第十五話 イヴァン四世~近世の西洋~
「イヴァン・ヴァシリエヴィッチは、群雄を討ち平らげ、自らを崇めて皇帝と号した。その時から今まで三百年余りになるということである。それから勢力は強大になり、カザン、トボリスクなどの地を討って掌中に収めた」(トゥリシェン『異域録』)
紀元後十六世紀中盤、モスクワ大公たるイヴァン四世は大貴族のシュイスキー家を粛清した。
シュイスキー家はモスクワ大公国を牛耳っていたが、それ故に他の大貴族から疎まれていた。
大貴族はシュイスキー家がイヴァン四世の亡母エレナ・グリンスカヤを侮辱して大公から死刑を宣告されると、嬉々としてその判決を支持した。
もっとも、そうであるからと言って大貴族がイヴァン四世を敬っているわけではなかった。
孤児の少年であって後ろ盾のないイヴァン四世が廃されないのは、そうすれば権力闘争に歯止めが利かなくなるからだった。
かつてルーシはそのせいでモンゴル帝国にあっさりと攻略され、モンゴルの金帳汗国に従属させられた。
モスクワもルーシ人のイヴァン一世が金帳汗国から徴税と貢納を請け負ったことで台頭し、モンゴル帝国の通商網や「モンゴルの平和」の恩恵にたっぷりと与った。
そのようなモスクワが大公国として独立できたのは、金帳汗国の首邑であるサライ市がティムール帝国により破壊されたからだった。
ティムール帝国もチャガタイ汗国とイル汗国の王権を受け継いでいた。
金帳汗国はティムール帝国に惨敗すると、カザン汗国やアストラハン汗国が分離した。
こうしたモンゴル帝国の動きに対し、モスクワ大公国はロシアにおける覇権をゆっくりと確立していった。
モスクワ大公は大貴族の貴族会議などと協議しながら統治したが、それは大公が一人前の大人なればこそ可能なことで、未成年のイヴァン四世は冷遇されていた。
それでも、イヴァン四世の成人に期待を懸ける者もおり、公爵クルプスキーは宮廷でうだつが上がらなかったので、大公を押し上げることで自身も出世しようとした。
彼は美貌と機知によってイヴァン四世の寵臣となった。
誰からも相手にされていなかったイヴァン四世は、顔と頭の良いクルプスキーに言い寄られたことが嬉しく、男色を求められても断れずに関係を結んだ。
イヴァン四世も楚々たる姿態の美少年だった。
結い上げられた緑髪と痩せた鼻を持ち、極端に吊り上がった翠眼は、冷たく澄んでいた。
小柄であって毛皮のコートを好んで着した。
クルプスキーは獣姦など様々な悪徳をイヴァン四世に教え、彼を共犯にすることで絆を強めた。
そのせいでイヴァン四世には動物を虐待しているという噂も立った。
しかし、クルプスキーはイヴァン四世を教育することも忘れず、叙事詩の『イーゴリ遠征物語』を読み聞かせ、ロシアを統一しなければいずれまた異民族に敗北させられると訴えた。
モスクワ府主教マカリイも教会が大貴族に弱体化させられていたので、イヴァン四世を大貴族と渡り合える教会の保護者に教育しようと考えていた。
マカリイはイヴァン四世にビザンツ帝国の政体を教えた。
ビザンツはキリスト教にギリシア人のヘレニズム文化が浸透したオーソドクスを国教とし、スラヴ人が住む地域などに布教してルーシ人も改宗させていた。
ローマ皇帝の後継者をもって任じるビザンツ皇帝は、元老院・市民・軍隊の選挙によって即位するとされており、皇帝の権限は市民誓約により共同体から委託されたものに過ぎなかった。
だが、イヴァン四世の祖父であるイヴァン三世はビザンツ帝国の皇姪ゾイと結婚している自分をローマ皇帝の正統な後継者と主張し、ブルガリア帝国やセルビア帝国に倣ってモスクワ大公国を「第三のローマ」とした。
なぜなら、ビザンツはオスマン帝国に滅ぼされていたからで、イヴァン三世はビザンツ皇帝と金帳汗国の汗に用いていた皇帝号を名乗った。
シュイスキー家の後釜に収まったグリンスキー家がモスクワ大火に伴うモスクワ暴動で失脚し、市民の暴動に震え上がった大貴族が自重するようになると、皇帝として改めて即位していたイヴァン四世は、これを好機と捉えて親政を始めた。
后アナスタシア・ロマノヴナの実家である成り上がりのロマノフ家に支援され、ビザンツ皇帝が元老院・市民・軍隊に支えられたがごとく彼は全国会議を開いて大貴族や聖職者、政府高官、士族、大商人の代表らを招集した。
また、クルプスキーら側近や大貴族および聖職者の若手と共に選抜会議を立ち上げ、様々な改革に努めた。
対外的にはカザン汗国とアストラ汗国を併合し、ロシアとモンゴルの関係を逆転させ、東方経略の基礎を作ってシベリアへと勢力圏を広げた。
イヴァン四世は母エレナ・グリンスカヤが金帳汗国の有力者ママイの直系で、モンゴル人にも正統な支配権を主張できた。
そうしてモスクワ大公国はロシア皇国として巨大帝国への道を開始したのだが、バルト海への進出を意図して始まったリヴォニア騎士団との戦争は、バルト帝国とも呼ばれたスウェーデン王国などが騎士団の背後におり、イヴァン四世は苦戦を強いられた。
しかも、そこにアナスタシア・ロマノヴナの死や側近と大貴族の反抗が重なり、イヴァン四世の精神を不安定なものとした。
ビザンツ皇帝は報酬を支払って市民に奉仕させる皇帝誓約で自分の個人的な利益を図ったが、イヴァン四世も戦時中に退位すると脅して非常大権を得ると、帝領を分与して士族や大商人の忠誠を誓わせ、貴族勢力を粉砕しようとした。
ところが、そのせいでリヴォニア戦争を指揮していたクルプスキーが自分も粛清されるのではないかと危惧して敵国に亡命した。
クルプスキーの逃亡はイヴァン四世を発狂させた。
イヴァン四世は恐怖政治を敷き、その手先たる親衛隊士には大貴族らから没収した所領を与え、反対派の貴族らは彼を雷帝と仇名して恐れた。
もっとも、皇太子イヴァン・イヴァノヴィチを口論して打ち殺すくらい狂ってもイヴァン四世はその高度な政治力を失ってはいなかった。
彼は二番目の妻として金帳汗国の公主マリヤ・テムリュコヴナを娶り、モンゴル帝国の嫡流シメオン・ベクブラトヴィチに譲位して直ぐ復位することをした。
それらは皇国で重きをなすモンゴル人の支持を取り付けるために行われた。
ロシア人とモンゴル人は制度や文化ばかりではなく、人的な交流も盛んだった。
そのような頭脳の冴えはクルプスキーとの往復書簡でも発揮された。
出世街道を断たれたクルプスキーは、イヴァン四世の圧政を告発する書簡を彼に送った。
イヴァン四世もこれに応答し、かつて愛人であったクルプスキーの不実を責め、真心が込められたその文章は格調高く、書簡文学の傑作であると評された。
この時代を題材とした映像作品には『イワン雷帝』があります。




