第二十一話 サラ・バートマン~近代の阿州~
「彼自身はグリカ族で、ホッテントットの主な支族の子孫だった。私の祖先が喜望峰に上陸したとき、彼らは遊牧民らしくそのあたりを移動中だったが、ヨーロッパ人が内陸めざして仮借ない侵入を開始すると、彼らと勝目のない戦いをする最初の人々となったのであった」(ヴァン・デル・ポスト『カラハリの失われた世界』)
紀元後十八世紀末期、コイコイ人の遊牧民サラ・バートマンはヨーロッパ人に父母を虐殺され、自身はキリスト教の宣教師に売られた。
アフリカ大陸はドイツ植民地帝国やベルギー植民地帝国、イタリア植民地帝国などに分割されつつあり、それは南アフリカにも及んでいた。
そこにはオランダ海上帝国がケープ植民地を建設していた。
オランダ系の移住農民を先祖とするボーア人は、内陸地方にも進出して牧畜に従事し、遊牧するコイコイ人を迫害した。
宣教師がコレラで死に、村に戻ったサラ・バートマンが結婚すると、その夫もヨーロッパ人に虐殺された。
妊娠していた子供も流産し、あらゆる繋がりを失ったサラ・バートマンは、村を出てケープタウン市に上京した。
ケープタウンで彼女はボーア人の召使いとして乳母や女中を務めた。
そうして賃金を獲得し、ヨーロッパ人の社会が貨幣により回っていることを学んだ。
大都会での消費生活を目の当たりにし、金さえあれば何でも手に入るとサラ・バートマンは信じた。
それゆえ、イギリス人の船医に売られてロンドン市に渡ることになると、彼女は更に巨大な都市で稼げると考えた。
ケープ植民地はイギリス王国に占領され、植民地行政の管理官が持っていた総督の称号は、オランダ人からイギリス人へと継承されていた。
大英帝国はアメリカ合衆国が独立したことで第一次帝国から第二次帝国へと転換し、政治的な支配ではなく、圧倒的な工業力で経済支配を拡大させ、全世界に影響力を振るった。
そのようなイギリスの都であるロンドンには世界中から様々な人間が集まっていた。
サラ・バートマンもその一人であると言えた。
船医はサラ・バートマンを見世物として展示した。
海外に領土を広げるイギリス人は、世界各地の珍奇なものに興味を示し、興行師はそれを見世物にしていた。
イギリス人に馴染みのないコイコイ人たるサラ・バートマンも珍奇なものとして見られた。
ヨーロッパ人からホッテントットと呼ばれるコイコイ人は、ブッシュマンとも称される狩猟民のサン人と同じく女性の臀部が大きく、それを際立たせるようなサラ・バートマンは薄い布だけを身に着けて興行に出演した。
彼女は腰の線が豊かで、長い手足は丸みを帯びており、大きな胸の膨らみはつんと上を向いていた。
紅い髪の毛は美しく、コーヒーのような色の肌も官能的だった。
サラ・バートマンは好奇の目を集め、人々は美の女神に準え、彼女のことを「ホッテントット・ヴィーナス」と呼び習わした。
もっとも、ヴィーナスは性愛の女神でもあった。
観客たちは裸体と殆ど変わらぬ格好のサラ・バートマンに好色な眼差しを向けてもいた。
しかし、イギリス王国は啓蒙主義から見て不条理な奴隷制が廃止しており、道徳家たちはサラ・バートマンが大きな反響を呼んでいることに憤激した。
奴隷解放論者たちはサラ・バートマンの見世物が奴隷制廃止に抵触するとし、彼女を解放して祖国に帰らせるよう裁判に訴えた。
ところが、サラ・バートマンは己が奴隷でないことを法廷で自ら主張して奴隷解放論者たちを敗訴させた。
船医はサラ・バートマンに結婚と収益の折半を約束しており、それを彼女は自由意志による契約と捉えていた。
そうしなければ興行から放り出され、路頭に迷うこととなった。
もし契約が実行されれば、サラ・バートマンは金銭を受け取って再婚し、故郷に錦を飾れた。
それに、ただでさえ見世物として晒される屈辱を受けているのに、奴隷の烙印まで捺されたら、誇りを失って心が壊れてしまいかねなかった。
サラ・バートマンは必死に己は奴隷でないと自分に言い聞かせ、ロンドン市での見世物が下火になると、各地を興行して回った。
だが、船医は賭けに負け、サラ・バートマンをフランス人の熊使いに売った。
サラ・バートマンは短期間で興行主を金持ちにしたので、熊使いは手早く一儲けしようと企み、彼女に使い潰そうとした。
パリ市の様々なクラブでサラ・バートマンは晒し者となって売春まで強いられた。
サラ・バートマンには大勢の科学者たちも興味を持った。
ヨーロッパ人から見て珍しい体が注意を惹いたのだ。
科学者たちが注目した身体的な特徴には女性器も含まれていた。
コイコイ人には「ホッテントットのエプロン」と呼ばれる小陰唇の伸長があった。
サラ・バートマンは秘部まで遠慮なく調べられるという恥辱を味わわされた。
彼女は酒と麻薬へ溺れるようになり、南アフリカと異なる気候も体を蝕んだ。
また、肺炎に罹って梅毒や結核、天然痘などにも感染してサラ・バートマンは失意の内に亡くなった。
けれども、サラ・バートマンに対する辱めがそれで終わることはなく、フランス王国における比較解剖学の最高権威キュヴィエは彼女を解剖し、頭や性器をホルマリンで瓶詰めし、骨格も標本にしてパリの人類博物館に公開展示した。
財産を築いて故国に帰るというサラ・バートマンの夢は果たされなかった。
しかしながら、ケープ植民地では皮肉にもサラ・バートマンが欲した財産と収入によって政治への参加資格が与えられるようになっていった。
南アフリカにはオランダ人やイギリス人だけではなく、ドイツ人やフランス人もおり、ケープ植民地は彼らをイギリスの価値観によって統合する必要があった。
大英帝国は生産力で世界を支配したので、経済的な資産の蓄積や意地を通してのみ政治生活を送るのに十分なだけの理性があると見なした。
ヨーロッパ人の入植者でなくても教育を受けて経済力がある男性なら、有権者の資格が得られた。
ただし、ケープ植民地がボーア人のオレンジ自由国やトランスヴァール共和国を併合して南アフリカ連邦が誕生し、ヨーロッパ人の有権者が増え、女性の参政権も認められると、選挙民が人種で制限されるようになっていった。
それでも、ヨーロッパ人ではない選挙民が政治生活に参加した経験を忘れることはなかった。
彼らは南アフリカ共和国における人種差別を制度的に無くし、アフリカ人の弁護士マンデラを大統領に選出した。
マンデラは物置に放置されていたサラ・バートマンの遺体を返還するようフランス共和国に要請し、彼女は長い時を経て故郷へと埋葬されるに至った。




