第7章 急変
「と、とにかく……」乱場は二人の先輩女子に挟まれたまま、「朝霧さんが夜中に洗濯室へ行ったことが完全に偶然の産物だった以上、飛原さんの服を乾燥機に入れた何者かは、それを誰かに目撃させるつもりはなかったということです。ひいては、飛原さんに罪を被せる目的もなかった」
「じゃあ、どういうことになるんですか?」
訊きながら朝霧は乱場に体を寄せた。当然のように反対側の汐見も負けじと同じ行動をとる。左右からの圧力が増したことで、さらに顔を赤くして乱場は、
「か、乾燥機で服を乾かしたのは、その服の持ち主、飛原さん自身であった可能性が極めて高い。つまり、深夜に外出したのも飛原さん本人であると考えられます」
「何の用事があって?」
「それは分かりません」汐見の質問に乱場は首を横に振って、「ですが、飛原さんは何も語ってくれていませんよね」
「深夜に外出したことを隠しているってことか、どうしてだ?」
「最初の問題に戻りますね」
「……水門を開けたから。そんなこと、みんなに言えるわけがない」
「全ては状況証拠でしかないですけれどね。飛原さんがそれをやったという物的証拠はないし、目撃証言もありません」
「本人に直撃してみるか?」
「そうですね……でも、いきなり『水門を開けたのはあなたですね』と訊くのはまずいでしょう」
乱場は私を見た。意見を求められているようだ。
「そうだね。飛原先輩が何も話してこないというのは、何か理由があるのだろうし……村茂さんと高井戸さんに相談してみるかい?」
「そうですね。あのお二人も、もしかしたら飛原さんの態度に何か違和感を持っているかもしれませんし――」
乱場がそこまで言ったとき、またノックの音がした。私は彼と一瞬目を合わせてから、「どうぞ」と声を掛けた。それに呼応するように、ゆっくりとドアが開き、
「あ、霞さん」
朝霧が入室者の名を呼んだ。ドアノブを握ったままの笛有霞は、にこりと微笑むと、
「朝霧さんと汐見さんは、こちらにいらしたのですか」女子生徒二人を順に見て、「ケーキをご用意したのですが、召し上がりませんか?」
小首を傾げて、もう一度微笑んだ。私たち四人は互いに顔を見合わせる。
「飛原さんたちにも声を掛けました。皆さんもうリビングに下りていますよ」
そう言われたら行くしかない。村茂と高井戸の二人が飛原と一緒にいる以上、先ほどここで話したことを相談するのは後回しにするよりないだろう。代表して私が「すぐに行きます」と返事をすると、霞は笑みを絶やさないまま、「お待ちしています」と言い残して、そっとドアを閉めた。
「霞さん、何なの? あの余裕。こんな状況だっていうのにさ」
呆れたように汐見が言った。それを受けて朝霧も、
「彼女、どこかおかしいですよね。橋が流されたのを見たときも、そのせいでここに閉じ込められることになったって分かったときも、全然うろたえたりしなかったですし」
「まるで、この状況を楽しんでるみたいだよな」
「十分な食料を備蓄していて、五日後には助かるって分かっているからなのでしょうか?」
「いえ」と今度は乱場が、「五日後になって起きる状況というのは、配送の車が来て、橋が流されていることが外にも知られるようになるということだけです」
「あ、そうですよね。そんなに簡単に、あれくらいの長さの橋が架け直せるとは思えませんよね」
「ええ。ですが、実際に流された橋を架橋し直すかどうかは、少なくとも笛有家の二人にはあまり関係のないことだと思うんです」
「どうしてですか?」
「だって、朝霧さんも言ったように、ここには十分な食料の蓄えがあるそうじゃないですか。足りなくなったとしても、食料だけならクレーンか何かを使って、川を越えて渡してもらえばいいわけですよ」
「でも、橋がないとやっぱり困るんじゃありませんか?」
「困りません。だって、笛有家の二人は、この妖精館からほとんど外に出ない生活をずっと続けているそうじゃありませんか。つまり、橋がなくなって困るのは彼らではなく、食料などを運んでくる業者のほうです」
「確かに、そうかもしれませんね」
「でもよ、乱場」と汐見が会話に入り、「庸一郎さんは実際、ずいぶんと凹んでたみたいに見えたぞ。橋が流されたと知って」
