誘惑と誇り
それから樋口英一は、ミカの好みを調べるべく奮闘した。ミカにまつわる話を耳にするたびに、彼はそれをメモ帳に書き足していった。それと同時に、彼自身が周りの生徒と話すこともまた増えていく。彼は本来内向的な性格だったが、恋心のスイッチの入っている今ではその行動力も並外れているようだ。
そして、彼が夜の公園で一人になると、ちょきんぶぅは決まってそれを見計らっていたかのように姿を現すのだ。
「もう少し大胆に行動しても良いと思うぶぅ。どうせ失恋してもぶぅの力を借りることが出来るんだし、頼もしい受け皿があることに違いはないぶぅ」
「僕は失恋したらミカを諦めるつもりだ。自分の幸せのために他人を振り回すなんてお断りだよ。好きな人のためを想ってこその愛だろ?」
英一は鋼の意思を見せる。何が何でもちょきんぶぅには魂を売らないとばかりに、彼は誘惑を振り切っていく。
「やれやれ…………『他人のため』とのたまうことが一番のエゴだということをわかっていないようだぶぅ」
「君の押し付けがましい講釈も充分エゴだと思うけどね…………」
「別に押し付けているつもりはないぶぅ。ぶぅはただ、ちょっとしたアドバイスをしているだけだぶぅ」
「それが余計なお世話だって言ってんの…………」
英一はそう言い残し、ちょきんぶぅを置いてその場を後にした。
*
それから約一週間が経ち、英一はミカと連絡先を交換した。彼とミカの関係は順調に進展している。
(見たかちょきんぶぅ! 僕はここまでやってのけたぞ! 例え遠回りでも非合理的でも、自力で距離を詰めるってことに大きな喜びがあるんだよ! お前にはわからないだろうけどな!)
これには英一もご満悦。彼の気持ちを知らないミカもまた、彼と「友人として」関わることを悪くは思っていないようだ。
その日の放課後、二人はバスを待ちながら雑談していた。
「カタツムリっていうのは本当に奥深い生き物なんだ。もちろん、雌雄同体ってとこだけじゃないよ。アイツらの殻は非常に汚れにくい構造になっているんだ。あの殻の表面にはミクロレベルの凹凸やシワがあってね…………そこに水分が溜まっているから汚れが水に浮いて殻に付着しないし、雨が降るたびに汚れが洗い流されるんだよ」
「へえ、自然の力って凄いんだね」
ミカは英一の話に興味津々だ。
「だね。この原理は建物の壁なんかにも使われたりするんだけど、このように自然の生き物の構造や機能を取り込んだ技術を『バイオミメティクス』って言うんだよ」
「バイオ……何?」
「バイオミメティクス。例えば、よく棘だらけの実が服にくっついたりするでしょ? あれはよく見ると針の一本一本が鉤の形をしているんだけど、それを元にしたバイオミメティクスがマジックテープだよ」
「英一くん、物知りなんだね」
「ヘヘヘ……そうかな?」
二人がそんな話をしていると、バス停に一台のバスが来た。
「あ、私もう行かなきゃ。バイバイ」
ミカはバスに乗り、英一は手を振った。
「うん、また明日」
順風満帆だ。
バス停で一人きりになった後、彼は考えた。
(…………そうだ。人間は、自然から多くを学んできたんだ。僕はちょきんぶぅに人間の凄さを教えてやろうと思っていたけれど、もしかしたらアイツの言うことの方が正しいのかも知れないな)
この時、彼は気付いていなかったが、近くの茂みにはちょきんぶぅが身を潜めていた。そいつは英一やミカの監視を続け、願い事を売る隙を伺っているようだ。
そのことを知るや知らずや――――英一はそいつに魂を売らぬよう、自分の胸に言い聞かせていた。
(いやいや、ここまで何も問題はなかったじゃないか。惚れた女一人幸せに出来なかったら、僕に男を名乗る資格なんかない。だから例え失恋することになっても、僕は絶対にミカの心を操り人形になんかしない)
彼はまだ知らない――――――この先に悲劇が待ち受けていることを。