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第3章 妖精館の親子

 私たちは妖精館の玄関前に辿り着くと、大きくせり出した軒の下に駆け込んだ。身動きが取れなくなったバスからここまで、数百メートルは歩いただろうか。その間、雨脚は一切弱まらなかったため、私たち全員頭の先から靴の中までずぶ濡れだった。

 ひと息ついてから、飛原(とびはら)がドアの中央にある鉄製のノッカーに手を掛けて数回叩いた。妖精館の玄関には呼び鈴のボタンらしきものは見当たらなかったためだ。

 ノッカーを鳴らしてから数秒待ったが、中から応答するような物音は一切聞こえてこない。


「留守なのでしょうか」


 不安そうな顔で朝霧(あさぎり)が訊いた。


「ここまで来て、それだけは勘弁してくれ」


 汐見(しおみ)が表情を歪める。


「俺の聞いた話では」とノッカーを握ったままの飛原が、「笛有(ふえあり)氏がどこかに出かけることは、ほとんどないということだったが。第一、この家には車がないんだ。しかも、こんな雨の日にわざわざ外に出るとも考えられない」

「この雨音でノッカーの音が聞こえないんじゃないですか」


 高井戸(たかいど)の言葉を聞いた飛原は、もう一度ノッカーを数回、先ほどよりも強めに叩く。私たちはまた数秒ほど無言のまま返答を待ったが、やはり屋内からは何の物音も聞こえてこない。


「こうなっては、いよいよ汐見さんにバスを引っ張ってきてもらうしかありませんね」

「だから! 真顔で言うなよな! しかも何だよ、引っ張ってきてもらうって!」

「私たちはここで雨宿りをしていますので」

「さっきの荒れ狂う川に放り投げてやろうか?」


 朝霧と汐見が言い合いをしていると、


「静かに。足音が」


 飛原が言って、二人は口を閉じた。耳を澄ませると、確かに玄関扉を隔てて、一定の間隔で刻まれる足音が聞こえてくる。それは次第に音量を大きくし、停止すると、ほぼ同時に扉が細く開かれた。


「うっ……」と、怯んだように朝霧が小さな声を漏らして、汐見の腕を掴んだ。汐見は半身になって、その朝霧をかばうように一歩前に出る。十数センチ程度開かれた扉の隙間から、ひとりの男が我々に視線を向けていた。そのいやに細面で不健康に白い顔は、私の脳を刺激して幼い日の記憶を呼び起こした。笛有庸一郎(よういちろう)――。


「何でしょうか」


 扉の隙間から投げかけられた彼の声は、その顔色に相応しく陰気で――声に色彩があるというのであれば、それはまぎれもなく――白かった。


「あの、実は……」


 飛原が、用意していた台詞を語り始めた。

 トレッキングサークルの活動中に雨に降られ、帰ろうにも乗ってきたバスが立ち往生。麓まで徒歩で下りようとしていた途中に、この館を見つけた。雨が止むまでの間だけでも中で休ませてほしい。

 飛原は脚本兼監督だが、役者をやらせても務まるに違いない。彼の演技を見て私はそう思った。

 そして、その間、笛有庸一郎は一切口を挟むことなく、黙って飛原の話を聞いていた。表情ひとつ変えずに。眉ひとつ動かさないまま。全くの無表情のため、私の印象では、はたして彼が飛原の話に耳を傾けていたかさえ疑わしいほどに思えた。

 飛原の話が終わった。雨が地面や屋根を打つ音だけが聞こえる数秒間ののち、ようやく庸一郎が口を開いた。


「お帰り下さい」


 ほとんど唇は動かなかった。同時に、開きかけていた扉がゆっくりと閉じていく。飛原は手を伸ばす。


「ま、待って下さい――」

「お待ち下さい、お父様」


 飛原のそれにかぶるように、もうひとりの声が屋内から聞こえてきた。女性のもの。しかも美しい。ありていの言い回しをさせてもらえるなら、鈴をころがすような声だった。

 同時に、閉じられかけていた扉もぴたりと止まった。庸一郎が振り向いたことで、扉の隙間を塞いでいた彼の体は半身ほど横に動き、僅かだが館の中を覗き込めるようになった。

 玄関を入ってすぐはホールになっているようだ。広い空間があることが見て取れる。そのほぼ中央に、ひとりの女性が立っていた。照明が点いてはいるが、光量が少ないため、その女性の体は半分以上が暗がりに潜む形になってしまっている。それでも――。


