第6章 疑惑の男
私たちは水門をあとにして妖精館へ戻ることにした。門扉は全開のまま操作はしなかった。橋が流されてしまっている今現在、流量を抑えても何の意味もないためだ。帰路の足取りは誰も重かった。少なくとも私にはそう見えた。
玄関をくぐってリビングに入ると、女性陣はコーヒーの準備をして待ってくれていた。すぐに男六人は淹れたてのコーヒーをいただく。ひと息ついたところで、村茂の口から水門のことが説明された。本来であれば、ここの主人の庸一郎が言うべきことなのだろうが、彼はカップに口をつけると、黙したまま一向に何も語ろうとしないため、村茂が業を煮やして説明役を買って出てくれたのだろうと思えた。
「誰だよ、そんなことしたの……」
汐見がリビングに集まった一同を見回す。が、誰も名乗り出るものはいない。
「水門が開けられたというのは、何時頃のことなのでしょう」
次に、朝霧が誰にともなく問いかける。
「私が水門を調節したのは……」と庸一郎は今度は話す気になったとみえて、「午後九時前後のことでした」
「九時以降か、漠然としすぎだな」
高井戸が頭を掻いた。すると乱場が、
「少なくとも、雨が上がる前だったと考えられます」
「どうしてそんなことが分かるんだい」
「僕は、さっき水門に行く前に路面を見たのですが、足跡はひとつもありませんでした。雨が止んだあとに誰かがあの道を歩いたのであれば、必ず足跡が残っているはずですから」
先ほど水門に向かう際、乱場のした行動の意味が分かった。彼は庸一郎や私たちが歩く前に、ぬかるんだ未舗装路の路面状態を確認したかったのだ。そのために急いで庸一郎に追いついたのか。庸一郎の足跡も、そのあとに水門を全開にした何者かの足跡も残っていなかったのは、雨が洗い流してしまったためだ。ということは、あの道を誰かが歩いた時間帯は、雨が降っている最中に限定されることになる。私がそのことを言うと、乱場は「そうです」と頷いた。
「凄いな君! あの状況で、そんな冷静な判断が出来るなんて!」
村茂が賞賛すると、高校生探偵は小さく頭を下げた。村茂は続けて、
「だが、さらに時間帯を絞るためには、雨が上がったのが何時か知る必要があるぞ」
「気象台に問い合わせたら――」河野が一瞬明るい顔になったが、「駄目ね。携帯が通じないんだっけ。ここには固定電話もないんですよね」
顔を向けられて、庸一郎は首肯した。
「でも」と再び高井戸が、「仮に雨のやんだ時刻が分かったとして、それで何がどうなるわけでもないよな。だって、今、問題にすべきは、いつ水門が開けられたかじゃない。水門を開けた理由だ。いや、それ自体は手段でしかない。犯人の真の目的は……橋を流してしまうことだろ!」
誰も何の返答も返さなかった。少しの沈黙のあと、村茂が、
「高井戸、正確には、橋を流すことも手段でしかなかったのかもしれない。それによって生じる状態が犯人の本当の目的だったんじゃないか? つまり……」
「私たちを、ここに閉じ込める……」
河野が呟いた。
「閉じ込めて、どうするっていうんですか?」
続けて発せられた朝霧の疑問には、誰も何も答えない。
「過去に、こういう事例は山ほど起きてるよな」高井戸が窺うような視線を皆に向けて、「いわゆる〈クローズド・サークル〉ってやつだよ」
「おいおい、それって……」
汐見が表情を恐怖にこわばらせた。彼女だけではなかった。高井戸、河野、村茂、朝霧、庸一郎、誰もが閉鎖空間を意味するその状況の中で、これまでどんな事件が起きてきたか、それを思い起こしているに違いなかった。無論この私も。だが、この絶望的な状況にあっても表情を変えていない、いや、恐怖の表情を見せていない人物が三人いた。
乱場は、誰ひとりの一挙手一投足も見逃すまいという鋭い視線をもって、私たちをゆっくりと見回している。そこに、今朝まで見せてきた童顔の高校一年生の顔はもうなかった。
