第二十話 オツケニ~近世の北洋~
「満州人や日本人たちと出会い、自分らのものよりすぐれた衣服を見たアイヌたちは、おそらくは自分たちの気に入った品物や衣服を入手する可能性を求めて、その生業を高めたことであろう」(ブッセ『サハリン島占領日記』)
紀元後十八世紀後半、アイヌの寡婦オツケニはアッケシ(厚岸)の有力者ツキノエの愛人となった。
貧窮するなどして自活できない者がいれば、金持ちは彼らを妻妾や従者として抱え、面倒を見てやらなければならなかった。
そうであるからこそ富める者は、有力者としての威望と指導力を備えられた。
オツケニの夫カモイボンデンもそのような有力者だったが、幼い息子イコトイを残して早死にした。
アイヌは財宝を相手に渡し、契約を交わしたり紛争を解決したりしていたのだが、強者は弱者に因縁を吹っ掛けて宝を差し出させ、武力で奪うことも珍しくはなかった。
大黒柱の夫を失ったオツケニは、ツキノエを頼ることにした。
ツキノエは各所にある拠点の一つにオツケニを配した。
アイヌモシリ(北海道)では鮭や毛皮、鷲羽、昆布などが豊かに取れ、アイヌはそれらを交易に当てていたため、そのような生業の関係から移動して生活することが多かった。
オツケニはツキノエの後ろ盾を得てはいたが、自立した働き手として交易の拠点を切り盛りしながらイコトイを育てた。
父のいないイコトイに有力者とはどうあるべきかを教えるため、彼女はよく働き、猟虎や海豹を取るために従者を率いて自らウルップ(得撫)島へ渡海するほどで、エトロフ(択捉)島で魚油を買い取るために舟を貸し置くこともあった。
巫女を尊ぶシャーマニズムが信仰されていたこともあり、そのようなオツケニを人々は男勝りの豪勇に加えて愛情も厚いと高く評価した。
そうした徳性は、オツケニの美しさを引き立てた。
ほっそりした肢体でありながらも乳房は大きく、白い肌は透き通るようで、お下げにされた黒髪にはアイヌ紋様の刺繍された頭巾が巻かれ、衣服は極彩色の山丹服だった。
山丹服は錦織の胡服で、アイヌはそれを黒竜江の山丹人と交易して手に入れた。
彼らは大清国に朝貢してもいた。
大清帝国は明が滅びた中土を塞外の満洲人が征服して建て、清の皇帝は大汗の地位を継承しているだけではなく、中華の天子であるともされた。
山丹人との交易で入手した品をアイヌは本州の和人に輸出してもいた。
アイヌが交易する相手にはロシア人もいた。
ロシア皇帝による改革でロシア皇国からロシア帝国へと再編されたロシアは、シベリアを東漸して領土を増やし、そこに住む人々から毛皮を手に入れようとして激しく抵抗されつつ、クルミセ(千島列島)までやってきた。
ロシア人がウルップでアイヌに乱暴を働くと、ツキノエはアッケシをイコトイに譲ってクナシリ(国後)島へ赴き、アイヌによるロシア人への襲撃に加わったが、和を結んで交易を行うようになった。
彼は和人との間でも飛騨屋の交易船を襲い、後に和睦して交易を再開したことがあった。
和人は松前藩が江戸幕府からアイヌとの交易や漁場での雇傭労働を独占することを認められていた。
だが、松前藩は財政難に陥ると、借金の形に交易権や漁業権を商人へ貸し出すようになった。
飛騨屋もその一つだった。
ところが、飛騨屋はアイヌとの交易や漁業に経験を積んでいなかった。
アイヌモシリにおいてアイヌの慣行を無視することは出来ず、そのようなことをすれば、松前藩でも賠償をしなければならなかった。
そうした経験的な知恵が著しく欠けていた飛騨屋は、使用人がアイヌの人妻と密通しても賠償せず、投資を早く回収したくて出来もしない脅迫的な言辞まで弄した。
アイヌは和人との交易でより大きな報酬を獲得しようとしていたのだが、これでは酷使された挙げ句に労働の成果を無償で取り上げられるようなもので、殴り殺される者さえいた。
アイヌの有力者も従者を斬り殺すことはあったが、基本的に面倒は見てくれた。
しかも、有力者やその女房が和人に毒殺されたという噂が立ったので、アイヌは飛騨屋を制裁されなければならないという結論に達し、クナシリやメナシ(目梨)で使用人らを襲って殺害した。
ただし、全てのアイヌがそのように行動したのではなかった。
和人はアイヌの領域用益権も無視できず、彼らの同意を得た上で交易場や漁場を開き、相手から開設を要望されることもあった。
アイヌとしても和人と商売する方が稼げ、両者の婚姻も普通に行われた。
それゆえ、誤解かも知れない私憤による蜂起へ連帯すべき理由もなく、イコトイやツキノエは馳せ参じなかった。
そればかりではなく松前藩の鎮圧隊に協力して蜂起の参加者を投降させた。
オツケニも筋道立った雄弁で和人を救ってエトロフに送り届け、アイヌに掠奪された仏像なども返させた。
蜂起が鎮まった後、オツケニらが参加者を連れて松前藩に赴いた。
その際にオツケニらは蝦夷錦や唐木錦を用いた衣装を着せられた。
それは松前藩や江戸幕府が異域に住む民の支配者であることを主張する演出で、幕府の長たる征夷大将軍は江戸幕府の外交文書に日本国大君と記されており、大君の威光はアイヌモシリや琉球王国にも及ぶとされた。
松前藩は過剰な報復を慎み、殺人罪に対しては死刑という当時の法観念を遵守し、和人を殺害したことが明らかなアイヌを特定して斬罪に処した。
天性の指導者であるかのようなオツケニの堂々たる所作に藩士たちは彼女を烈婦と褒めた。
アイヌと和人の仲介としてオツケニは和人に媚びることをせず、松前藩から戦いでの功を賞されたが、交易を飛騨屋に任せっぱなしであった松前藩の非道を強く糾した。
ロシア人の南下を危惧していた江戸幕府も、松前藩は弛みきっていると見なし、アイヌモシリの直轄に踏み切った。
幕吏たちは松前藩と商人に信用を置かず、松前藩により未開の状態に留められたアイヌを商人が収奪していると糾弾した。
彼らはアイヌを和人に同化して公正に扱うことが救済の途であると考えた。
そうした同情心は、アイヌにとっては自分たちの生活や風俗を脅かすものだったが、彼らはアイヌモシリの幕領化に抗えなかった。
叙事詩の『ユーカラ』で物語られる英雄のごとくアイヌは国家権力に従属しないで自立的に生きることを求めた。
それ故にアイヌモシリでは政治権力の統制が存在せず、集落の重要問題は合議で決められ、有力者も一発言者に留まり、広い地域を支配する王のような存在は出現しなかった。
そうであるからこそアイヌは国家が背後に控えた勢力に抗えず、経済的に依存して政治的な服従へと落ち込んでいった。
塞外でもアイヌが山丹人に多額の負債を抱え、同胞を奴隷として連れ去られた。
ロシア人もアイヌを武力で制圧して重税を課した。




