構成していた諸藩は、それに対して封建議会における公議輿論で一丸となり、封建商社による富国強兵で経済力および軍事力を増そうとした。
しかし、江戸幕府との政治闘争や公卿および藩主の保守性などが相俟って各藩の武士たちは旧制度を破壊するような革命を強行するに至り、封建制度や身分制度を超越する普遍権威としての天皇を希求した。
維新を志す彼らは復古を説き、極限まで古に戻ることで却って自由な創業の原理に到達した。
それゆえ、天皇も新時代に相応しくあろうとさせ、東京と改められた江戸が都になり、侍従は基本的に武士で固められた。
後の陸軍元帥である西郷隆盛は硬骨漢の青年たちを送り込み、それまで女官に囲まれていた明治天皇は、初めて接するそれらの人々から大きな影響を受けた。
ただし、明治天皇に最も感化を及ぼしたのは当の西郷隆盛だった。
厳格に躾けられてきたので、明治天皇は褒められることに飢えており、天皇に大きく期待していた西郷隆盛は、承認されたいという少年の欲求を満たした。
孤独に震えながら認められたがっていた彼は、西郷隆盛の逞しい二の腕に守られることを夢想し、その腕が支えたいと思う存在でありたいと願った。
そうして明治天皇は洋服の軍装に袖を通し、洋学などを教わって乗馬も覚え、西郷隆盛が期待する大元帥として振る舞った。
だが、江戸幕府が打倒されて明治政府が樹立されると、明治天皇と西郷隆盛に別れが訪れた。
富国強兵や公議輿論といった複数の国家目標を追求するため、明治政府は複数個の派閥が合従連衡を繰り返して殖産興業や中央集権を実現していった。
ところが、革命が終わりの段階に入ると、革命軍の処遇が大問題となった。
内戦が終結して海外雄飛も内地優先によって否定され、自己の存在意義を確認できなくなった革命軍は、西郷隆盛に私製の軍隊を率いてもらい、革命の継続を求めて反乱を起こした。
政府は天皇を引き出し、西郷隆盛に対抗しようとしたが、明治天皇はそれに反抗した。
それでも、官軍が勝利して西郷隆盛は自刃し、革命軍の戦争熱は冷まされていった。
西郷隆盛が死ぬ前日、夜の空に赤々と火星が輝いて西郷星と渾名された。
それを見た明治天皇は、火星が西洋では軍神の星であることを思った。
彼は奥に閉じ籠もりながらも賊軍を追悼する歌会を行い、必死に涙を堪え、唇を噛んで立った。
そうして明治天皇は侍補である元田永孚たちから孔子らの言行録たる『論語』の講義などをしてもらい、儒教の理念に基づく親政に意欲を示した。
日本は朝鮮やベトナムと同じく中華帝国の律令制に倣って国家が形成され、志士たちも欧米の思想を儒教の概念で読み替えて受容した。
西郷隆盛も大元帥である天皇に儒教的な聖王を仮託し、そのような君主に明治天皇はなろうとした。
けれども、民撰議会の開設や欽定憲法の制定を推進しようとしていた明治政府は、明治天皇の親政に反対した。
幕藩体制でも村などで入れ札や寄り合いがなされていたが、政府は議会や憲法によってそうした草の根の民主主義をも再編し、民衆を国民として国家のために安定して動員できるようにしようと考えていた。
ヨーロッパでも国民が動員され、サルディーニャ王国はオーストリア帝国に勝利してイタリアを統一し、プロイセン王国はフランス帝国に勝利してドイツを統一した。
民衆を国民化して動員する国民国家は、共有文化に基づく民族意識に依拠したので、天皇には国民を統合する象徴としての役割が期待された。
そうであるがゆえに天皇が活発に動き、革命軍が目指したような永久革命が起きれば秩序が失われ、国家すら解体してしまいかねなかった。
革命を指導した伊藤博文ら元勲たちは、天皇を立憲政体の枠内に収めようとし、侍補の廃止などを行った。
再び挫折を味わった明治天皇は、皇室制度により規定されることを受け入れ、大日本帝国の皇帝となった。
ただし、革命の象徴であった天皇は親征や巡幸などによって民衆の中に入り込んでもいったので、法や機構に正統性を与える天子として彼らの間に浸透し、権威を確立しつつもあった。
それは軍隊や教育で機能し、天皇の一視同仁によって同胞は平等に自由であるとされ、国民軍の創出などに寄与した。
明治天皇は天皇の軍隊たる日本軍が大演習をする時には必ず親臨し、軍服を身にまとって西郷隆盛のことを思い出した。
大清帝国やロシア帝国と戦争することになった時も、彼は軍服をまとい、西郷隆盛と共にあるような心で強大な敵に立ち向かった。
十分に支配できていない土地があると、そこを欧米に奪われかねなかったので、日本も国家の主権が及ぶ地域を確定させようとしたのだが、その範囲を巡り、清やロシアと衝突したのだ。
皇軍は清軍やロシア軍に勝ち、大日本帝国は列強の仲間入りを果たしたが、目標を達成した日本の社会は、次第に行き詰まっていった。
元田永孚のように個人的な支えとなる者が死んでいき、孤独であった明治天皇も不治の病に罹った。
深刻化する社会の不安に伴うがごとく明治天皇は衰えていった。
そして、異常に暑い夏の日、夕食中に倒れて崩御した。
大喪では出棺と同時刻に陸軍大将たる乃木希典が割腹して自決し、妻の静子もその後を追った。
民衆は乃木希典の殉死で明治天皇の存在を改めて意識し、その時代を捉え返そうとした。
元号が革命により天皇の肉体と結び付けられ、改元はその生死が原理となり、明治天皇は時代を象徴する存在と化していた。
明治の元号を冠された時代は好むと好まざるとに拘わらず、大いなる飛躍があった。
それ故に明治天皇も大帝と呼ばれたが、幼冲の天子であった彼は革命の父である西郷隆盛の愛し子で、国民は天皇の背後に大西郷を見ていた。
この時代を題材とした映像作品には『二百三高地』・『明治天皇宇宙の旅』・『ラストサムライ』があります。




