かけがえのない人へ……
【キミが好き】
キミが好き
どこにいても 見つめてくれる
キミが好き
愛だの恋だの 考えることが
無意味に思えてくるよ
流れゆく時間に 取り残された場所から
誘い出して 楽しい世界に導いてくれた
喜びも悲しみも キミがいたから感じられた
この先、どこにいようが
どんな運命が待っていようが
この気持は変わらない
キミが好き……
キミが好き……
キミが好き……
私が この世の使命を終えて
遥かなる旅に出る 時が来たなら
この魂は きっと キミのもとへ
私にとって いちばんかけがえのない人へ――
【1】
イチコは空を見上げた。
1羽の鳥が、彼女の頭上を通り過ぎた。それは、太陽と重なり、黒い塊が強烈な光に飲まれ、見えなくなった。しばらくして、光から脱出したそれは、さっきよりも小さい姿となり、空の彼方へと消えてゆく。
「こっちだよ」
イチコは鳥の過ぎた方向を指した。
「どこに向かっているの?」
ミノカがやや不安そうな面持ちで訊いてきた。彼女は、イチコと同い年の少女だ。
「私にも分かんない。でも、行くべき道はこっちだということは確かだよ」
先ほどの鳥は、自分たちに行く方角を告げる天の遣いに違いないと、イチコは思った。
「さあ行こう。私たちの安住の地は、まだまだ先なようだから」
イチコは言った。彼女の後には、20人足らずの人が続いていた。イチコが住んでいたムラの人たちである。100人を超える人々が住んでいたムラだったが、先日、壊滅的な被害を受け、生き残ったのは今いる人たちだけだ。
「イチコ――本当にこの方向で合ってるの?」
ミノカはさらに訊いた。壊滅したムラを後にして数日。彼女たちは森の中をさ迷い歩いていた。食べるものもろくに持ち合わせてはおらず、その場で木の実や採取したり、小動物を狩って飢えをしのぎ、雨水や草の葉の水分で渇きを癒す毎日。さらに、いつ森の獣や強盗に襲われるかも知れない状況。不安が募るのは当然といえば当然だった。
「信じて。私がみんなを守るから」
しかし、イチコは明るい声で言った。そう言い切れる理由があった。
「だって、私、マオさまの後継者だもの」
イチコは胸に抱える大幣をぎゅっと握りしめた。それは、彼女が尊敬してやまない、祈祷師から託されたものだった。
「そなた、今日から、わらわと一緒に暮らしてはくれぬか」
イチコが祈祷によりムラを納める少女・マオの付き人となったのは、幼いころに彼女に言われたそんな一言がきっかけだった。
イチコはもともと、天涯孤独の身だった。両親や兄弟がいるのかどうかも知らない。赤子の時、森の中でひとり泣いているのを、ムラの人に発見されたのだそうだ。それ以来、ムラで暮らすようになったが、人々の中でも孤立していたらしい。というのも、イチコ自身が他の人たちに心を開くことができなかった上、ムラの人たちも、イチコのことをよそ者として扱っていたふしがあったためだった。
そんな彼女にはじめて優しい声をかけてくれたのが、祈祷によりムラを納める少女・マオだった。
イチコにとって、マオは姉のような存在でも、母のような存在でもあった。
しかし、なぜあの時、マオが自分を付き人にしたのか。イチコ本人も、最近まで分からなかった。
【2】
しばらく進むと、岩と岩の間のくぼんでいるところに、清流が見えた。
「川だ――」
と、イチコは呟いて、みなの顔を見渡した。みな、呆然としているようにも見える顔ときらきらした瞳で川を眺めていた。よっぽど感動しているのだろう。何日もろくなものも食べたり飲んだりせず、道なき道を歩いてきた彼らにとって、きれいな水の流れはまさに天の恵みであった。
「イチコ」
ミノカが声をかけた。イチコはひとつ頷いた。
「しばらくここで休憩しよう」
人々は川の水を飲んだり、岩場に腰をおろしたりして、思い思いにくつろぎはじめた。
もちろん、イチコも例外ではなかった。川に手を入れる。冷たい。水をすくって、ばしゃりと顔を洗い、またすくって今度は口へと運ぶ。ごくり、と喉を過ぎる音がして、彼女は元気を取り戻した。人々を導かなければならない立場上、疲れを見せないようにはしていたが、実は相当に疲労はたまっており、空元気だったことは否めない。このままいけば、元気のない姿をみんなに見せることになっただろう。ここでじっくり休んで、鋭気を養おう――とイチコは思った。
岩場に腰をおろして、イチコは上を見た。おおい繁る木々の枝葉の間から、わずかに青空がのぞいている。
(マオさま――)
イチコは心の中で語りかけた。あの空から、彼女はきっと自分のことを見つめているはずだ。
(私は本当に、マオさまのように多くの人を救う祈祷師になれるのでしょうか?)
