家庭
二年前、黒髪の少女はまだ超能力者ではなかった。彼女の運命を大きく変えたのはまぎれもなくちょきんぶぅだったが、その前にも彼女の人生の歯車は狂い始めていた。
その少女の名は黒羽梨桜――――――この当時、彼女はどこにでもいる普通の十三歳の少女だった。
彼女の家庭は、お世辞にも裕福とは言えなかった。黒羽一家は、古いアパートの一室を借りて生活していた。彼女には脳卒中で家にこもっている父親がいたが、彼女の母親は彼にしょっちゅう離婚を迫っていた。梨桜の父親は心身ともに衰弱し、母親はそんな彼を見捨てようとしている。それが梨桜には許せなかった。しかし、彼女には実の母親を殴る勇気などない。
「お母さん。お金なら私が大きくなったらバイトするから。だからお父さんを責めるのはもうやめて」
彼女はただ、自分の身を犠牲にして母親を止めることしか出来なかった。
ある日の午後、梨桜の母親は仕事に向かった。その間、梨桜は黙々と部屋の掃除をしていた。母親が家の外で働いている今、家のことは全て彼女一人がしなければならない。そんな梨桜を見かね、彼女の実の父親――――黒羽直輝は言う。
「こんな生活、つらいだろう。ごめんな…………梨桜」
彼の声はしゃがれていた。直輝はまだ中年だが、彼の痩せ衰えた体はまるで老人のようだった。
「お父さんは悪くないよ」
「…………父さんは、梨桜のことも母さんのことも愛してる。父さんは二人の幸せを願ってる。だから、梨桜の望むようにしたら良い」
「私、お父さんと離れたくない」
梨桜にとって、父親はかけがえのない存在だ。彼女は一度掃除をやめ、直輝が横になっているベッドの脇に腰かけた。直輝は寂しそうな顔をしつつ、彼女を説得し始めた。
「梨桜…………幸せというのは、お金で買うものなんだ。世間は、幸せはお金ではないと主張するが、あんな戯言はルサンチマンの産物でしかないんだよ」
「ルサンチマン…………?」
「社会的弱者が強者に憎しみを抱くことだ。特に、戦争をしていた頃から倹約を美徳としてきた日本では、富が悪とみなされがちだ」
「お父さんを犠牲にした幸せなんか要らない。だから、もし離婚するなら、せめて私が働ける歳になるまで待って。そしたら、私はお父さんについていくから」
梨桜の意志は固かった。彼女には、実の父を見放すことなど出来なかった。
「梨桜は頭の良い子だ。母さんが金持ちの男と結婚すれば、梨桜も良い学校に入れる。未来のある人間は、金で未来を買っているんだよ」
「私には、お金で買える未来なんかない。お父さんが離婚してお母さんに親権が渡ったら、私は自殺するから」
「梨桜が死んだら、父さんは悲しいよ」
「お金で買えないから、でしょ? 私だって、お金で買えないお父さんと離れ離れになるのは嫌だ」
「やっぱり…………梨桜は父さんの子だね」
直輝はぎこちない愛想笑いを浮かべた。彼の硬い表情には、もはや生命力など宿っていなかった。
それから一週間もしないうちに、黒羽直樹は帰らぬ人となった。梨桜が彼の死に気付いた時、床には大量のカフェイン剤が散らばっていた。
式場には彼の親戚が集まった。その場には、梨桜の母親である黒羽千冬も居合わせていた。千冬は表向きでは直輝と仲睦まじい配偶者として通っていたため、死亡保険金も遺産も彼女が受け取ることとなった。梨桜はそのことに納得がいかなかったが、葬儀の間に声をあげるわけにもいかなかった。そればかりか、式場には彼女の言葉を信じる者などいない。
(死人に口なし…………だな。お母さんがどんなに白々しく献身的な妻を演じても、お父さんはそれが演技であることを伝えられない。お父さんは、なんであんな女を愛してきたんだろう…………)
梨桜は棺桶の中に眠る直輝の顔を見つめ、悔しそうな表情で涙を流した。
*
直輝の死を皮切りに、梨桜の住むアパートには三十代半ばの男性がよく訪れるようになった。彼は紅林茂――――直輝の生前から密かに千冬と交際していた男だ。
「俺がこれから君のお父さんになる男だよ。よろしくね――――梨桜」
彼は、高級レストランのウェイターのように物腰の柔らかい雰囲気を醸していた。梨桜は、初めて会った時からこの男のことが気に食わなかった。