それには私も同意だ。庸一郎は橋が流されてしまったことを聞いて、明らかに憔悴しているように見えた。乱場もそう感じたのだろう、「ええ」と頷いてから、
「この状況に対して、庸一郎さんと霞さん、二人の受け止め方が全然違っているということが、どうも変だなと」
「庸一郎さんがショックを受けてるのは、橋の修繕にべらぼうに金が掛かるからとか?」
「財政的な理由?」
朝霧は吹き出し、
「そんなことだったらいいんですけどね。いや、よくはないですね」
乱場も笑った。私も少し笑みを浮かべてから、
「笛有家の資産規模から考えたら、橋の修繕費なんてどうってことないと思うよ。それと、乱場くん、飛原先輩のことはどうする?」
「そうですね……とりあえず、機会を窺うことにしましょう。リビングにみんな集まっているそうですから、そこで彼のことを観察も出来ますしね」
「そうだな。じゃあ、そろそろ行かないと」
私たちは一斉にベッドから腰を浮かせた。
リビングへ下りていくと、飛原、村茂、高井戸の三人がソファに座っており、残る河野は、すぐにケーキの載ったトレイを掲げながら台所から姿を見せた。その隣には霞もいて、やはり同じようにケーキを載せたトレイを持っていた。私たちも空いている席に腰を下ろす。例によって汐見と朝霧は乱場の両隣を占めるかと思ったのだが、乱場が早々とひとり用のソファに腰を据えてしまったため、やむなく三人掛け用のL字型のソファに二人仲良く座ることになった。
「ちょうど人数分ありましたから」
霞はそう言いながら、テーブルにケーキを載せた皿を並べていく。全部で九人分もの数になり、リビング中央に設えられたメインのテーブルには置ききれないため、霞はサイドテーブルにひとつケーキ皿を置いた。自分用なのだろうか。見るとサイドテーブルはもうひとつあり、こちらは飛原が使用するつもりらしい。メインテーブルに置かれたばかりのケーキ皿をひとつ取ると、自分の横にあるサイドテーブルにそれを載せた。
「庸一郎さんは?」
この場にいない妖精館主人のことを私が訊くと、
「父は寝室に籠もっております」
霞は静かに答えた。橋の修繕費の算盤を弾いて頭を悩ませているのだろうか。いや、冗談はともかく、まだショックを引きずっているのだろう。私たちのことを歓迎していない彼のことだから、この場に顔を出したくないというだけのことなのかもしれないが。
私は四人の大学生たちの顔色を窺った。さすがに全員が神妙な表情をしているが、やはり飛原だけは深刻の度合いが他の三人よりも深そうに見える。そこに、
「石上くん」と河野から、「余分があるなら、悪いけど風邪薬をもらえないかしら?」
そう声を掛けられた。
「風邪ですか?」
問いかけた私に河野は「たぶん」と頷く。
「あ、それでしたら、私も」と朝霧も手を挙げて、「まだ完全に治っていないみたいなのです」
挙げた反対の手で自分の額を押さえた。
「そういうことなら、俺ももらおうかな」さらに高井戸も、「何だか寒気がするんだ。大事に至らないとは思うが、予防も兼ねて飲んでおいたほうがいいと思って」
それを聞くと村茂も、
「無理もないな、昨日、あの土砂降りの中を歩いてきたんだ。まだ風邪の種がくすぶっていてもおかしくない。今後のこともあるから、少しでも体調に異変を感じている人は薬を飲んでおいたほうがいいぞ。で、夕飯までは部屋で寝ているんだ」
と言って皆を見回してから私に目を留め、
「もちろん、石上くんの薬の数が足りれば、だが」
「大丈夫ですよ。数に余裕はあります」
私が答える間に、ケーキを配り終えた河野と霞は台所に引き返していた。コーヒーメーカーがコーヒーを抽出する稼働音が聞こえ、芳醇な香りがここまで漂ってくる。
「薬を取ってきましょう」
私は腰を浮かせたが、
「それなら僕が」
と乱場が使いを買って出てくれた。「頼むよ」と私は後輩の心遣いに甘えることにした。彼は昨夜も朝霧に薬を出してやっていたため、薬の入ったポーチもすぐに分かるはずだ。乱場がリビングを出ると、入れ替わるように霞と河野がコーヒーを載せたトレイを手に戻ってきた。彼女たちがローテーブルの上にコーヒーカップを置いていき、私たちは自分の分を取っていった。