みんなには自信ありげに見せているし、実際にそうなれると信じてはいるけれど、やはり彼女にもどこか不安が残っているのだった。
(まだまだだなぁ――私。こんな気持ちでいちゃダメですよね。だって、マオさまじきじきのご指名ですもの。頑張らなくちゃ)
イチコは不安がっていてはいけないと、自分に言い聞かせた。そして、思い出していた。自分がマオの後を継ぐことになった経緯。
それを語る上では、決して外せないある少女との出逢いがあった。
ある日の晩だった。
祈祷場で神と対話の儀式をしていたマオは、突然それをやめ、イチコに言った。
「そろそろ男どもが帰ってくるぞ」
男たちは総出で、隣のムラとの戦に赴いていた。
「――戦いの結果は?」
イチコはおそるおそる訊いた。
「安心せい。『勝った』と神は申しておる。それより、帰ってくる男どもと一緒に、あるおなごがやってくる。男どもはそのおなごを殺そうとするじゃろう。しかし、殺してはならぬ」
「なぜです?」
「その者はこのムラの救世主となり得るかも知れぬからじゃ。――イチコよ、急いで男どもに伝えてくれぬか。“その者を殺してはならぬ”――と」
「はい!」
イチコは祈祷場を出て、住民の集落がある場所まで急いだ。すると、マオの言葉通り、男どもは帰ってきていて、首領のイゾウが不思議な格好をした少女に剣を突き立てようとしているのが見えた。イチコはありったけの声で叫んだ。
「待ってください! その人を殺してはダメ!!」
かくして、少女はすんでのところで殺されずにすんだ。その少女は、名をトモエといった。どこから来たのか、どこに行くのかも分からない少女だったが、マオとは親友となってくれた。また、マオの予言通りイチコたちを救ってくれた。最後の最後で、ムラは壊滅してしまったが、それでも自分たちが生きていられるのは、トモエのおかげだ。
トモエとイチコにはそれぞれ、マオに託されたものがある。トモエには悪しきものと戦うための聖なる力。そして、イチコには祈祷師として生き残ったムラの人たちを助けるという使命。それは、いよいよ最期の時を迎えようとしていたマオのいわば形見のようなものであった。
「わらわのあとを継げ。そなたには素質がある。わらわと同等か、それ以上かも知れぬ」
イチコは、あの時に自分に語りかけたマオの声を、今でも頭の中ではっきりリピートすることができた。
【3】
「いたっ」
ふと、声が聞こえた。見ると、子供が川のそばで足を手で押さえていた。一行の中でいちばん年が若い男の子だ。
「どうしたの?」
と駆け寄ると、子供は足から血を流していた。
「ちょっと岩のかどで切っちゃったみたいで」
その子の母親が言った。
「それは大変だ」
イチコは近くの人に頼んで、木の葉を何枚か取ってくるように言った。
「ちょっと沁みるけど、我慢してね」
それから、その子の足を川に浸す。傷口から血が流れ出し、近辺の水が赤く染まる。子供は痛みに泣きそうになりながらも、必死にこらえていた。辛抱強い子だと、イチコは思った。さっきの人が、木の葉を何枚か手に戻ってきた。イチコはそれらを川の水で軽く洗い、1枚を口に含んで噛み砕き、彼の傷口に塗りつける。さらに、別の木の葉をその部分に当てた。
「しばらく押さえててね」
子供は言われた通り、木の葉を手で押さえた。
これでひと安心かな――と思って、ふと周りを見ると、人々の様子がおかしい。みな、硬直したように動かず、ひきつった顔をある方向に向けていた。
「みんな、どうしたの?」
イチコは訊いた。
「イチコ、やばいよ……」
ミノカがぼそりと言った。みなが見ている方角に目をやって、イチコもことの重大さが分かった。
何頭もの獣がグルルと低く唸りながら、こちらを睨みつけていた。血の匂いを嗅ぎつけたのだろう。
まさに、蛇に睨まれた蛙だった。誰も微動だにしない。イチコも例外ではなかった。こうなった以上、どうすることもできない。じたばたする間さえ与えられないのだ。とりとめもなく、さまざまな思考がぐるぐると駆け巡り、自分でも整理がつかない。
