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第二十四話 ブラヴァツキー夫人~偽史の泰西~

「古代ギリシャやローマの一つの山、一本の川、一柱の神といえども、古代あるいは現代インドにその原型をもたぬものはないのです」(ブラヴァツキー『インド幻想紀行』)

 紀元後十九世紀中葉、帝政ロシアの貴夫人であるブラヴァツキー夫人は夫のブラヴァツキー将軍と別れ、世界一周の旅に出た。

 それは結婚してから数ヶ月後のことだった。

 ブラヴァツキー夫人は結婚というものに好い加減なところがあった。


 彼女はロシア帝国の皇統たるロマノフ朝よりも古いリューリク朝の流れを母方から汲んでいた。

 気位の高さがなせたのか、ブラヴァツキー夫人の母ヘレナ・ファディエフおよび祖母ヘレナ・ドルゴルキーは著述家として優れた業績を残し、新しい女性の生き方を追求した。

 それに影響を受け、ブラヴァツキー夫人も少女時代からお転婆で、一切の権威や秩序に反抗した。


 それでも、妹ヴェラが名のある作家へ成長したようにブラヴァツキー夫人は理解力や独創的な着想、言葉と音楽の才能などで教師や女家庭教師をしばしば驚かした。

 夫ピョートル・フォン・ハーンと別居したヘレナ・ファディエフは、子供たちと一緒に両親の下に戻った。

 ヘレナ・ファディエフが死んだ後は、子供たちはヘレナ・ドルゴルキーに育てられた。


 五ヶ国語を自由に話すヘレナ・ドルゴルキーは博物誌や考古学、子浅学に関する本を幾つも書き、施設の博物館を持っていた。

 母方の祖父であるドルゴルコフ王も錬金術や神秘学の文献を集めており、ブラヴァツキー夫人はそれらを熱心に読み漁って中近東や極東にも関心を示した。

 また、ヨーロッパとアジアの間に位置するロシア帝国は、東方を後進的であって帝国が征服する場としてのみ有用であると考えるだけではなく、東をより好意的な眼で見ることもあった。


 多くのロシア人が自らのアジア的な遺産に自覚的で、ブラヴァツキー夫人もその潮流に感化された。

 イスタンブール市から初めてアナトリアやギリシア、エジプトなどを遍歴してフランス共和国を経由してからロンドン市に落ち着いた。

 しかし、ブラヴァツキー夫人の情熱的な心を浮き立たせるものは何もなく、彼女は絶望して自殺しようとさえしたが、ロンドンの往来でインド人の一行を見掛けた。


 翌日にその人たちと偶然にも話をする機会に恵まれたブラヴァツキー夫人は、彼らからインドへ行くように勧められた。

 これこそ天啓であると確信し、彼女は旅を続けることにした。

 危険な場所では女性であるのを隠した。


 ブラヴァツキー夫人は男の目を惹き付けた。

 彼女は色白であって上背がないけれども乳房が大きく、ほっそりした体型をしており、魅力的な美貌の持ち主だった。

 瞳は蒼玉に好く似た色で、蒼っぽい長髪は束ねられてあった。


 再び旅に出たブラヴァツキー夫人は、カナダではインディアンの下で過ごし、アメリカ合衆国ではモルモン教やブードゥー教を訪ね、アメリカから南洋へ向かった。

 彼女はセイロン島とインド亜大陸に行ってチベットへの潜入を試みるも失敗した。

 その後はシンガポール市やジャワ島を取ってロンドン市に戻った。


 それからまた北アメリカに渡ってメキシコ合衆国まで遍歴し、太平洋を横断して東洋に赴いた。

 日本国では修験道に興味を持ち、再びインドに行って遂にチベットへ入ることを果たした。

 ヨーロッパに戻ってからはフランス帝国とドイツを旅行し、ロシアの土も踏んだ。


 当時のヨーロッパでは啓蒙思想による宗教批判が社会ダーウィニズムやマルクス主義に裏打ちされ、宗教が古臭いと冷笑されており、過去の叡智を尊ぶブラヴァツキー夫人にはそれが許せなかった。

 ブラヴァツキー夫人は秘教の使徒として古代史を解明すべくコーカサスに旅立ち、サカルトヴェロに滞在して魔術師たちの下で暮らした。

 そうして彼女は神秘学者となり、神秘学の研究に科学的かつ哲学的な基礎を置くことに努め、頭から足まで真っ黒な法衣をまとった。


 それからのブラヴァツキー夫人は秘密結社カルボナリの英雄ガリバルディの遊撃戦に従軍して重傷を負い、アドリア海の島にて魔女に出会ってレバノンではイスラム教の托鉢僧と共に過ごした。

 チベットで修行してからはスエズ運河を通り、途中で船の爆発に遭遇するもギリシアからエジプトへ行った。

 カイロ市では心霊教会を立ち上げたが、ある革命家の生命を救うために働き、騒動に巻き込まれて祖国に戻った。


 そして、パリ市における短期間の滞在を経て彼女はニューヨーク市へ向かい、霊感に駆られて著述に没頭した。

 著作を完成させることが出来ると、ブラヴァツキー夫人は再び組織の立ち上げに全力を傾けた。

 奴隷解放の闘士オルコットや弁護士ジャッジがブラヴァツキー夫人の協力者となった。


 九未知会とすら関わったとも伝えられる彼女は、宗教などの神秘を再評価するだけではなく、同じくヨーロッパ人から見下されていたアジア人の叡智を世界に知らしめ、世界中の人々が真の友愛によって結び付く基礎を作ろうと志した。

 ブラヴァツキー夫人は太古の叡智を現代人の意識に見合った仕方で復興することこそが自分の使命であると決意し、オルコットと共に神智学協会を設立したばかりではなく、ヒンドゥー教の改革団体たるアーリヤ・サマージの指導者ダヤーナンダと結び付いた。

 神智学教会を「アーリヤ・サマージの神智学教会」に変えた彼女は、ニューヨークで集めた会費と寄附金を全てアーリヤ・サマージに送り、アメリカの市民権を獲得してインド帝国で自由に活動した。


 ブラヴァツキー夫人は「アーリヤ・サマージの神智学教会」の本部をボンベイ(ムンバイ)市に移し、オルコットともどもイギリス領セイロンで正式に仏教徒となった。

 そのような体験を彼女は『インド幻想紀行』などに盛り込み、泰西に東洋や南洋の宗教と哲学思想を流布した。

 だが、大英帝国の植民地支配を批判する「アーリヤ・サマージの神智学教会」は、イギリス王国の体制側からの嫌がらせや妨害、悪意に満ちた中傷に曝された。


 そのせいもあってブラヴァツキー夫人は重病に罹り、健康を回復するためにフランス共和国やドイツ帝国、ベルギー王国に滞在して最後はロンドンに拠点を構えた。

 彼女は多忙な仕事を続ける中で机に向かったままこの世を去った。

 遺灰は三分されてヨーロッパおよびアメリカとインドに届けられた。


 ブラヴァツキー夫人の後継者ベサントはインドに届けられた分をガンジス川に撒いた。

 ベサントはインド人の民族運動に関わり、婦人参政権の獲得にも尽力した。

 インド人の政治指導者ガンディーとは対立したが、互いに相手へ敬意を抱いてもいた。


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