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第十二話 ジャンヌ・ダルク~中世の西洋~

「総じてこれらの冒険者たちは、あり得べからざることの中に半分足を踏み入れ、踵でもってかろうじて現実の生活に結びついているだけで、伝説の中をさまよっている」(ユゴー『ライン河幻想紀行』)

 紀元後十五世紀初頭、豪農の娘ジャンヌ・ダルクは祖国たるフランス王国を救うよう神からお告げがあったと信じた。

 フランスは領土の大部分をイギリス軍に占領され、危機的な状況にあった。

 国内は戦場となって荒れ果て、フランス王にはパリ市など僅かな土地しかなく、伝統に則ってランス市で戴冠することすら出来なかった。


 元々、イギリス王はフランス王の封臣としてフランス王国のフランドル地方やギュイエンヌ地方に所領を有していた。

 また、イギリス王のエドワード三世はフランス王であるシャルル四世の妹を母としていた。

 フランスの王室において本家が断絶し、分家が王位を継承すると、イギリスはそれを不服として介入した。


 それに、かつてイギリス王国は英仏に跨がるアンジュー帝国を築いていた。

 イギリスはイングランドとノルマンディー地方を支配してウェールズやアイルランド、スコットランドなどに宗主権を行使していた。

 そして、イギリス王女を母とするアンジュー伯がヘンリー二世として即位し、アキテーヌ女公アリエノール・ダキテーヌと結婚したばかりか、息子にブルゴーニュ公女を娶らせ、広大な帝国を作り上げたのだ。


 アンジュー帝国は相続争いやフランス王国の侵攻によって崩壊したが、一度あったことが再び起こらないとは限らなかった。

 エドワード三世が出兵して以来、イギリス軍はフランス軍に勝ち続け、アンジュー帝国を復活させつつあった。

 侵入者に対する戦いが死に物狂いの様相を帯びてくると、フランスの一般庶民は生存と独立の象徴としてフランス王を崇拝するようになり、その忠誠心には終末論的な興奮が含まれていた。


 それはキリスト教の影響によるものだった。

 ユダヤ教から独立したキリスト教は、ユダヤ教を介してゾロアスター教の終末論を引き継いでいた。

 世界を善悪が闘争する舞台としたゾロアスター教は、世の終わりに善が勝利すると信じ、その信仰はユダヤ教やキリスト教にも受け入れられた。


 教祖たる救世主イエスがローマ帝国に処刑されたためにキリスト教はローマから迫害され、終末論に反体制の色も加えた。

 そこでのローマ帝国は世界の終末において敗北すべき悪だった。

 しかし、キリスト教がローマの国教になると、ローマ帝国に敵対する体制が悪とされ、ローマは地上における神の国であるかのように見なされた。


 それはローマ帝国とササン朝ペルシアが滅亡し、ローマをビザンツ帝国とフランク帝国が、ササン朝をイスラム帝国が継承しても変わらなかった。

 イスラム教も終末論に触発された運動から生まれ、ビザンツなどを敗北させるべき悪しき体制と見なした。

 そうした終末論は、フランク帝国が解体して生じた神聖ローマ帝国やフランス王国にも見られた。


 特に神聖ローマでは皇帝職が長らく衰運の一途を辿り、諸侯が割拠して帝国が慢性的に混乱していたので、貧しい民衆は神聖ローマ皇帝が救世主として復活することを夢見た。

 ジャンヌ・ダルクの出身地たるロレーヌ地方は神聖ローマ帝国に近く、文化的な影響を受けていた。

 それゆえか、彼女の実家はフランス王の献身的な信奉者だった。


 ジャンヌ・ダルクもそれに感化され、強い愛国心と信仰心を持っていた。

 そのせいか些か強情なところがあり、許嫁と破談になってもいた。

 愛国心と信仰心が昂じ、祖国を救うようお告げが下ったと信じた時も、ジャンヌ・ダルクは周囲が諫めても強情さを発揮して聞き入れなかった。


 もっとも、ジャンヌ・ダルクのことを余り知らない人々の目に彼女は信心深い愛国者と映った。

 王室の傍流もジャンヌ・ダルクに注目し、彼女を利用しようと考えた。

 かつて牧童エティエンヌがイエスからフランス王への手紙を託されたと称し、老若男女を十字軍に駆り立てたが、それと同じ効果を傍系の王族たちはジャンヌ・ダルクに期待した。