「すみません、河野さん。先輩を働かせてしまって」
朝霧が申し訳なさそうに詫びると、「いいのよ」と河野は笑顔を返していた。
「河野さん、風邪気味なのに悪かったです。せめて片付けは任せてください」
「あら、朝霧さんも完治していないんでしょ」
「大丈夫です。実際にやるのは、この汐見だけですから」
「おい!」
勝手に片付けの仕事を振られた汐見が突っ込む。朝霧は横の彼女を向いて、
「この中で汐見さんが一番ぴんぴんしています」
「それは否定しねえけどよ――あ! お前、どうせ、バカは風邪ひかないの典型ですね、とか言おうとしてたんだろ!」
「私、そんなことは微塵も……あっ、汐見さん、野蛮人に引き続いて、ご自身がバカだということもお認めになるんですね。やだ、変態、野蛮人、バカの三冠王じゃないですか」
「やだ、じゃねえよ!」
「薬、持って来ました」
そこへ乱場が戻ってきた。テーブルにポーチを置いて、
「風邪薬は……これですね」中から箱入りの市販薬を取り出し、「数は十分足りますね。飲む方は手を出してください。配りますよ」
乱場は小分けされた粒剤を手を差し出した人に渡していく。
「朝霧先輩、河野さん、高井戸さん……」
三人に配り終えたところで、
「俺にも貰えるかな」
飛原も手を出した。「あ、はい」と乱場は彼の手にも薬を載せた。次いで、私も手を出し、
「乱場くん、私も頼む」
「石上先輩もですか。大丈夫ですか?」
乱場は心配そうな顔になって私を見る。
「ああ。それこそ念のためだよ。今、何かあって動けなくなるといけないからね」
私は言いながら、横目で一瞬飛原に目をやった。乱場も私の視線を追って、何事か理解したように小さく頷くと、
「じゃあ、僕も飲んでおこうかな」
私に手渡してから、自分の分も薬を確保した。
「あとは、いいですか?」
乱場が訊くと、
「私にも下さい」
声を掛けられ、乱場は顔を上げる。そこには、空になったトレイを抱えた笛有霞が白い手を差し出していた。
「か、霞さんも体調が?」
乱場の問いかけに、霞はいつものように笑みを浮かべたまま、ゆっくりと首を横に振ると、
「いえ、せっかくですから」
「せっかく、って……」
乱場は薬の個装袋を持ったまま、渡すべきか迷うような顔を見せている。
「いいんじゃないか」と高井戸が、「ただの風邪薬だろ。健康な人間が飲んだからって、体に害になるわけじゃないし」
「そうですよ」
霞が彼の意見に乗り、小首を傾げて乱場に微笑む。
「まあ、いいですけど……はい」
「ありがとうございます」
乱場から薬を受け取った霞は、さらに笑みを強くして彼を見つめた。乱場は少し顔を赤らめて正面に向き直ると、
「じゃ、じゃあ、僕はポーチを戻してきますね……」
腰を浮かせかけたが、そこに、
「乱場さん、オブラートも下さい」
「あ、そうでしたね。はい」
朝霧に要請され、追加でオブラートの箱をポーチから出して手渡した。
「私にもちょうだい」
と河野も、朝霧からオブラートを受け取った。
「他にオブラートを使う方、いらっしゃいませんか?」
朝霧が皆を見回すと、
「私にも下さい」
霞が手を差し出した。「一枚でいいですか?」と朝霧は彼女にオブラートを手渡しながら、
「霞さんも、オブラートがないと粉末のお薬を飲めないほうですか?」
「いえ、私、オブラートというものを使ったことがないもので、せっかくですので」
「そうですか。そうですよね、せっかくですもんね」
霞は珍しそうに、朝霧から受け取った半透明のオブラートを眺めていた。
「皆さん、お水を持ってきますね」
霞が言うと、高井戸が、
「俺はいりません。コーヒーでいいでしょう」
彼はコーヒーで薬を喉に流し込むつもりらしい。
「駄目ですよ、高井戸さん」と、それを聞いた乱場が、「薬をコーヒーやジュースで飲むと、飲料に含まれる成分が薬に作用して、満足な効果が得られなくなる場合があるんですよ」
「そうなのかい? 俺はいつも手元に水がないときは、その場にあるコーヒーやお茶で流し込んでたけどな」
「お腹に入れば一緒ですよね」
朝霧も高井戸に賛同した。彼女もコーヒーで飲むつもりだったのだろうか?