その中で、唯一自覚した思いは、みんなを救えなくて残念だなぁ――というものだった。
1頭の獣が、ウガアッと雄たけびをあげ動いた。イチコは終わりを覚悟した。
しかし、次の瞬間。獣の首元にどこから来たのか矢が突き刺さり、獣はその場に横たわって動かなくなった。
見ると、小高い崖の上――木々の間にたたずむ男たちの集団があった。リーダーと思しき若者の号令で、後の弓矢を持つ面々が、矢を放つ。それらは、獣たちをことごとく突き刺し、倒していった。残った獣も逃げ、いなくなった。
イチコたちはほっ、と胸をなで下ろした。
「大丈夫ですか!」
リーダーらしき青年が言って、崖を滑り下り、イチコたちのもとへと駆け寄った。
「ありがとう、助かりました」
イチコは青年に礼を言った。
「間に合ってよかった。私はヒブリといいます。この近くのムラに住んでいます」
「この近くにムラが?」
「ええ、太陽が昇る方角を少し行ったところが、私たちのムラです」
ヒブリはムラの方角を指差して言った。
「私はイチコ。私たちは、日の沈む方角からやって来ました。そこには私たちの住むムラがありましたが壊滅してしまい、新たな生活の場を探して旅をしてきたのです」
「それは大変でしたね。――分かりました。あなたがたをムラで受け入れてもらえるよう、首領に頼んでみましょう」
「本当ですか?」
「一緒に来てください。私たちはこれからムラに帰りますので。今日はもう、大猟ですしね」
「――大猟?」
「私たちは、狩りに出ていたところだったのです」
ヒブリは崖の上の自分のムラの仲間を振り返り、大きな声で言った。
「さあ、獲物を運ぶぞ!」
【4】
ヒブリの一行に連れられ、イチコたちは彼らの住むムラへとやってきた。
ヒブリはイチコをムラの首領のもとへと案内した。首領は穏やかな目をした老人だった。イチコの暮らしていたムラの首領とは、まるっきり反対の人間だと思えた。イチコのムラの首領は、腕っぷしは強いが独善的で他者を認めない傾向があった。
「えらく可愛いリーダーさんですな」
首領は微笑んで言った。温かで嫌味のない口調だった。見るからに10才程度と分かる背格好のイチコが代表者であることに驚いたと、率直に言っているのだろう。
「こないだ、今の立場に収まったばっかりなんです」
イチコは正直に答えた。
「それまでは何を?」
「先代である祈祷師の付き人をしていました」
「ほぅ――ちなみにあなたも、祈祷師としての力をお持ちなんですかな」
「まだ勉強中ですけど」
「しかし、人々を導くとなれば、ある程度神と対話する力が必要となってくるのでは?」
「そのへんは、先代の見よう見まねで――」
とてもじゃないが、マオほどのレベルが、今の自分にあるとは思えない。イチコは己の未熟さをひけらかしているようで、恥ずかしさに頬を掻いた。
「――それで、本題ですが。あなたがたが私たちのムラに移住したいと思っている、という話は、ヒブリから聞きました」
「はい。その通りです」
「どうしてですか。詳しく事情を聞かせてもらえますかな」
「はい」
イチコはこれまでのいきさつを話した。ムラが壊滅した経緯から、わずかに生き残った人々とともに新天地を探しているというところまで。すると首領は、意外なほどあっさりと、イチコたちの移住を認めてくれた。
「ただし、ひとつだけお願いがあります」
と、首領は続けた。
「何でしょう」
「このムラを治める巫女となってください。ちょうど、祈祷の素質がある人間がおりませんでな。将来的には、ムラのまつりごとを取り仕切るだけの力をつけてもらいたい」
「分かりました。まだまだ未熟な身ではありますが、頑張ってみます」
と、イチコは応えた。大役だがマオの弟子だったのだ。何とかやってみようと思った。
【5】
新たなムラでの生活が始まった。
しきたりや生活様式など、これまでとは異なる部分があるなど、大変なこともあったが、ムラの人たちは誰も親切で、それほど苦労することもなかった。
みな、生活に慣れるのに、それほど時間はかからなかった。