飛原も意外なことに、表情にあまり変化はみられない。いや、確かに恐怖と緊張をない交ぜにしたような顔をしてはいるが、その表情の意味するものは、どこか他のメンバーとは異なっているように私には思えた。思い返してみれば、彼は妖精館に戻ってから、いや、橋が流されているのを目撃してから、ひと言も満足に口をきいていない。さかのぼってみれば、彼の様子がおかしくなったのは、そのときからだったように思う。いや、あのショッキングな状況を目の当たりにしては、誰もが様子をおかしくして当然なのだが、私の目には飛原の表情はその時点で、他のメンバーとは意を違えているように感じた。事実、水門からはずっと、村茂が場の音頭を取っている。本来であればその役目は、我々のリーダーであり監督の飛原が担うべきもののはずだが。恐らく村茂も飛原の様子がおかしいことに気づいており、最年長者としての責任感からリーダー役を買って出てくれているのだろう。
最後のひとりは笛有霞だった。表情が変わらないという点に関しては、彼女がもっとも当てはまっている。きょとんとした大きな瞳で、自分以外の人間を見回している。
「あの……」その霞が、おもむろに口を開いて、「〈クローズド・サークル〉って、何ですか?」
全員の視線が霞に集まった。霞は、誰か早くその言葉の意味を教えてほしいと急かすように、自分をさす視線を順繰りに見返す。私とも目を合わせたが、私は視線を逸らしてしまった。
「霞さん、〈クローズド・サークル〉というのは……」ここでも臨時リーダー役の村茂が口を開いて、「文字通り〈閉ざされた輪〉つまり、外部との行き来や連絡手段が絶たれた、閉鎖された空間という意味の言葉です」
「閉ざされた……なるほど、今の私たちの状況が、まさにそうだということですね」
「ええ。この妖精館と外とを繋ぐ唯一の道である橋が流されてしまい、さらにここには電話もなく、携帯の電波も入らない」
村茂は〈妖精館〉という俗称を口にしたが、それについて霞や庸一郎が何か言ってくることはなかった。
「それで……」と言葉の意味は理解した様子の霞は、さらに、「その〈クローズド・サークル〉になると、いったい何が起きるのですか?」
村茂はすぐには答えなかった。数秒ほどの間をおいてから、
「霞さん、探偵や刑事の活躍を記録した、ミステリというジャンルの小説を読んだことはありませんか?」
彼女は小首を傾げた。
「霞は……」と、ここで庸一郎が、「そういったものに触れたことはない」
「そうですか」
村茂は頷いたが、それで彼女の疑問に答えたことにならないのは当然だ。霞は答えを期待する表情のまま、彼を見つめ続けている。
「〈クローズド・サークル〉状況下では、これまで多くの場合……」村茂は唾を飲み込んだ。喉の鳴る音、ごくりという音がいやに響いた。「殺人事件が起きています」
言ってしまったか。という思いで私は彼を見た。高井戸と河野も非難するような目を村茂に向けている。このときばかりは、飛原も伏せがちだった顔を上げて自分の右腕であるカメラマンに視線を送った。汐見、朝霧の女子高生二人も同様な目で彼を見やる。庸一郎もそうだった。乱場ひとりだけが、視線も表情も変えず、動揺したような振る舞いを見せることもなかった。霞は、そんな私たちをぐるりと見回すと、
「それでは、この中にいる誰かが殺されてしまうということですか?」
「や、やめて下さい、霞さん……」
朝霧が言った。軽率な発言を非難するというよりは、それが実際に起きるのでは、という恐怖を滲ませた口調だった。
「笛有さん、あの橋以外に外へ抜けられる道や手段はないんですか?」
最後の望みを託すかのように村茂が訊いたが、庸一郎は無言のまま首を横に振るだけだった。当然の反応といえる。そんなものがあれば、館の主人である当の彼が真っ先に口にしているはずだ。ここ妖精館は川以外の三方は切り立った崖に囲まれた、外界から遮断された世界なのだ。
「では」と村茂はさらに、「食料品などは定期的に業者が運んでくれるということでしたね。その業者は次にいつ来るのですか?」
「そうね。その人たちが橋が流されていることを知ったら、何かしら対応をとってくれるはずよね」
河野の表情が明るくなった。
「次に彼らが来るのは……五日後です。一週間に一度のペースで来ていますから。最後に来たのは一昨日でしたので」
「五日、ですか」
