不穏な影
満月の浮かぶ夜空の下で、街は寝静まりかけていた。
静寂を乱すものは、指を折って数えられる程度の数の車の音だけだった。
一部の建物の照明と、夜光虫の群がる街灯の弱弱しい光だけが、夜の住宅街を照らしている。
小さなおでん屋の屋台もまた、夜道に迷う者たちへの道標の如くアスファルトを照らしている。
明かりと共にのれんの陰から姿を覗かせているものは、真っ白な湯気と灰色のスーツだ。屋台の中では、白髪の老人とスーツ姿の男性が話をしていた。
「最近、若いモンの間で妙な都市伝説が流行ってるようだねぇ……澤島の旦那」
「都市伝説というのは」
「いやあ、なんでも『ちょきんぶぅ』っていうらしくてね。娘がよく話しているんだ」
「へぇ…………ちょきんぶぅ、ねぇ。うちの生徒もよくそれについて話している気がするよ」
澤島と呼ばれる男性はそう受け答え、湯気をまとったつくね団子を少しだけかじった。つくね団子がまだ充分に冷めていなかったのか、彼はすぐに水を飲みほした。
店主は苦笑いを浮かべ、コップに水を注ぎ足した。
「これこれ澤島の旦那。まだ時間はあるんだろ? ゆっくり食べれば良い。そんなに急いでいたら仕事の疲れも取れないよ」
「これは失敬、それではお言葉に甘えて」
「それでさっきの話の続きだけど、なんでもちょきんぶぅっていう豚の貯金箱みたいな生き物に金を払ったクライアントは願い事を叶えてもらえるそうだよ」
「いつの時代も都市伝説は同じだね。やれ願い事だの呪いだの、話を聞いた人がどうのこうのと…………」
この日、二人は何の変哲もない日常を送っていたはずだった。
「まあまあ、仮にも澤島の旦那は教師でしょ? 子供の間で流行ってるものをつまらんと一蹴していては、つまらない教師になってしまうよ」
「釈迦に説法かな。俺は教師で親父はおでん屋じゃないか。まあ、一応続きを聞いてみるとするよ。親父、ビール一本」
「はいよ」
おでん屋の店主はビールの瓶を取り出した。
澤島はビールをジョッキに注がず、瓶の中身を一気に飲み干した。
「そんな勢いで飲んでいたらすぐ酔っちまうよ?」
「簡単に酔える方が安上がりだしちょうど良い。それより、話の続きは?」
「ちょきんぶぅ三大原則――――についてだよ。何でも願い事が叶うんじゃ、願い事を増やせとかどんな願いも叶えられる魔法が欲しいとか言い出す奴が出てくるし何でもアリになるだろう? 更には、大人の財力がちょきんぶぅに絡んでも大問題よ。そこで、ちょきんぶぅには三つのルールがあるんだ」
店主は、ちょきんぶぅ三大原則について説明した。
一、「願い事カタログ」にない願い事を叶えることは出来ない
二、叶えられる願い事は一人につき一つまで
三、ちょきんぶぅは未成年者にしか認識出来ない
「……まあ、適当な怪談話よりはちゃんと出来てるものだな」
「今の若い連中はネットでなんでもすぐ調べられるからねぇ。何でもかんでもすぐ粗探しされちゃうよ。簡単に反証されない都市伝説を作るなら、いっそ新興宗教を立ち上げるくらいの気持ちで矛盾をしらみつぶしにしないといけないねぇ」
店主は苦笑いを浮かべていたが、澤島はただただ呆れていた。
「それは若者を買い被りすぎだと思う。うちの生徒なんかは、ネットで流行っているものは神でも崇めるかのように盲信するし、SNSに平気で写真をアップするくらいにはネットリテラシーがないよ。昔と今の違いなんて、テレビを盲信するかネットを盲信するかくらいだろう」
彼は少し酔っているのか、少しばかり早口になっている。その口ぶりは、相手を大声でまくしたてようとする政治家のようでもある。
「そうかねぇ。俺は新しいものを使いこなせる若いモンを柔軟だと思うよ。変化に適応するのが早いというか、ね」
「いやいや、パソコンにせよ携帯にせよ、元からある機能を減らしているんじゃなくて新しい機能を追加しているだけでしょ? 俺たちはずっとキーボードとマウスだけで頑張ってきたけど、テクノロジーの進んだ今では機械は直感で弄れるモンになってる」
「相変わらず澤島の旦那は厳しいねぇ。ところでいつの間にかこんな話になっていたけど、何の話をしていたんだっけ」
「確か、『ちょきんぶぅ』の話――――」
そう彼が言い切る前に、彼の背後で大きな物音がした。
店主は青ざめた顔をしながら震え、澤島の後ろを指差した。澤島が振り向いた先には、さっきまで住宅街だったはずの瓦礫の山と砂煙と、この世のものとは思えない大きな怪物が居た。
「旦那! 早く逃げ…………」
――――その場には、二人の血にまみれた男性の亡骸と、建物や屋台などの残骸と、身長三メートルほどの巨体の鬼だけが残った。