イチコは、祈祷場を当てがってもらい、そこで祈祷をはじめた。ただ、前のムラと違うところは、前のムラのように必要以上に特別視されることはなく、予言ができる力がある以外は普通の女の子として、ムラの人たちはイチコを扱ってくれた。イチコにとって、それはとても嬉しいことだった。マオのように、むやみに祭り上げられた結果、自由を奪われてしまうのではないかという不安もあったのだ。
しばらく経ったある日のこと。
「ねえ、ヒブリさんって、カッコいいと思わない?」
と、ミノカが言った。
「――へっ?」
イチコは気の抜けた返事をした。
「ヒブリさんだよ。男前なうえに、ムラの実力者として、みんなから尊敬されているし」
「まぁ――カッコいいとは思うけれど」
「でしょ? イチコの未来の旦那さんにピッタリじゃない?」
「――は?」
イチコはまた気の抜けた返事を返す。ミノカは拍子抜けしたような顔をした。
「お似合いだと思うのに」
「てか、男の人とお付き合いするとか、結婚するとか、まだ考えてもいないし」
「もったいないよ。イチコだってこのムラに来て早々、すごい立場になってるんじゃん」
「まだまだだよ。それにヒブリさんとは歳も全然違うし」
「歳の差なんて、関係ないって。それに、他の人たちも言ってるよ、お似合いのふたりだって」
「本当に?」
「もちろん。ヒブリさんって、このムラの首領候補だもの。みんなから認められてる立場のふたりが結婚するって、ごく自然なことなんじゃないかなぁ。マオさまとイッキさんみたいに」
イッキとは、イチコたちがもといたムラに住んでいた青年である。マオとは恋仲にあったが、祈祷によりムラを治める者は恋愛をしてはいけないというしきたりのために、ふたりは悲しい運命をたどることとなった。
「それにこのムラでは、祈祷師が結婚してはいけないというきまりはないし、あり得る話だと思うけど」
「そうかなぁ」
イチコもマオとイッキはお似合いだったと思っていた。けれど、自分がヒブリと一緒になるというのは、どうにも想像できない。
(結婚かぁ――)
だいいち、自分が男性と付き合ったり、まして一緒になるなど、これまで考えもしなかったのだ。
(いずれは自分も、そういう年頃になっていくのだろうか――)
と、イチコはぼんやりと考えた。
祈祷場を出ると、すぐそこに地面にうずくまっている少年の姿が見えた。しんどいのかな、とイチコは一瞬思ったがそうでもないらしい。地面の土を手に取り、一心不乱に眺めている。
(何をしているのかな?)
とイチコは思った。
「あの――」
イチコが声をかけると、少年は顔をあげた。イチコと同い年くらいの、あどけなさの残る子だった。
「何をしているの?」
イチコは訊いた。
「土を見てる」
少年は見れば分かるような返答をした。
「どうして?」
「面白いから」
「面白い?」
少年はそれ以上イチコには応えず、再び手元の土へと目を向けた。
「おーい!」
そこへ遠くから声がした。見れば、ヒブリがこちらに近づいてくる。
「おい、こんなところで何をしてんだ」
ヒブリは少年に咎めるような口調で言った。そして、イチコを見て、申し訳なさそうに言う。
「すみません。コイツ、俺の弟なんです」
「――弟?」
「名前をトワリといいます。ちょっと変わった奴でねぇ。迷惑をかけませんでしたか?」
ヒブリが言うと、トワリというらしき少年はむっとしたようにヒブリを見上げた。
「迷惑なんかかけてねぇよ。俺はただ土を見ているだけだ」
「それが迷惑だっていうんだよ。自分の行動が周りに妙だと映っていることに、ちょっとは気づけ」
「うるせぇ――」
「いいから立て。ここにいちゃ、イチコさんの邪魔になる。――どうもすみません」
ヒブリはイチコに申し訳なさそうに謝った。
「いえ、ぜんぜん……」
ヒブリはトワリを連れて去っていった。イチコは去ってゆくトワリの姿をじっと見ていた。確かに、ヒブリの言うように、変わった人だと思った。でも、どうしてだろう――なんだか妙に彼のことが気になった。
【6】
真夜中のこと。
トイレがしたくなったイチコは、木の陰の共用便所へと行った。
用を足し、帰ってくる道中、向こうに人影が見えた。
(誰だろう――?)