「食べ物の問題はないと思います。常に十分な量を備蓄していますので」
庸一郎が言うと同時に霞も頷いた。食料関連の管理は全て彼女が任されているのかもしれない。
「さて……どうする? これから」
高井戸が皆を見回す。
「起きたばかりで何だけれど」と河野がソファに深く沈み込んで、「突然のことで疲れたわ。できれば部屋に戻って休みたいんだけど」
「笛有さん」
村茂が妖精館の主人に声をかけた。庸一郎自身も疲れ切った顔をしており、ほとんど寝そべるようにソファに身を沈めたまま、黙って頷いた。各自が今朝まで使っていた部屋を、そのまま継続使用してよい、という了承の意味だろう。
「では」
村茂の声を合図に、私たちは一斉に立ち上がった。疲労を感じているのは皆同じことのようだった。ほぼ終始顔を伏せていた飛原も、村茂に促されるようにして最後にソファから腰を浮かせた。
リビングからの去り際、私はふと窓の外に目をやった。オオムラサキが舞っている。まだ水滴が残るガラス越しに見るそれは、蝶としての輪郭をあやふやにして、意外なほど幻想的に私の目に映った。まるで、妖精のように。
私と乱場は昨夜寝泊まりした部屋に入った。まさか、またここに戻ってくることになるとは、つい一時間ほど前、荷物をまとめて妖精館を出たときには夢にも思っていなかった。
「どうだい、何かつかめたかい?」
私はベッドに腰をかけるなり乱場に訊いた。彼も同じようにベッドに座っている。
「いえ、まだ何も……でも、石上先輩」と彼は私に顔を向けて、「飛原さんの様子、どこかおかしかったですよね」
「やっぱり、乱場くんも気づいたか」
「はい。橋が流されているのを見たときから、でした」
自分の読みが名探偵と同じだったことに嬉しさを禁じ得なかった私は、ほころびかけた表情を引き締めて、
「まさか、水門を開けた犯人は彼か?」
「いえ……どうも、そんな感じではなかったと思いました。橋が流されたことに驚いてはいる、でも、それだけではないというか。だいいち、飛原さんが犯人なら、いったい何の目的でそんなことをしたって――」
乱場がそこまで言ったとき、ノックの音がした。私は彼と顔を見合わせてから、「はい」と返事をする。
「汐見と」
「朝霧です」
後輩の声がドア越しに聞こえてきた。
二人の後輩女子には、部屋にある二脚の椅子を使ってもらい、私と乱場はベッドに腰掛けたまま、彼女たちと向かい合った。二人がこの部屋を訪問した目的は、私と乱場に話したいことがあるためだという。汐見が促すように朝霧を見た。どうやら用事があるのは彼女のほうで、汐見は付き添いで来たらしい。
「あのですね、部長、乱場さん……」意を決したように朝霧が口を開いて、「昨日の深夜のことなんですけれど……」
朝霧に話によると、
昨夜、熱を出してしまったため、薬を飲んですぐに眠りについた朝霧は、夜中に手洗いに行きたくなって目を覚ました。薬がすでに効いていたのか、体調はかなり快復していた。隣のベッドで(全裸で)寝ている汐見を起こさないよう、ゆっくりと自分のベッドから起きて部屋を出た朝霧は、まっすぐ手洗いに向かった。外は相変わらずの豪雨だったが、用を足して戻る途中、いっとき雨脚が弱まった瞬間があり、そのとき、一階からの物音が耳に入った。機械の稼働音のような音。気になって階下に下りた朝霧は、音の正体が乾燥機の稼働音だと知った。こんな時間に誰が使っているんだろうと疑問に思い、脱衣所に隣接した洗濯室に行くと、案の定乾燥機が動いていた。撮影隊全員の衣服はすでに洗濯も乾燥も終えて干されているはずなのに。朝霧は干してある衣服を順に見ていった。
「……で、干されていない服がひとり分だけあったんです。だから私、今、乾燥機に入っているのが、その人の服なんだろうなって思って」
「誰の服がなかったんだい?」
「……飛原さんです」
ある程度予想された答えだった。
「私、一緒に干してある靴も見ました。明らかに、飛原さんの靴だけ乾きが遅かったんです。いえ、乾きが遅いというより、ついさっきまで外に出ていたみたいに濡れていました」
「飛原先輩は、深夜に外に出ていた、ということか」