「美人だな」


 私が思ったことを高井戸が先んじて呟いた。ホールを覆う暗がりが被さっていても、それでも、その女性が非常に美しい容姿をしていることは分かった。


(かすみ)


 庸一郎が言った。彼のひとり娘の、笛有霞。私は幼少の時分、ここ妖精館の敷地に忍び込んで庸一郎に追いかけられたことが何度かあったが、その娘である霞の姿を目にしたことは一度もなかった。妖精館は庸一郎の他に、彼の娘も一緒に暮らしているということは周囲の話で聞いてはいたが。よって、私が笛有霞の姿を目にするのは、このときが初めてだった。

 その霞が数歩歩み出て、扉の隙間から差し込む外光を浴びる位置に立った。


「入れてさしあげて、お父様」


 再び霞の唇から鈴の音がころがりでた。


「霞――」

「お願い、お父様」


 父親の声を霞が遮った。親子は互いに譲らぬように目を合わせていたが、父親のほうが折れたらしい。庸一郎は嘆息するとともに、閉ざしかけていた妖精館の扉を再び開いた。


「今、タオルを持って来ますので」


 開いた扉を押さえる役目をカメラマンの村茂(むらしげ)が引き継ぐと、庸一郎はホールの奥に姿を消した。


「お父様とのお話は聞いていました。大変でしたね、こんな土砂降りの中」


 霞のかけた言葉に飛原は、ええ、まあ、などと曖昧に答えを返していた。その視線がほとんど床のカーペットを向いていたのは、柄にもなく照れているからだろうか。


「トレッキングサークルの方々だそうですね」

「はい」


 今度は飛原は、しっかりと霞の顔を見て答えた。


「山歩きを専門にしているサークルの方々でも、この突然の雨は予想外だったのでしょうね」

「――ええ、まあ」


 また飛原は目をカーペットに向けてしまった。事実はまったくの逆だ。降雨の予測が出来たからこそ、この日を選んだのだ。

 庸一郎が持って来てくれた人数分のタオルを使い、私たちは雨に濡れた髪や服を拭うと、男女別に分かれて風呂をいただけることになった。まず女性陣の三人が霞に案内されて浴室へ向かった。その間、私たち男性陣はそのままロビーで待つことにした。庸一郎が部屋を用意してくれると言ったが、タオルだけでは拭い切れないこの濡れそぼった身体で部屋に入るのは(はばか)られたためだ。さらに霞は、時間も時間なので、夕食を用意するので今夜はここへ泊まってはと勧めてくれた。当然我々は何を遠慮することもなく、ありがたくその申し出を受けた。


「皆様の着替えは脱衣所に用意しました。着ているものはそのまま籠に放り込んでおいて下さい。洗濯をしますので」

「いえ、それくらいは我々が自分で」


 庸一郎の申し出に、代表して飛原が答えた。それを聞くと庸一郎は「そうですか」と言って奥へ行ってしまった。彼の足音が完全に聞こえなくなると、


「成功ですね、飛原先輩」


 私は小声でこの作戦を考案した監督に話し掛けた。


「ああ。最初は正直、これは無理だなと思ったんだがな」

「最初の庸一郎氏の態度ですね。ええ、私もそう感じました。まさか、宿泊までさせてもらえるとは」

「あの女性のお陰だな」

「彼女が、庸一郎氏のひとり娘、霞さん」


 飛原は頷いた。相変わらずの激しい雨音が、上手い具合に我々の会話を覆い隠してくれている。が、雨音があるとはいえ、あまりこんなところで私たちの作戦について話すのはまずいだろうということになり、それから私たちは無言のままに過ごした。女性陣が入浴を終えて戻ってきたのは、それから十数分後のことだった。



「広い風呂ですね。これなら浴槽と洗い場に分かれれば、男五人でも十分入れますね」

「乱場くんは小さいから、正確には四人半だな」

「何ですかそれ!」


 はは、と笑って村茂は乱場の頭をぽんぽんと叩いて、「じゃ、俺は先に浴槽を使わせてもらうわ」

と、お湯で身体を流してからゆっくりと湯船に足を入れた。


「それじゃ、俺も」と飛原も浴槽に向かい、「ここは年功序列でな」


 大学留年組の二人が湯船に身体を沈めることになった。二人とも大柄な体格のため、もうこれ以上湯船に誰か入ることは難しいと思われる。残された現役大学生の高井戸と、高校生である私と乱場は、先に洗い場で体を洗うことになった。