と、イチコは目を凝らした。よくよく見ると、それが誰なのか分かった。それは、昼間会った少年――トワリであった。
彼は、地面に座り込んで、空を眺めていた。
「トワリくん――って言ったよね」
イチコは声をかけた。すると、トワリは無表情で、ゆっくりとイチコの方を向いたが、何も言わない。
「何をしているの?」
代わりにイチコが再び訊いた。
「星を見てる」
トワリは短く答える。
「星?」
イチコは空を見上げた。すると、空には「うわ」と感嘆の声をあげるほど、満点の星空が広がっていた。
「俺はよく、夜中こっそり家を抜け出しては、ひとりこうやって星を眺めているんだ」
「そうなんだ」
「――別に俺のこと変だと思うんなら、それでもいいぞ。気にしないでくれ」
トワリはぶっきらぼうに言った。
「変だなんて思ってないよ。それより、教えて? どうして星を見ているの?」
するとトワリは、
「好きだから」
とやはり言った。
「どうして好きなの?」
イチコは質問を重ねた。好きなのは、おおよそ分かることだ。嫌いなのに、わざわざ夜な夜な出てきてひとり星を眺めるような物好きは、そうそういないだろう。
「……色々考えるんだ」
「何が?」
「この世界は、いったいどうなっているんだろう、とかさ」
「星を見ながら考えるの?」
イチコが言うと、トワリはぶっきらぼうに言った。
「さっきからそう言ってんだろ」
イチコは少しむっとした。トワリの側が説明不足だったのに、こちらがちゃんと聞いていないような返しをされるのは心外だ。
「なあ、俺たちがいるこの世界、どうなっていると思う?」
今度はトワリが訊いてきた。
「――え?」
「ほらさ、俺たち、この大地に立ってるだろ。星は空で流れている。昼になれば太陽が流れていく。どうしてそうなると思う?」
「この空を星たちや太陽が動いているからじゃないの?」
と、イチコは答えた。おそらくそう聞かれれば、大概の人はそう答えるだろう。
「そうじゃないとしたら?」
「――え?」
「本当は俺たちがいるこの世界が動いているとしたら?」
「まさか」
「どうしてそう言える?」
「もうひとつ不思議なことがある。空には数多なる星があるが、季節によってその配置は変わるだろ。それでも1年経てば、また同じ配置になる。どうしてそうなると思う?」
「それは……」
「太陽だって同じだ。出ている時間の長さは1年を通じて規則的に変わってゆく。不思議だと思わないか」
そう言われてみれば確かに不思議だと、イチコは思った。なぜそうなるのかと訊かれて、イチコには答えることができなかった。トワリはひとつの星を指差した。
「あの星からみたら、俺たちはどう見えると思う。俺たちが動いてるように見えないか」
「――確かに」
森の中を走れば、木々が流れるように見えるのと同じ理屈だ。どちらが動いているにせよ、見ている方は相手が動いているように見えるのだろう。
「俺たちは自分立っている場所が、世界の中心だと思ってしまう。でも、そんなこと絶対にない。だって、鳥は俺たちが飛べない空を、自由に飛び交っているし、海には魚が泳いでる。俺たち人間がまだ見ていない世界は、きっとたくさんあるんだ。まして、宇宙がどれほど広いかなんて、想像つかないや。宇宙から見たら、むしろ俺たちの方が、とるにたらないくらいちっぽけなものかも知れないんだぜ」
イチコは膝を抱えながら、トワリの横顔を見た。よくよく見ると、芯の通った凛とした顔立ちをしている。それから、再び夜空を眺めた。今まで星が空を動いているものだと当たり前のように思っていた。けれど、自分たちが動いているから、太陽や星が動いて見える、という可能性もあるのだ。
「――トワリくんってすごいね。そんなこと、考えもしなかった」
イチコはトワリに教えられた気がした。見方を少し変えるだけで、世界は様相を変えるのだ。
「こんなことばっかり言ってるから、変わってるとか言われるんだけどな」