 ジャンヌ・ダルクはその美しさも人を惹き付けた。

 金褐色の髪は金属のように光沢を帯び、しなやかであって毛皮のように柔らかく、鼻はほっそりと繊細で、黒みがかった緑の目は、潤んだように輝いていた。

 胸は豊かに張って重たげだったが、若々しい肩は酷くほっそりしており、しなやかな胴もか細かった。


 戦に出るため、ジャンヌ・ダルクは男装しており、ぴったりした股引が豊かに盛り上がる腰やむっちり張り詰めた脚の形を窺わせてもいた。

 そのような服装は当時の道徳観に照らせば、風紀を紊乱するものと非難されかねなかったが、その逸脱に人々は日常を超越した聖性を見出した。

 ジャンヌ・ダルクを利用しようと企てた王族たちは、密かに彼女と接触し、乗馬や騎士の作法を教え、武勲詩の『ローランの歌』から飛び出してきたような勇ましい姿によって人々が鼓舞されるように仕向けた。


 フランスは最後の拠点たるオルレアン市が陥落する寸前で、軍の士気も低下していた。

 この状況を打破するため、ジャンヌ・ダルクを陰ながら支援し、民衆を動員しようと企んだのだ。

 もし成功すればジャンヌ・ダルクを支援したことを公にして国王に恩を売り、失敗すれば彼女を見捨てて素知らぬ顔をすれば良かった。


 ジャンヌ・ダルクは王族たちの支援でシノン城にて王太子と会い、彼からオルレアンを救うための総司令官に任命された。

 王太子も王族たちの支援に気付いてはいたが、士気の低下には彼も頭を悩ませていたので、当面は聖女の利用することにしたのだ。

 女性が総司令官となるのを周囲に納得させるため、ジャンヌ・ダルクは変装した王太子の正体を見破るという小芝居までやってのけた。


 オルレアン市に入った彼女は旗持ちとなり、常に先陣を切って突撃した。

 ジャンヌ・ダルクに部隊を牽引され、士気を鼓舞されたフランス軍は、イギリス軍の砦を次々に攻め落とした。

 盲目的なまでに信心深い愛国者であったがゆえにジャンヌ・ダルクは戦場の常識に目配せせず、使用が忌避されていた大砲を持ち出したり捕虜を容赦なく処刑したりし、掟破りによってフランス軍を連勝させたが、イギリス軍の激しい憎悪を招いた。


 王太子も解放されたランス大聖堂で戴冠式を行ってシャルル七世になったが、今は足下を固めるのが一番と考え、このまま一気に全土を奪還するよう訴えるジャンヌ・ダルクと意見が衝突した。

 シャルル七世はジャンヌ・ダルクの終末論的な熱狂が反体制的な方向に転じるのを危惧し、彼女がイギリス軍に捕らえられると、救わないで見殺しにした。

 「オルレアンの乙女」ジャンヌ・ダルクはルーアン市で兵士たちに輪姦され、火炙りにされた挙げ句、途中で火を弱められて性器を晒させられたが、彼女は処刑を前に脱獄しており、イギリス軍は面子が潰れぬよう別人を刑死させたと伝えられてもいる。


この時代を題材とした映像作品には『火刑台上のジャンヌ・ダルク』・『ジャンヌ・ダルク裁判』・『ジャンヌ・ダルク』・『ヴァージン・ブレイド』があります。

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