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第十三話 ワイナ・カパック~中世の南米~

「ペルーの発見者にまつわる知らせを得てから死去するまでの八年間、ワイナ・カパックは帝国の治安を保つことに専念し、新たな征服に乗り出そうとはしなかった」(インカ・ガルシラーソ『インカ皇統記』)

 紀元後十五世紀末期、インカ帝国の皇太子ワイナ・カパックは父帝トゥパック・インカ・ユパンキからキト王国との戦争に関する全権を一任された。

 トゥパック・インカ・ユパンキは正妻に子がおらず、ワイナ・カパックは側室の長子だった。

 トゥパック・インカ・ユパンキはこの機会にワイナ・カパックにも経験を積ませ、戦術を覚えさせようと考えたのだ。


 ワイナ・カパックも側室の子であるがゆえに今一つ不安定な地位を確立させようと頑張った。

 その努力は人格的な面にも及んだ。

 インカ皇帝に相応しい度量と高潔さを備えるよう努めたワイナ・カパックは、如何なる女性にも雅量を発揮するなどしてインカ人たちから高く評価された。


 ワイナ・カパックという名も彼が幼い頃より美徳に富んでいたことから付けられ、「幼い頃から寛大な態度を盛んに示した者」といったほどの意味を帯びていた。

 若くして臣下たちからそのような継承を奉られたワイナ・カパックは、癖のない黒髪を三つ編みにしており、肌は赤銅色であって瞳は頭髪と同じく黒かった。

 その美貌は娘と見紛うばかりに艶やかだった。


 袖無しの貫頭衣を着て緋色のマントを羽織ったワイナ・カパックは、獅子奮迅の活躍でキトに侵入し、領土を拡大していったが、過去の皇帝たちに倣って和平と友好の提案を怠ることはなかった。

 インカ皇帝たちは武力のみ頼るのではなく、まず相手に様々な贈り物を気前良く与えて満足させ、統治を受け入れさせようとした。

 戦って征服してもインカは被征服者に豊かな生活を享受させた。


 インカ帝国があったアンデス山脈は、農業に適した平らな土地は少なかったが、高低差を利用すれば多様な作物を手にすることが出来た。

 ただし、そのためには高度な技術を維持し、労働力や天然資源を適正に管理することが要求された。

 インカはその求めに応じて建国され、皇帝の権威を絶対化して強力な軍隊を組織し、あらゆる生産と分配の手段が国の手中に握られていた。


 貨幣や私有権もなく、市民とその家族は政府から割り当てられた労働に従事し、賃金は支払われなかったけれども家屋や食物、医療が無料で支給され、教育と医療扶助もただだった。

 貴族は世襲によって技術を確実に継承しなければならず、官僚は地区の福祉に責任を負い、市民が基本的な生活必需品などを入手できなければ、断崖から飛び降りるよう皇帝に命令された。

 人々を飢えさせないことでインカ皇帝は太陽の子と崇められたので、役人の腐敗や行政機関が非能率的であること、怠惰などは犯罪とされた。


 人口が増えれば新しい土地に進出し、そこに元から住んでいた人々を飴と鞭で従わせ、インカ人を入植させていった。

 人々を飢えさせぬために建国されたインカ帝国は、不要な戦闘に労力が割かれるのを厭い、征服した民族が抵抗せぬよう彼らの生活も向上させた。

 また、各地の技術や文化の良い点を吸収し、更に磨きを掛けて生産量を増大させ、道を張り巡らして物資を帝国中に行き渡らせた。


 こうした一種の社会主義にワイナ・カパックは誇りを持っていた。

 それゆえ、彼は相手が自由に生きる権利を主張しても理解できなかった。

 インカは征服した民族に対し、インカ人と同じく太陽を神として崇拝するよう迫ったが、それはワイナ・カパックにとって蛮族を人間らしい状態へと導く善行だった。


 キト王国を征服したワイナ・カパックは、他にも多くの王国や地方に遠征し、何度も軍功を上げ、そのおかげで父帝の死により即位するに当たっても反対の声はなかった。

 彼は北方の大国家であったチムー王国への侵攻を終了させ、幾たびにも及ぶ戦争でインカ帝国の版図を最大にした。

 ワイナ・カパックは帝国各地を訪れて慈悲を施し、反逆者の処罰にも寛仁大度を示したが、幾度となく叛乱が起こった。


 余所者から干渉などされたくないという叛徒の主張をワイナ・カパックは受け入れられず、「太陽の社会主義」が浸透しないことに苛立ち、見せしめとして謀叛に厳罰を処すようになっていった。

 しかし、慈悲の寛容の精神を自負していたワイナ・カパックは、叛逆へ厳しい刑罰で以て臨んだことに戦慄し、心が深い憂鬱に閉ざされた。

 彼は現在の悲惨さから目を背けて過去を懐かしんだ。


 過去の中でもキトを征服した時が最も輝かしかった。

 それ故にワイナ・カパックはキト王の長女が母である皇子アタワルパをこよなく愛し、彼とキト市で過ごすようになった。

 ワイナ・カパックは帝国全土をアタワルパに相続させたかったが、嫡男たる皇太子ニナン・クヨチの権利を剥奪するわけにも行かなかった。


 そこで、彼は帝都であるクスコ市にいたニナン・クヨチをキトへやってこさせ、アタワルパをキト王に即位させてくれるよう願った。

 ニナン・クヨチはアタワルパが自分に忠順を誓うならば構わないと答えた。

 アタワルパはニナン・クヨチの臣下になると約束した。


 ニナン・クヨチは満足してクスコに帰った。

 ワイナ・カパックは軍隊の一部を百戦錬磨の指揮官と共にアタワルパへ与え、可能な限りの便宜を図った。

 だが、彼は体に赤い斑点が出来る病気に罹って急死した。


 それはインカがかつて経験したことのない病気だった。

 スペイン王国の軍人ピサロがインカ帝国は金銀の豊かな国である聞き、インカを征服する旅へと乗り出してアンデスを訪れ、インカ人が免疫を持たない伝染病を広めたのだ。

 スペイン人が出没したとの情報はワイナ・カパックも得ていた。


 飛脚は彼らが馬という見も知らぬ獣を連れ、鋼鉄の剣や銃といった未知の武器を有していることをワイナ・カパックに伝えた。

 死の床でワイナ・カパックはやっと叛徒の主張が理解できるようになった。

 スペイン人なる異邦人はインカ人よりも優れた文明を有しているのかも知れなかった。


 もしそうならインカ帝国がアンデス山脈の王国や地方を征服したようにインカもスペインに征されるべきではないのか。

 自身の人生を支えてきたものが崩れるのを感じ、ワイナ・カパックはスペイン人へ忠実に従うよう言い残して亡くなった。

 そして、スペイン人の来襲によりインカ帝国は滅亡したが、インカの皇女と征服者の間に生まれた年代記作家インカ・ガルシラーソは、『インカ皇統記』で帝国の地理や歴史を書き残し、スペイン帝国が母方の祖国と同じく傲慢の罪に囚われていたことを示した。


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