「もう……」と河野は立ち上がり、「霞さん、薬を飲む人の人数分、お水を持ってきましょう。手伝うわ」
「いえ、それでしたら私ひとりで。河野さんも風邪気味なのですから、無理をなさらないで下さい」
霞は河野をその場に留め、ひとりで台所に向かった。その間に乱場はポーチを部屋に戻してくる。彼が帰ってくるのとほぼ同時に、霞がトレイに水の入ったグラスを七つ載せて戻ってきた。彼女は、薬を飲む人、朝霧、河野、高井戸、飛原、私、乱場の前にグラスを置いていき、自分が使用するサイドテーブルに最後のひとつのグラスを置いた。高井戸と飛原はすぐに薬を口に入れてコップの水を飲む。朝霧と河野は、まずオブラートで粒剤である薬を包む作業から始めなければならない。
「私、オブラートは二重にするんです。口に中にあるうちに溶けたら怖いので」
言いながら真剣な表情で朝霧は、まるで折り紙でも折るように慎重に薬をオブラートで包んでいく。それを見て河野は笑っていた。私も薬を口に入れてグラスを手にした。乱場も薬を飲んだようだ。目を閉じているのは苦いのを我慢しているのだろうか、ことさらごくごくと、まるで喉を洗い流すような飲みっぷりだ。本当は彼もオブラートを使いたかったのでは? と私は思った。
汐見が「いただきます!」と言いながらケーキにフォークを入れたのを皮切りに、それぞれも自分のケーキとコーヒーに手を付け始めた。汐見、朝霧と同じソファに席を決めた河野は、二人と一緒にケーキの味を絶賛し、別の同じソファに座っている高井戸と村茂はコーヒーカップを手に会話を始める。内容は大学に関する話題のようだ。飛原は、と見ると、やはり彼は薬を飲んでからひと言も喋らず、ちびちびとケーキをフォークで突いている。乱場の視線も彼に向いていた。話し掛けるタイミングを見計らっているのだろうか。黙っているのは霞も同じだった。彼女も乱場と同じように、ひとり用ソファに体を沈め、口元に笑みを浮かべて私たちを見ている。私はコーヒーをひと口すすってカップを置くと、全員――特に飛原――の観察を始めた。乱場がこちらを見て目が合った。私はカップを手に取って立ち上がり、飛原のもとへ近づく。(まず、私が軽く探りを入れてみる)そう乱場に目で合図したが、通じたかは分からない。が、彼は何か口を挟むことはしなかった。視線で飛ばした意思が伝わったのだと思う。私は飛原の隣に座り、
「飛原先輩」
思い切って声を掛けた。彼は、今私の存在に気が付いたかのように、はっとした様子でこちらを見る。
「ああ……石上か」
「先輩、何かあったんですか?」
「な、何か、とは?」
飛原はすぐに私から視線を外してしまった。フォークでケーキのホイップを軽く掬い、口に入れると、フォークを咥えたままにする。まるで、口を開くことが出来ない言い訳にでもするかのように。
私もかける言葉に迷って黙り込み、汐見、朝霧、河野、高井戸、村茂の会話の声が耳に入るだけの状態が続いた。乱場の視線を感じる。あまり私が何も探り出せなければ、名探偵が直々に飛原を尋問することになるだろう。
――何かの音がした。どさりという音、直後、さらに固いものが倒れたような音と、食器が割れたような破壊音が続いた。
会話の声は一瞬で止まった。同時に全員の視線が同じ方向を向く。いや、全員というのは間違いだった。ひとりを除いた全員。その省かれたひとりこそ、異音の発信地にいた人物。他の全員の視線を浴びた対象だった。
さっきまで確かに人がいたソファが空席となっている。直前までそこに座っていた人物は床に倒れていた。全身が痙攣しているのが分かる。その隣にはサイドテーブルが横倒しになり、載っていたカップや皿が破片と化して床に散らばっていた。この人物が倒れた際に巻き添えをくったのだ。
悲鳴のひとつが上がってもおかしくない状況だったが、目の前で起きた光景が衝撃的すぎたためか、誰もが絶句していた。
いち早く動いたのは乱場だった。床に倒れた人物のもとに駆け寄って抱き起こすと、口に指を突っ込んで胃の内容物を吐き出させようとする。が、無駄だった。
「……死んでいます」
腕の中で痙攣をやめている笛有霞を見下ろして、乱場は言った。
窓の外では、オオムラサキが舞っていた。