「あくまで可能性ですけれど」
「しかも、それを誰にも、少なくとも、ここにいる私たちには話していない」
私は三人の後輩たちの顔を見た。朝霧と汐見は不安そうな表情をし、乱場はリビングで見せていた探偵の顔に戻っていた。
「やっぱり、水門を開けたのは飛原さんなんじゃねえか?」
汐見が言うと、朝霧が、
「だったとして、じゃあ、どうしてそのことを黙っているんですか?」
「そりゃ、言えないだろ」
「どうしてですか?」
「橋を流す原因を作ったのは自分です。なんて告白できるわけないだろ」
「どうしてそんなことをしたんですか?」
「そりゃ……」
汐見は黙ってしまった。
〈クローズド・サークル〉を作るため。そんな理由を口にすることを馬鹿馬鹿しく、いや、恐ろしく思ったのかもしれない。
「ちょっと待ってくれ」と私は、「朝霧くんが見たのは、あくまで飛原先輩の衣服が乾燥機にかけられていて、靴が濡れていたということだけだよね。それをして、飛原先輩が外に出ていたということにはならないんじゃないか?」
「それはそうですけれど」
「じゃあ、朝霧が見たのは何だったっていうんだ、部長」
「飛原先輩の服は、彼にしか着られないわけじゃない。靴も」
「別のやつだったってことか?」
「どうしてそんな、他人の服と靴で外に出たりするんです?」
「自分の服をこれ以上濡らしたくなかったとか?」
「せこいですね、汐見さん」
「私じゃねえよ!」
「他に何か理由が考えられますか? 部長」
「例えば、外に出たのが飛原先輩だと思わせる、とか」
「罪を被せようとしたってことか!」
汐見が言うと、私は頷いた。が、ここで、
「その可能性は低いと思います」
少年探偵が待ったを掛けた。
「どうしてだよ? 乱場」
「何者かが外に出る際に、飛原さんに罪を被せるつもりで彼の服を着て出たとしましょう」
「うんうん」
「帰ってきた何者かは、飛原さんの服を乾燥機にかけて靴を乾かします」
「そうだな」
「それを朝霧さんが発見する」
「まんまと朝霧は騙されたってわけだ」
「失敬な! 私、騙されてなどいません! 事実をありのままにお伝えしたというだけです!」
「まあまあ」乱場は勃発しそうになった小競り合いを鎮めて、「おかしいと思いませんか?」
「おかしい? どうしてだ?」
「その何者かは、どうして朝霧さんが夜中に洗濯室へ来ることを予見できたんですか」
「……あっ!」
汐見は額を押さえた。
「そうなんです。外に出た何者かが、その人物は飛原さんだと思わせたいために、彼の服と靴を着用したというのであれば、帰ってきた直後、服が乾燥機にかけられていて、靴が他のものに比較して濡れているということを、第三者に確認してもらう必要があります。その役目を担ったのは朝霧先輩ですが、どうして……」
「私が夜中に起きて洗濯室へ行くことを予測できたのか、ということですね」
「そうです。そもそも、朝霧先輩が洗濯室へ行ったのは……」
「偶然夜中にお手洗いのために目を覚ましたからです」
「加えて、朝霧先輩が乾燥機が動いていることを知ることが出来たのは……」
「お手洗いから戻る途中、たまたま雨脚が弱まって雨の音が小さくなったからです」
「はい。そうでなければ……」
「乾燥機の稼働音は雨音に掻き消されたままで、私が気付くことはなかったはずです」
「その結果……」
「洗濯室へ行くこともありませんでした」
「ということは……」
「犯人は、私が夜中に目を覚ますことだけではく、その時間に雨脚が一瞬弱まることまでも予測できていたということになります。そんなことはありえません!」
「そうです。さすが朝霧先輩です」
「えっへん。です」
朝霧は両手を腰に当て、誇らしげに胸を張った。
「ほとんど乱場に誘導されてただけじゃねえか!」
「いいのです! 私と乱場さんは一心同体、二人でひとりの探偵なのです!」
「うわっ!」
朝霧は椅子からベッドに跳び移り、乱場の隣に腰を下ろして彼の腕を取る。
「あっ! こら!」
そうなると汐見も黙っているわけがなかった。彼女も自分の居場所を椅子からベッドに移し、朝霧と反対側の乱場の腕に自分の腕をからませた。