「私は好きだよ。そういうの」
「ホントかよ」
「もちろん。もっと話、聞かせてほしいな。――昼間、土を見てたじゃない。あれはどうして?」
「話してもいいけど、あんまり面白くねーと思うぞ」
「いいから」
「しゃーねーなぁ」
取り繕うような言葉とは裏腹に、トワリは得意そうに説明を始めた。
「ひとことで土といっても、場所や環境で質感が違ってだな――」
イチコはそれをじっと聞いていた。どうやら、トワリはムラのみんなから敬遠されているようだが、本当はとても思慮深い人間のようだと、イチコは思った。ひねくれた態度も、子供っぽくて好感がもてる。イチコはどこか彼に、マオの面影を重ねていた。
【7】
それから、イチコとトワリは度々会って話すようになった。
トワリが興味をもつのは、身の回りで起こる現象の理由を理論的に研究する、いわば自然科学の分野だった。イチコの専門とは少し見方が異なるようだが、しかしまったく違うわけでもなく、トワリの話がイチコの神の対話のうえでの参考になることは多々あった。この世の自然な流れをありのままに見て、検証するという姿勢は同じだったのだ。イチコはトワリのことを同年代ながら尊敬したし、大事な友達とも思った。
はじめはムラの人間たちから遠巻きに見られていたトワリだが、徐々にひたむきさや博識さが評価されるようになった。それに、トワリの知識は、ムラの人たちの助けにもなった。土の研究は、田畑や土器づくりへのよりよい土選びに役立ったし、星の研究は森から帰る際の道しるべとなった。兄のヒブリは勇気と判断力があり、リーダーにふさわしいとされていたが、知性に欠けるところがあった。兄の欠点を弟が補うような形で、うまくバランスがとれていたのだ。ヒブリが首領になる頃には、トワリはヒブリの片腕として、ムラを取り仕切る立場になっていた。
イチコはイチコで、めきめきと祈祷師としての力をつけ、いつしかムラのまつりごとすべてにかかわるようになった。実際の政治はヒブリやトワリに任せたが、この先起こることを予知し、どういう方策をとるべきかを彼らに伝えるのはイチコの仕事だった。
首領としてムラの人たちをまとめあげるヒブリらと、ムラの行く末を予言することでよりよい道を提示するイチコ。ムラの平和は彼らにゆだねられるようになった。
年を経るごとに、イチコのトワリに対する気持ちは深まっていった。それはトワリの側も同じであった。互いが互いをかけがえのない存在だと認識するようになり、将来を誓い合ったのは、出逢ってから4年目の春だった。そのことをムラの人たちに打ち明けた際、誰もが驚いた。トワリはやはりムラの者たちからは変わり者とみなされていたのだ。どうしてあのなんかと? と訝る者もいたようだ。けれど、ふたりが仲良しだったことは、誰もが知っていることであったし、最終的にふたりの結婚を反対する者は誰もいなくなった。
ミノカなどは、祈祷場におしかけてきて、「本当にあの人でいいの?」と夜通し問い詰めたが、夜明け前になってイチコの心が確かなことを知るや、半ば諦めたようにおめでとうと告げ、そのままその場で横になって眠ってしまった。
かくして、ムラの人たちから祝福されながら、めでたく結婚したふたりであった。
【8】
時は流れ、イチコとトワリはふたりの子宝に恵まれた。男の子と女の子であった。男の子はヒブリの養子となって次期首領として、女の子の方は次期祈祷師として大事に育てられた。
さらに時は流れ――、
どのくらい経ったのだろう。
少女の頃や青春時代はとうの昔に過ぎてしまった。
これまで、色々なことがあった。別のムラと戦になったり、天災に見舞われたりなど、数々の苦難もあったが、何とか乗り越えての今があった。
彼女は、このムラの最年長者として、みんなから慕われる存在となっていた。顔には無数のしわが刻まれ、髪は真っ白になっている。