「石上先輩、背中流します」

「おお、助かるよ」


 かわいい後輩の申し出に、私は有り難く背中を差し向けた。


「で、監督」と髪を洗いながら高井戸が、「ここなら笛有家の人たちに聞かれませんよ。少しだけ今後の作戦を聞かせて下さいよ」

「なに。作戦と言っても簡単なことだ。食事を終えて笛有家の二人が寝静まった頃を見計らって、部屋と廊下、それにロビーで少し撮影をするだけだ。幸い、今回の映画でこの屋敷を舞台とするのは夜のシーンだけだからな。撮影自体は一時間もあれば十分だろう。準備や片付けは部屋で出来るしな。それよりも、高井戸」

「何ですか?」

「ここにいるときは、俺のことを『監督』と呼ぶのはやめろよ。目的と正体がばれかねない」

「ああ、そうですね。すみません、監督――じゃなくて、飛原先輩」


 言い直して高井戸は髪の毛についた泡をシャワーで洗い流した。


「乱場くん、交代だ」

「え? 僕はいいですよ。先輩にそんなことさせられません」

「いいって」

「うわっ」


 振り返った私は、乱場の両肩を掴んで半回転させると、タオルで彼の背中を洗い始めた。


「雨……やみませんね」


 数秒訪れた沈黙により雨音が余計に聞こえたためか、乱場は浴室の磨りガラスの窓を見上げて言った。


「予報じゃあ、明日の午前中までは降り続くそうだ」


 入念に予報を頭に入れてきたであろう飛原が言った。そうですか、と乱場は答えて、


「何事もなく、無事に撮影が済んで帰られればいいですね」


 雨粒が叩く窓を見つめ続けた。



 入浴を終えた私たちは庸一郎に、宿泊させてもらう部屋のある二階へと案内された。妖精館(これは俗称のため、正確に庸一郎たちがどう呼んでいるかは知らないが)は、やはり外見どおり広い屋敷で、二階に来客用の部屋が数部屋もあるという。おまけに一階、二階両方にトイレと洗面所も設えられている。庸一郎たちに気兼ねなく使えるのは嬉しい。女性陣もそこで合流し、部屋割りを決めた。

 1号室は私と乱場。2号室はカメラマンの村茂と男優の高井戸。3号室は監督の飛原。階段を挟んで4号室は汐見と朝霧。最後の5号室には女優の河野(こうの)が入ることに決まった。

 夕食は三十分後に一階の食堂で始める、と言い残して、庸一郎は階段を下りていった。私たちは予定どおり、飛原の部屋に全員集合した。


「ここ、本当に圏外なのね」


 河野が諦めたような表情をして携帯電話を懐にしまった。それは私も含めて皆が確認していた。


「場所によって、電波一本でも入るようなこともないみたいだな」


 そう言った高井戸は携帯電話を見もしない。ちなみに、全員は庸一郎と霞が用意してくれた服に着替えていた。一見、まったく当たり障りのない普段着に見えるが、タグに付いたブランド名を見て河野や汐見は目を丸くしていた。かなりの高級品らしい。


「私、自分の着てきた服は捨てて、これを着たまま帰ってもいいくらいです」

「同感」


 朝霧と河野は、そんな話をしていた。


「噂どおりの資産家なんだな」


 そういった話題には疎いのか、女性陣の中で汐見だけは、ブランド名を聞いてもぴんとこない様子で、自分に(あて)がわれて着込んだ服を珍しげに眺めるだけだった。体育系で行動派の彼女自身は、決して自分で選ばないであろうタイプの服だった。

 飛原は、風呂場で話した作戦を女性陣にも伝えた。女性陣が聞きだした情報によると、庸一郎も霞も寝室は一階の奥にあるということらしい。さらに話し上手の河野は、二人とも日付が変わる頃にはいつも床に入っているという情報も掴んでいた。


「じゃあ、念を入れて撮影は深夜一時開始にしよう。三十分前には全員俺の部屋に集まっていてくれ」


 飛原の決定に頷くと私たちは、何もしないでいるのは悪いという負い目から、夕食準備の手伝いをするために一階へ下りていった。

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