第一話 フマーイ~神代の欧亜~
「ペルシアこそが世界最古の支配国の本拠地なのだといいはっている」(シャルダン『ペルシア見聞記』)
紀元前十三世紀、バクトラ(バルフ)市に居を構えていたアヴェスタ語族の帝王ウィシュタースパは、孫バフマンに譲位して他界した。
ウィシュタースパの子にしてバフマンの父であるスプントザータはザーブリスターン(ザーブル)地方の豪族ロスタムに殺されていた。
バクトリア(アフガニスタン)には王侯たちが割拠しており、彼らはウィシュタースパに臣従していた。
カヤーン朝の血を継承するウィシュタースパはナオタラ家の出自で、同家はピーシュダード朝の系譜に連なっているとされた。
ピーシュダード朝はアヴェスタ語族がホラズミア(ホラズム)地方にいた頃にあったとされる神話的な王朝だった。
そのような王朝を継承するという権威でカヤーン朝は王侯たちの忠誠を誓われていた。
ただし、それは飽く迄も表向きの話で、王侯たちには独立自尊の気風があった。
特にロスタムのナリーマン家はザーブリスターンに広大な領地を封ぜられていた。
そこで、ウィシュタースパはスプントザータにロスタムを討たせようとしたのだが、返り討ちに遭ってしまったのだ。
ロスタムはスプントザータに同行していたバフマンをザーブリスターン地方に連れ帰ったが、大切な人質として帝王学を授けた。
しかし、恭順の意を示して解放されたバフマンは、ロスタムが弟ザワーレと争って相討ちになると、ザーブリスターンに兵を出した。
彼はロスタムの父ザールを捕らえ、子ファラーマルズを殺し、ザーブリスターンは荒廃の地と化した。
バフマンはカシミール地方の王女キャターユーンと結婚するようロスタムから圧力を掛けられていた。
だが、ナリーマン家を退治したバフマンには最早それを気に掛ける必要はなく、彼はエジプト王国から来たヘブライ人の女性ホマーイとの間に娘フマーイを儲け、彼女と夫婦になった。
結婚と子作りは別物で、公的な立場たる妃は王族が独占し、跡継ぎは婚姻外の性交渉から生まれた。
そのような婚姻を王家に導入したのは祭官ザラスシュトラだった。
ザラスシュトラは王侯たちが獲物と栄光を求めて他民族ばかりか近隣の部族さえ侵略するのを憂え、彼らに苦しめられる人々のため、「ガーサー」なる詩文を述作するなどし、伝統的な世界観に修正を加えた。
彼は契約を司る軍神ミスラではなく、秩序を属性とする善神アフラ・マズダを尊び、略奪が目的である場限りの連合を戒め、正義のために団結することを勧めた。
ザラスシュトラが唱えたゾロアスター教は、名声があって多くの戦利品を献げても倫理的な人間でなければ、身分や民族を問わず、地獄に堕ちるとした。
ウィシュタースパはゾロアスター教が王権の強化に役立つと判断し、王妃フタオサーらともどもザラスシュトラに帰依した。
ピーシュダード朝のピーシュダードは祖先を、カヤーン朝のカヤーンは王侯たちを意味し、ウィシュタースパは彼らの第一人者でしかなかった。
戦士として自身を自力で守れた者たちは、自らを自由に生まれた者と見なし、そうである者たちの立場は平等であると捉え、氏族の自由民全員が集まって開かれる集会が更に大きな部族集会に代表を送った。
アフラ・マズダが実質的に唯一の神とされたがごとくウィシュタースパはカヤーン朝の帝王を絶対的な君主たらしめようと試み、宰相ジャーマースパにザラスシュトラの娘ポルチスターを娶らせ、ゾロアスター教の聖職者たちに裁判官のような役割を担わせた。
これに伝統的な宗教の祭官や王侯は反対し、ザラスシュトラはバクトラに侵入したトゥーラーン(中央アジア)の王アフラースィヤーブに殺害された。
それでも、不自由な隷属民の人々にも平和と公正への希望を与えたゾロアスター教は、彼らに帝王を支持させ、その官吏となる者もいた。
そうしてカヤーン朝では官僚制が発達し、王侯たちとの争いを有利に進められた。
けれども、ウィシュタースパは野心のためにザラスシュトラを利用したが、生まれた時からゾロアスター教徒として育てられたバフマンは、倫理的な人間になりたいと心から願っており、それが彼の心を狂わせた。
彼は帝王として不正にも手を染めなければならなかった。
ナリーマン家を断絶させたのもそうだった。
フマーイは苦しむ父を寝物語で慰めた。
彼女はシェヘラザードとも呼ばれた母ホマーイから賢さと麗しさを受け継いでいた。
シェヘラザードは領地の麗しき女を意味した。
ヘブライ人は寄留者の境遇下にある人々が多く、生活が不安定であったため、女性は美しかったり頭の回転が速かったりしなければ生き残れず、それらは後宮でも活かされた。
紺碧の簡素な衣装を着けたフマーイは慎ましい野薔薇のようで、端麗な顔をしており、すらりとしながらも肉付きが良くて乳房もふくよかだった。
漆黒の髪は髷にされていた。
肌は眩しいほどに白く、煌めく眼は黒かった。
ところが、正義のために不正を犯す矛盾にバフマンは心を病み、倫理的であろうとすることへの反動で悪徳に走った。
彼は寝物語を聴かせるフマーイを手籠めにした。
実の娘を陵辱する背徳感にバフマンは酔い痴れ、千夜と一夜に渡って彼女を強姦した。
王権が強化されていたこともあり、近親婚は聖婚であるとして誰もバフマンに諫言しなかった。
フマーイも表向きは父に大人しく抱かれたが、内奥では心を狂わせ、復讐の機会を窺った。
そして、狩猟の際に細工し、野獣にバフマンを食い殺させた。
ただし、フマーイはバフマンの息子を産んでいたので、バフマンは遺言でその子をダーラーと名付けて跡継ぎに指名し、成人するまではフマーイを摂政とした。
フマーイはそれに逆らい、ダーラーを箱に入れて川へ流すと、王侯たちと組んでゾロアスター教を弾圧させ、カヤーン朝を破局に陥らせた。
なお、ダーラーは生き延びてペルシス王の祖になったとも伝えられている。
後ろ盾を失ったゾロアスター教徒は、アヴェスタ語族と同じイラン系民族がいるイラン高原の西に逃れた。
そこではメソポタミア(イラク)にてシュメール人の都市国家が原始民主政から原始王政、原始帝国であるアッカド帝国、バビロニア(南イラク)王国などの領域国家、アッシリア(北イラク)帝国のような世界帝国へと発展していた。
普遍宗教であるゾロアスター教はそのような流れに合致してアケメネス朝ペルシアやアルサケス朝ペルシア、ササン朝ペルシアなどの国教となった。
オイクメネ(西洋)の東部と同様な展開は西部でも発生した。
そちらではギリシア人の都市国家、アレクサンドロス帝国、マケドニア人の領域国家、ローマ人の世界帝国が成立した。
ローマ帝国において国教となった普遍宗教はキリスト教だった。