夫には先立たれてしまったが、最後までよき夫婦としてともに過ごしてきたと思う。トワリは、子供っぽいあどけなさを残しながらも、ひたむきな男だった。あの人以外に人生の伴侶は考えられなかったと今でも思う。彼との間にできた子供たちはそれぞれ、また子をなし、その子たちがあとを継いでいる。イチコはこれ以上ない幸せな日々を送っていた。
しかし、どんな幸せな日々であっても、終わりは訪れるもの――。
イチコは最期の時が近いのを感じていた。
彼女は、長年過ごしてきた祈祷場の神前に腰をおろしながら、ゆっくりとその時が来るのを待っていた。じたばたしても仕方がない。死は怖くない。もはや、思いのこすこともなければ、自分がこの世ですべきことも、もはやないだろう。イチコは、心を落ち着けお迎えが来るのを待った。
とはいえ、お迎えが来たとしても、分からないだろうな、と思う。彼女の目は、とうの昔に見えなくなっていた。何とか目を見開いてみても、眼前に映し出される景色はすっかりかすんで、ぼんやりとよどんで見えるだけだ。
その時、眼前がぱあっと明るくなった。驚いて目を開くと、びっくりするぐらいにはっきりとしたクリアな風景が見えた。それはきらびやかな光に包まれた空洞だった。そして、その空洞を泳ぐように、こちらに近づいてくる人の姿があった。
イチコは驚いた。それは、長年の間、決して忘れることのなかった人物、マオの姿だった。
マオは、ゆったりとした微笑みを浮かべながら、宙に浮かんでいた。
「イチコ、よう頑張ったの」
マオは両手でイチコの顔を押さえながら、優しく言った。
「もう安心してよいぞ。そなたの役目は終わった。さあ、わらわとともに行こう」
「行くって――どこへ?」
「遥かなる時空の果てじゃよ。そこにおる者は、まだ迷っておるはずじゃ。救ってやらんとな?」
「マオさま、その人って――」
イチコにはピンとくるものがあった。マオはこくり、と頷いた。
「そうじゃ。そなたもよく知る人物じゃ。わらわたちの親友じゃよ。さあ行こうぞ。その者の支えになってやるために」
マオはイチコの手を引いた。気づけば、イチコはあの頃のような少女の姿に戻っていた。目から涙があふれてくる。またマオと一緒にいられると思うと、彼女にはこれ以上にない感激が押し寄せるのだった。
マオがぐっとイチコの手を引っ張った。イチコの魂は、するりと身体を抜け、マオとともに遥かなる世界へと旅立っていった。
無数の星々が高速で流れていく。やがて、前方に白い点が見え、それが徐々に大きくなり、やがては自分の姿などいともあっさりと飲み込んでしまうくらい、巨大な光となった。実際、イチコはその光の中へと突っ込んでいくのだった。しかし、すぐそばにマオがいるからか、不思議と怖くはなかった。
目の前のすべてが真っ白な光に包まれた。けれど、それでもイチコは、マオの手を放さなかった――。
【9】
気がつくと、イチコはまた別な世界にいた。傍らにはマオがいて、真摯な目で何かを見つめている。イチコもその方を見た。
自分たちが今、どこにたどり着いたのか、すぐに分かった。
マオとイチコは、時空を飛び越え、別な次元世界に生きるある少女の心の中にいた。その少女が誰なのかはすぐに分かり、イチコは嬉しさにひとりでに笑みを浮かべた。なんと懐かしいことだろう。まさか、もう一度会えるなんて思ってもいなかった。
その少女の心の中は、悩みと葛藤で溢れていた。今にも押しつぶされそうだ。それはイチコも生前に経験した思いだった。しかし、ここを乗り越えられるか乗り越えられないかで、その後の運命は大きく変わるのだ。
「マオさま」
イチコは言った。マオはこくり、と頷く。
「分かっておる。今度は、わらわたちが助けてやる番じゃ」
マオはイチコの手をより強く握りしめた。イチコも強く握り返す。
「大丈夫。この世界は素晴らしい。きっと道は開けるから。信じて、ね、トモエ?」
今は荒れ果てていても、きっと大丈夫――。イチコは、鶴洲トモエの心の中で、そう語りかけた。